3  こうやって少しおどけるくらいが。



【寝たな】

 いつの間にか兄貴は僕の足下まで来ていた。

【この子は抱えすぎてる……中学生が背負うには大きすぎる】

 僕は奥から上着を持ってきて、真優に掛けた。

「それにしても、両親の不仲か……」

【ほーら。早速力を使うときが来たじゃないか。上野洋君よ!】

 そういえばさ、と兄貴。

【あの葬式の話はなんだよ。ツッコミどころ満載だぞ?】

 僕は咽せ……るのを気合いで耐える。真優が寝てる。とりあえず兄貴の首をつまんで外に連れ出した。

「なんでそれを知ってるの?」

【昨日同時に死んで今日葬式だっけ? なんなの? 馬鹿なの? 死ぬの?】

「うるせぃ!」

 それから兄貴はこう言った。それが世界の常識ですよ。という風に。

【俺ね、この猫から勝手に幽体離脱できるから】

 言っている言葉の意味を理解しかねた。

「兄貴、俺にもわかるように説明をしてくれ」

【つまり魂だけフラフラ飛んでいくこともできるわけ。お前の言葉もしっかり聞いてましたよと】

「もうなんでもありだね……」

【なんて言ったってオレだからな。この世のルールなどに従ってたまるものか!】

 この世のルールに従えないなら、いっそのこと成仏してくれないかなあ。

【ま、んなことより。どうすんだ。あの子】

 先ほどまでのテンションが嘘のようだ。この人の本質が全く分からないな。

「なんだっけ。俺の手にある力って」

【覚えとけって。不幸を移す力。誰かの抱えている不幸を、別の種類の不幸に変換できるんだ。そしてそれを、他の奴に移すことも出来る】

 なるほど。……分かったけど。

「でもさ、不幸を別の種類に変換って、結局同じことじゃないか? 同じ価値の不幸を背負って、彼女は救われるのか?」

 ほお。と兄貴は言って、僕の顔を見た。

【頭回るようになったんだな。昔は『おにいちゃーん』って言ってたお前が……】

「俺の質問というか疑問というか。答えてくれ。いや、俺は普通の会話をしたい」

 つまんねーやつ。はいどうせつまらない奴ですから会話をしましょう。

【それこそオレに分かるわけねーだろ。まあ、ただ言えることは――】

 もったいつけるなって。

【両親の不仲の程度はどれくらいなんだ。ってこと】

「なんだよ、それ」

 あのなあ。と兄貴はため息を漏らした。

【あの子の不幸の大元は両親の不仲なんだろ? で、お前の力は不幸を別の種類の不幸に変えられると。なら簡単だ。不幸の大きさを下げればいい】

 不幸の大きさを下げる。するとどうなる?

「……そうか! 変換する不幸の大きさが小さくなるんだ!」

【そうだ。それならあの子が背負うモノは少なくなるだろ?】

 善は急げだ。僕は早速不幸の大きさを下げようと……って。

「え? どうやって?」

 ああ、そんな冷たい視線で僕を見るな。

【……もう一度だけだからな。両親の不仲の程度はどれくらいなんだ?】

「そりゃ離婚寸前とか……?」

 そうじゃなくてえ! と兄貴はアスファルトの上を転げ回った。その様はもうなんか人間だ。猫なのに人間だ。どう認識すればいいのか未だに迷う。猫人間か、人間猫か。主体はどちらなのだろう。

【フゥーフゥー】

 激しく身体を動かして疲れたのか、兄貴は大きく呼吸をした。

【上野洋君】

 突然名前を呼ばれて驚く僕。お構いなしに言葉を紡ぐ兄貴。

【前言撤回するわ。やっぱお前は馬鹿だ】

「行けばいいんだろ。そんなことは分かってるんだ」

 ふむ。腕を組んで座り込む兄貴。

【分かってんじゃねえか。で、弟君はどうするつもりなのかな?】

「あの子の気持ちを伝えればいいんだろ。いや、俺が今感じているこの気持ちも、全部一緒に伝える」

 そうだな。と首肯する兄貴。

【明日は日曜日だ。どうせ家族は家にいるだろうし。どうにでもなるだろ】

「最後以外は同意する。どうにでもなるって、そんなんじゃ駄目だろ。俺はあの子の幸せを勝ち取るよ」

【勝ち取るなんてこと、簡単に言うなよ? お前一人であの子を救えるほど、問題は簡単じゃねえんだ】

 そうだ。勝ち取るなんてことはできないのかもしれない。そんな言葉は使ってはいけないんじゃないだろうか。なら、それなら、せめて。

「だったら、あの子が幸せになるきっかけくらいは、せめて俺が作ってやる」

 誰に、邪魔をする権利がある?

