二章  幸せのカケラ

 1  アイスクリーム



 薄緑色の芝生に寝っ転がって、わたしは目を閉じていた。さぁーと駆け抜けていく風の音や、その風に揺らされてカサカサと鳴る木の葉の音。わたしの身体に染み付いた草の匂いと外の空気とわたし自身の匂いが混ざって、なんだかとても……。

 こんな、意味のないことをしている――外で寝転んでいる中学生がどれだけいるのだろう。普通に考えたら少しくらいはいるよね。そんなことは分かっているんだけど、このよく分からない気持ちを抱えて、逃げて、何も見ないようにしている人間は、どれだけいるのだろう。

 今の家には、瑞原真優(みずはらまゆう)の居場所――わたしの居場所はない。居場所、というか、なんだろう。いる意味、かなあ。

 わたしのお母さんとお父さんは些細なことでよく喧嘩する。でも、その度に仲直りをしてきたのだ。大抵わたしが仲直りさせてきたけど……。だけどどうやら今回はかなり深刻なようで、二人ともお互いに全く口をきかなくなってしまった。今、わたしが家にいても。

 お母さんが喋るお父さんへの愚痴や文句を聞き、それをお父さんへ言いに行く。

 お父さんが喋るお母さんへの愚痴や文句を聞き、それをお母さんへ言いに行く。

 そのくらいしか、できることがないのだ。それに、言えと言われて言いに行っただけなのに、わたしが相手に怒られる。何故か断れない自分に対しての嫌悪感で胸がいっぱいになって、震えてるだけ。それが、その様子が、たぶん駄目なのだろうけど、更に相手の怒りを増幅させてしまう。大きな声で怒鳴られて、叩かれて。

 疲れてしまったわたしは、なるべく夜遅くに帰るようにしている。そうっと帰って、翌日の授業で使う道具を取って、すぐに家を出る。そして友達の家に転がり込んで、一緒に寝る。発達した文明というのは便利なモノで、お腹が空けばすぐにコンビニでおにぎりを買うことができる。そもそもお腹が減らないように昼ご飯を、学校で出される給昼を沢山食べておくのだ。そうすれば問題ないし、余ったパンやご飯なんてこそっとラップに包んでおけばバレない。どうせその日に食べるなら腐りはしないし、全く平気だ。

 平気なはずなのに、どうしてかわたしの瞼からつぅっと、一筋の涙が流れた。

 目をゴシゴシと擦る。

「行かなくちゃ」

 そう呟いたわたしは身体を起こす。

 そろそろ暗くなるから、人通りの多い場所に行かなければならない。人の少ないこの公園は、中学生が一人でいるには危ない。駅前や、そこにあるデパートとか、人の多い場所は確かに変な呼び込み(風俗とか)も多いけど、それ以上に普通の人が大勢いる。安全だし、時間は潰れる。そして夜を待って、家に帰って、また友達の家に行くのだ。

 今日は休日だから家に帰る必要はないけど、時間を潰す必要はある。

「行こう」

 繰り返している日々に気持ちが萎えないよう、わたしは自分を動かす意味で呟く。

 立ち上がって、歩き出す。

 公園から一キロほど歩くと、やっと人通りのある場所、交差点へと出だ。

 もう夕日は沈んでいて、細長い三日月が顔を出していた。星がチラチラと輝きだして、夜は辺りを染めていく。同時に、人工的な光が眩さを増してわたしの目を焼き尽くす。星だけじゃ、なんと頼りないのだろう。わたしはこちらの、人工的な光の方が安心する。どうしてかは分からないけど。と考えている間に、わたしはデパートの地下街に到着していた。そこに広がっている様々なお店を眺めるのは、結構好きだ。そうやって自分にいつも言い聞かせるけど、正直、一人でお店を回るっていうのは結構辛いモノがある。この言いようのない寂しさはなんだろうなあ。

 そこでいきなり、ぐぅとお腹が鳴った。わたしは一応女の子でもう十四歳だし羞恥心だってあるし……とりあえず恥ずかしい。周りにいる人たちに聞こえないだろうかと緊張しながら歩く。今日は土曜日で、学校が無かった。そんなわけで朝から何も食べてないのだ。

 ポケットから財布を出して、中身を確かめてみた。

「どのくらいあったっけかなぁ」

 五千円と、百円玉が三枚あった。

 お金を財布にしまったわたしは顔を上げた。わたしの目に映ったのは、アイスクリームを売っているお店だった。レギュラーサイズ三百円(税込み)。とカラフルな看板に書いてあった。ちょうど小銭が消えるお値段だ。

 ――食べたい。

 自分でも馬鹿だと思う。三百円あれば、おにぎり三つは買えるし大きな総菜パンを買うことだってできる。でも、アイスクリームが食べたい。甘くて冷たいアイスクリーム。

 考える。考えて考えて。そういうのを意味する言葉、熟慮というのだっただろうか。ううん。そんなことはどうでもいいんだ。わたしは一直線に歩いて行く。

「レギュラーサイズのチョコチップアイスをください」

「かしこまりました。三百円になります」

 さようなら。わたしの小銭達。唇を噛み締めながら、小銭を持つ手を震わせながら、わたしは三百円を出した。そんなわたしの様子を見て、店員のおばさんは眉をひそめた。

 いや、分かるけど。わたしが店員の立場だったら思わず声掛けちゃうけどさ。

「どうぞ」

 怪しい人を見る目つきでわたしを見る店員さん。甘んじてそれを受け入れようではないか。なんて自虐的なことを思っているけど、そんな気持ちを掻き消すくらいには魅力的なアイスクリームが差し出された。バニラアイスにチョコチップが混ざっていて……だから要はチョコチップアイス。近くにある椅子――買い物疲れしたときに休憩したり、煙草を吸ったりするためのような場所に座って、一緒に渡された、プラスチックの小さなスプーンを使ってアイスを一口すくった。それを口の中に入れる。……甘いっ。

