一章

  よし、すべて無かったことにしよう。



 目が覚めると、僕は毛布を被って横になっていた。どうにも舌が乾いている。パクパクと口を動かしてから、ここは……? と訊ねた。すると、病院、という素っ気ない声が聞こえた。感じた気配は佐伯さんだったようだ。動かない身体で佐伯さんを見ようとして、やめた。

「……今は無理するな」

「今はって、どういうことですか」

「意識戻ったばっかで、その返しができたら十分。ホント、お前の生命力には、医者も驚いてる」

 確実に死んだと思ったのに。僕は生を諦めて、兄貴のところに行こうと――そうだっ!

「猫」

「あ?」

 ぬうっと佐伯さんの顔が僕の前に出てきた。うわあああ。

「変な顔するなよ」

「変な顔で近づかないでください」

「うるせえな、で?」

 怪訝そうな顔で聞き返してくる。

「さっき、俺の夢ん中に、猫が出てきたんです」

「ほぉー」

 ああ、身体が動けたら佐伯さんの頭を叩いてるのに。……阿呆だと思われている

「信じてくれなくてもいいんですけどね。俺だって信じちゃいねえ」

「こいつのことか?」

 首根っこを押さえられた真っ黒な猫が、金色の眼をした猫が、僕の目の前に現れた。

「そいつですっ!」

「にゃあっー」

 小さな腕を動かしてもがく猫に対して、佐伯さんはデコピンをした。

「あれ、佐伯さん猫好きだよね?」

「特に何をされたってわけじゃないんだけどな。なんか、こいつむかつくんだわ。この感じはなんだろう」

 またデコピンをして、猫を虐める。

「動物虐待は駄目ですよ」

 切なげな目でこちらを見つめる猫を同情し、佐伯さんにそう言っておいた。

「そもそも、そいつドコで拾ったんですか?」

 まさか夢の中から出てきていつの間にかこの部屋にいたとかそんなわけはないだろう。

「あぁ。救急車が駆け付けたときに、この猫、お前の側にいたんだってさ。そんで、お前の飼ってる猫だと勘違いしたみたいだな」

「どうするんですか?」

 もし本当にこいつが僕を助けてくれたのだとしたら、僕はこいつの面倒を見たい。

「まあ。何かの縁だしな……むかつくけど世話するわ」

【むかつくむかつく何回言うんだよ】

 どこかから、嗄れた声がした。

「そうそう。むかつくって言い過ぎ――え?」

「お前、誰に言ってんの?」

 佐伯さんがポカンとした様子で僕に問う。問われた僕もポカンとしていた。

「誰って……」

【オレだオレ】

 僕の偏見かもしれないけど、オレって一人称を使うのは大抵若い男だと思う。そして今聞いた声はやっぱり嗄れていて……オレじゃなくてワシの方が合っている。僕は咽せた。

「ね、ゴホッ、ゴホッ……ね、猫がっ! 佐伯さんっ!! 猫ぉ!!!」

「お前は何を言ってるんだ。にゃあにゃあ騒いでるだけだろ」

 僕の幻聴かもしれないけど、二回ほど、嗄れた声を聞いたんだ。嘘じゃない。いくら僕でも現実と夢や幻の区別くらいついているんだ。

【やっぱ直人には聞こえてねえか】僕は再度咽せた。

 ……佐伯さんを直人って呼ぶ人を、僕は一人しか知らない。

 上野一彦(うえのかずひこ)――僕の兄貴だ。

「あ、兄貴なのか!?」

「はぁ?」

 元々変な顔の佐伯さんが、どんどん化け物じみた顔に進化していく様を見ながら僕は考える。

 ……整理をしよう。

 猫が喋る。その声は佐伯さんに聞こえてなくて、僕には聞こえている。そしてその猫はどうやら死んだ兄貴っぽい。

 ――よし、すべて無かったことにしよう。

 僕は事故ったけど生きてる。それでオッケー。

「ごめんなさい。俺やっぱ疲れてるみたい。なんでもないです。俺、そろそろ寝ますね」

「そうか。まあそりゃ疲れるわな。じゃあこの猫連れて行くな。しっかり寝ろよ」

 佐伯さんは頷いて、持ってきたバッグに猫を放り込む。その間にも猫は喋る。

【オレの声が聞こえてないのかぁあ!!】

「うるせえ、騒ぐな馬鹿猫っ!」

【直人ぉお! こんな狭苦しいところに入れるんじゃねえ!】

 パタンとドアが閉まり、騒がしい声が消えたところで僕は目を瞑る。

 思考を停止させよう。明日になれば、すべて元通りだ。


 次に目が覚めると、僕の周りには大勢の人がいた。

「目覚めましたっ!!」

 若い男の看護師が真っ赤な目で叫んだ。そのあと、絶対無造作ヘアーだろうに、髪が妙に格好いい男の医師が僕の身体を触った。