 親にだって、誰にだって、ない。ないんだ。

 あんなにも家族の幸せを願っている子がいる。両親が、母が、父が、バラバラになっていく。それを見つめることしかできない自分が嫌で、立ち向かおうとして、助けを呼んで、誰もいなくて。

 自分が逃げていることを知っている。知っているからこそ心の奥では思っているはずだ、

 元に戻して――

 その言葉が意味しているのは、在りし日の幸せだ。

 過去に存在したはずの、家族の幸せ。自分の居場所。笑顔の両親。

 それを取り戻すために、僕に話してくれた。

 それを取り戻すために、僕は会いに行くのだ。

 逃げたくない。そう涙ながらに話した真優は、まだ幼い子供だ。

 そんな子の希望として、僕は想いを託されたんだ。

「こんな俺でも、できることがあるならやってやる。そのための力なんだ」

 そう。誰にだって、幸せを享受する権利はあるのだ。

 それを素直に受け入れられない環境なら、変えればいい。そのための、力だ。

「絶対に」

 兄貴は僕を眺めているだけだった。

 何も言わず、何も問わず。いつもの兄貴とは思えなかったが、僕はそのことについて考えるのをやめた。この人のことはいつまで経っても理解できないだろうから。そんな気がする。

 それよりも、今は寝よう。明日のために、今は寝よう。真優の、未来のために。何をすれば、どう行動すればいいのか、全く分からなかったけど、たぶん大丈夫だ。上手くいく。

 僕はカフェに入って、真優の向かい側に座った。同じようにテーブルに突っ伏した。理由は分からないけど、少しでも真優の側にいてやりたかった。チラッと真優を見る。目元は赤くなって、ほんの少しだけ腫れている。そこにはまだ乾ききっていない涙の跡が残っていた。僕は手を伸ばして、そっとそれに触れる。湿り気のある何かに触れる。その瞬間、僕は何かを感じた。

 言葉では言い表せない、彼女の何かに触れたのだ。胸中を察することなんて、僕にはできない。でも、感じ取りたい。だからそこにある確かな熱に触れる。それを偽善と呼ぶなら、そう呼べばいい。そこに助けを求める人がいる。そして、自分には救える力がある……のかもしれない。単に、それだけだ。