 たっぷりと入っていたチョコチップが砕かれて、これまた甘い。バニラアイスの味もちゃんとする。このバニラとチョコチップの黄金比がたまらない。とか料理の批評家みたいな「つめたっ!」頭がきーんとした。アイスでなるとは思わなかった。こういうのってかき氷の専売特許だと思っていたけど、どうやら違ったようだ。

 本当に、冷たくて、美味しい。何故か火照っている身体に、染みる。

 時間の経過と共に、人は少なくなっていく。ちゃんとみんな、自分の居場所があるのだろう。普通のお父さんだったら帰って、家族とご飯を食べて、テレビでも見て寝るんだろうなあ。お母さんだったら、帰って料理作って、子供に食べさせて、お父さんが帰ってきたらまた料理を温め直して、食べさせて。子供だったら、……何するんだろ。

 そこでわたしの目からポタポタと涙が溢れた。子供だったら、どうするのか、当たり前のことが分からない。昔から両親の喧嘩ばかり見てきて、わたしは子供のときのことを覚えていない。甘えられたのかとか、そんなことさえ覚えていない。

 そんな優しい想い出を、知っているわけがないのに。たまにわたしは何かを、朧気な何かを思い出す。特に、こんなカップに入ったアイスを食べたときに。


 お父さんは買い物袋を片手に持っていて、もう片方の、大きな、ゴツゴツとしている手に引かれて、わたしは歩いていた。

「何か食べる?」

 前にいるお母さんが笑いながら振り向いて、わたしに喋りかけた。

 わたしは頷いてから少し考えた。その間もお母さんはずっと笑っていた。お父さんを見上げると、お父さんも笑っていて。

 そこには、確かに存在していた。柔らかくて、優しくて、そんな日常が。

 わたしは考えたあと、アイスクリーム、と答えた。家族三人で大きなデパート内をグルグル回って、アイスクリーム屋さんを見つけた。

 色んな色のアイスが並んでいて、わたしは悩んでしまった。お父さんが微笑みながら、じゃあ好きなの三つ買おうと言った。嬉しくて嬉しくて、わたしは何度もいいの? と訊ねた。なんの味だか忘れたけれど、わたしは三つ頼んだ。少しずつ三種類の味を楽しむ。わたしが一つを食べているときに、お母さんとお父さんも別の種類のアイスをゆっくりと食べていた。何しろ子供だから、わたしの食べるスピードは遅かった。それに配慮してくれたのだろう。

「おいしいねっ!」

 わたしは夢中で食べながら、そう言った。

「ちゃんと食べないと、こぼすぞ。あぁ、ほら、こぼした」

 お母さんからハンカチを貰ったお父さんが、わたしのこぼしたアイスを拭き取る。そのときだって、二人とも笑っていたんだ。

「食べたら、帰ってご飯にしようね」

 お母さんはわたしの目を見つめて言う。

「アイス食べたからって、ご飯残しちゃ駄目だからね? 今日は真優の好きなオムライスだよ」

「アイス食わせたのママだもんね? 大丈夫、残したら俺がぜーんぶ食べてやるからな」

 やったあ。わたしは言いながらお父さんの服の裾を掴んだ。

「アナタったらそんなこと言って……」

 ははは。とお父さんは笑いながら手をぱんぱんと叩いた。

 わたしはもったいないなあ、と思いながら最後のアイスを一口食べる。

 甘くて、冷たくて、それはとっても美味しかった。


 美味しかったのは、お父さんも、お母さんも、その中にいるわたしも、みんな笑っていた景色があったから。それは紛れもなく普通の家族だったからだ。夢か現実か、本当か嘘か、それさえもよく分からない、所々色褪せているセピア色の記憶。わたしにとってアイスクリームとは、家族の象徴みたいなモノで、だからアイスを食べると、わたしはこのセピア色の記憶を思い出す。

 昔を懐かしむように、想い出に浸るように。そして、今を悲しんで。

 そんな当たり前のことが、過去にはあったんだ。それを覚えているから、わたしは余計に辛い。お母さんもお父さんも、互いに傷つけ合うことしかできない。どうすればいいんだろう。なんて考えるけど、わたしには何もできないのだと分かった。だからわたしは逃げている。幸せだった過去があるはずの、二人の今を直視することができないから。わたしは弱い人間だ。本当なら、二人の子供であるわたしがなんとかすべきなのに。

 さっきから流れ出てくる涙を、止めようとする。

 逃げているだけのわたしに、泣く資格なんてないんだよ。そう自分に言い聞かせて、わたしは立ち上がる。わたしは食べかけの、溶けてドロドロになったアイスクリームをゴミ箱に捨てた。



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