 触れた熱を忘れないよう、僕はその感触を忘れないよう、それをちゃんと心に溶かした。溶かして、心に混ぜ込む。

 時計の音だけが響いている部屋で、僕の意識は次第に薄れていった。


「きゃあ――――」

 鼓膜を突き破るような音だった。声ではなく、音。甲高い、女の子の……。

「うわっ! 馬鹿、なんだいきなり」

 駄目だ。眠い。顔を上げようとすることもなく、僕は再び惰眠を貪ろうとした。

「いきなりはそっちでしょ!」

 うるさい。こちとら朝には弱いんだ。

「……て……起きてってばぁ!」

 右足の臑に激痛が走った。

「いってえ!」

 飛び上がろうとしてテーブルに膝をぶつける僕。

「いってえ!」

 二度目の痛みには耐えられず、目を開いた僕の目に映ったのは、怯えたように僕の服の裾を引っ張る女の子――真優だった。

「どうしたの?」

「アレ!」

 彼女が指を指した先には、椅子に座って煙草を吸っている佐伯さんがいた。何故か右頬が腫れているが、あの顔を見て間違えるはずがない。佐伯さんだ。

「朝起きたらあんな化け物みたいなのがぬうってこっちを覗き込んでたの!」

 早口で僕に捲し立てる真優。……この子本気で涙目だよ。

「真優ちゃん、あの人が佐伯さんだよ」

 数瞬、無言。のちに口を開いて。

「ちょ、え……、凶悪犯云々じゃなくて、人間ってより化け物じゃん!?」

 佐伯さん。遂に人間からレベルアップしましたよ。化け物だって化け物。

 となると、このカフェには化け物が二人ことになるな。

 そんなことを考えていると、佐伯さんは鋭い目付きを更に鋭くして僕を睨んできた。もはや佐伯さんの目が開いているのか開いていないのか認識できないほどだ。

「やっぱ化け物なんですか?」

「お前に用事ができた。今すぐ二階に行くぞ」

「生存権が危ぶまれるので断固拒否します」

「端っからお前の生存権なんてねえ。お前の親から言われて仕方なしに預かってるのは誰だと思ってるんだ。そしてお前は一度死んだようなもんだし。よって生存権などない」

 今日の佐伯さんは冴え渡っていた。痛いところを突いてくる……。

「最初と最後の言葉以外は同意します」

 僕らのやり取りを見ていた真優はキョトンとした顔で言った。

「意外と人間なの?」

「意外とって……はあ。どうしてこんな顔で産まれちまったかなあ」

 がっくりと肩を落として項垂れる佐伯さん。まあ初対面の中学生の女の子に色々言われるのは辛いよなあ。

「この顔がなあ。あとは完璧なのに……ってそうじゃねえ!」

 いきなり己にツッコミを入れる佐伯さん。

 横にいる真優はたぶん呆れている。僕が腕を絡めようとしたときくらいには呆れている。

「鬼の、いや違う。おれのいない間に女なんか連れ込んでんじゃねえよ!」

「自ら鬼って言った……やっぱ自覚あるんですね。っていうかアレですか。彼女ができても1ヶ月が限界だから嫉妬ですか?」

「…………」

 どうやら僕の言葉は佐伯さんの心を穿ったらしい。目元とおぼしき場所から一つの雫が垂れた。

「だってみんなおれより料理下手だし……無駄に綺麗好きだから掃除しない子嫌いだし……顔こんなだしぃい!」

 顔を上げるとそこには阿修羅像があった。いや見たことはないけど。

「あのさ……」

 服の裾をツンツンと引っ張りながら僕を見上げる真優。

 ――ああ、こっからの眺めいいなあ。

 あまり彼女の顔を注意深く見てなかったのだけど、結構可愛らしい。目がぱっちりとしている。そんな子の、上目遣い。何か心に来るモノがあった。

 まあ大前提として喋らなければ、なんだけど。

「そろそろ行かないの?」と、案外普通に聞いてきた。

「ん、デートだっけ? どこに行きたい?」

「そうだなあ」

 真優はニコッと笑って、僕に告げた。

「足もげろっ!」

 僕、何回足の甲を踏まれてるんだろうか。

「だからいてえって!」

「うっさい、行くよ!」

 手を引っ張られてカフェの外へと連れ出された。

 強烈な日射しを感じて、思わず僕は目を瞑った。

「暑いね」

 僕がそうポツリと漏らすと、彼女は同意するように手で自分の顔を扇いだ。

 そしてその扇いでいる手と逆の手は、まだ僕の手を掴んだままだった。

「デートだね」

「え?」

 自分で気づいてないのか。僕はブンブンと腕を振り回してみた。

 彼女はハッとして、パッと手を放して、パシパシと僕の腕を殴った。

「いつまで手を繋いでんの!」

 そりゃこっちのセリフです。

「そもそもさ、真優ちゃんは昨日のこと覚えてるの?」

 急に黙り込んで、静かになる真優。言い方を誤ったかな。

 怯えたように僕を見つめる真優。

「嘘、じゃないよね?」

「どういうこと?」

「あたし、全部、ちゃんと言った。けど、それなのに、これでまた裏切っ――」

「しねえよ」

 驚くくらいの早口で、僕は言っていた。

「怖がらなくていいんだよ。信じてみなよ」

 人を。誰かを。できないなら、せめて僕を。

「少なくとも、俺は真優ちゃんをここで捨てたりしてねえよ」

 ああ、やっぱこういうのは恥ずかしいや。

「だってデートまだだもんね?」

 うん。こっちの方が僕らしい。こうやって少しおどけるくらいが。

「……君がよく分からない。って、そうだ、名前っ! あんたの名前!」

 僕だって自分のことを分かってないのだ。会ったばかりの真優が分かったら驚きだ。

「上野洋」

 真優はアスファルトを見ながら、口で何度も僕の名前を言う。

 そして、顔を上げ。

「じゃあ、行こうか洋」

「呼び捨て!?」

「じょーだんだよ。いこっ」

 真優はまた僕と手を繋いだ。そして彼女が走るままに引っ張られる僕。

 まあ、彼女の家の場所を知らないから、いちいち聞くよりは楽なんだけど。

 それにしても――女の子と手を繋ぐなんて、いつからしてないだろうか。

 いつから……自分に嘘をついた。そもそも僕は兄貴や佐伯さんと違って、女の子にモテないのだ。そんなわけで、僕が女の子と手を繋ぐのは初めてだ。緊張する。だけどそれ以上に、この子の手は温かくて、なんだか僕はホッとする。そんな手の温もりを守るために、僕はこれから戦いに行くのだ。

 ただ感情をぶちまければいいだけだ。理屈とか理由なんて、そこには存在しない。ただただ、想いをぶつければいい。

 彼女がずっと抱えてきたモノ。それを聞いた僕が感じたモノ。

 親から見れば、僕なんてまだガキだろう。そんなことは知っている。何も知らないくせに、と言われればそれまでだけど。この子の涙を、両親は知っているのか。この子の悲しみを、両親は分かっているのか。少なくとも、僕は垣間見たのだ。見たからには、放っておけない。僕の前を走る真優を見て、決意する。

 ――やっぱ、勝ち取ってやる。

 そろそろだよ、と真優は言う。やっぱ女の子だ。真優は息を切らしていた。が、それ以上に僕はぜえぜえ言っていた。

「はあはあ、お前、はあはあ、体力、はあはあ、無いな」

「やめろ変質者。ってその恍惚そうな表情……気持ち悪いからやめて」

 ジロッと睨み付けてくる真優。その視線いいよー。凄くいいよー。

「できればもっと罵ってほしいんだけど、そろそろ戦場だ」

 ふう、と真優はため息を吐いて、ドアノブに手を掛けた。


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