「君、自分の名前は分かるかい?」単なる確認か。

「上野洋(うえのひろ)です」

「自分の年は?」大丈夫だって。

「十八歳」

「好きな女の子のタイプは?」僕は咽せた。

「なんでアンタにそんなこと教えにゃならんのですか!?」

 出せる限りの大声で文句を言ってやった。

「冗談だよ。それより、動ける?」

 指先を動かす。腕を上げてみる。足を動かしてみる。首を回してみる。

「大丈夫みたいです」

 僕がそう言うと、天然パーマ医者は看護師にテキパキと指示を出して帰っていった。刺されていることに気付かなかった点滴を外され、僕はおかゆを食べさせられた。っていうか、さっき佐伯さんと話してたのはなんだったんだろう。

 ――やっぱり夢だったのかあ。

 安心した僕はまたベッドに横になって、目を瞑った。寝よう。

 食べて寝る。そんな生活が続いた数日後、医者や看護師も驚きの異常な回復力を見せた僕は退院した。


 僕の住んでいる、このカフェに帰ってきた。僕は帰って来たんだ。

 大きく『カフェ・サエキ』と書いてあるドアにぶら下げられた木の板には、『CROSE』という文字が綴られている。本来は『CLOSE』なのだが、佐伯さんがスペルを間違ったらしい。ホント、佐伯さんらしいや。そして、佐伯さんがいないのは、好都合だった。『勝手に厨房のモノ弄るんじゃねえ』と佐伯さんに念を押されているけど、こんなときくらいはいいだろう。感謝の意を込めて料理でも作ろうと思っているのだ。

 ああ、早く入ろう。とりあえず入ろう。それからだ。

 勢いよく入って、最初に飛び込んできた光景は、太陽の光を浴びながらテーブルの上で寝ている猫達だった。

 微笑ましいじゃないか。

 そんな風に頬を緩ませた、次の瞬間だった。

【待っていたぞ】

 僕が微笑ましいと思った光景のあとにはとんでもないことが待っているようだ。

「あぁっ……!」

 僕はフラフラとよろめいて、その場にしゃがみ込んだ。

【どうした、オレの弟よ】

「あぁっ……!!」

 言葉にならなかった。

「俺の現実(リアル)がぁ! あぁっ……!!!」

 顔を上げた僕の前にいるのは人語を喋る猫。

 夢で見て、意識が戻った直後に現れて、そんなものは幻だと頭の片隅に追いやったはずなのに。

【オレはお前の、洋の命の恩人だぞ?】

 洋って、やっぱり、この猫は……。

「兄貴なのか?」

 猫はすぅっと目を細め、僕に問う。

【信じられないか? そうだな。それなら――】

 何を言う気だろうか。

【初恋は小学校六年生の時の隣のクラス】このクソ猫に向かって唾をかけた。

【ぎゃあああああ。目が、目がぁあ!!】

 ゴロゴロと床を転がりながら喚く猫……いや兄貴確定。

「分かった。信じる。でもなんで猫なの?」

【まだ目ぇ痛ぇし……。んー、たまたまだ】

 キョトン顔の僕に続けて言う。

【オレは事故で死んだ。でもな、ちょっくらこの世に未練があってさ、成仏できなかったんだよ。そんで、魂だけのオレは自由気ままにこの世を謳歌していたんだけど、ちょうどお前が死ぬのを見ちゃったわけ。まあさすがに、こんな弟でもたった一人の兄弟だから助けようと思ってさ。そう思ったら、たまたま側にいた猫に乗り移っちゃったわけ】

「そうなんだ……」

 神妙に頷きかけたところで、僕は首を振った。

「いや、それは分かったけど、なんで兄貴が僕の命を救えた? じゃなくて、どうして猫に乗り移れた?」

 色々と疑問は尽きない。

【説明するのめんどくせえ】

 うわあ、一蹴された。

「じゃあ質問変える。兄貴はそんな性格じゃないはずだ」

 僕がそう言うと、猫はニヤリと微笑んだ。

【そりゃ、五年も生きてたら色々変わるだろ。いやあ、覗き放題だったぜ? 女風呂からラブホまで……】

 僕はすたすたと調理場まで歩いていき、包丁を手に取った。若くして死んでしまったからとかそんなことはもう関係ない。兄貴がここまで地に落ちるとは思わなかった。

「兄貴、俺が今成仏してやるからな」

【そういう展開は要らないぞ?】

 いつの間にか隣に来ていた兄貴は僕に告げた。

【あのな。人間にはそれぞれ役割があって、それを全うするだけなんだよ】

 役割、ねえ。

 僕はすたすたと歩いて行き、椅子に座った。

 それぞれ役割がある。何か、僕にもあるのだろうか。

 お前の役割だ――

 パチンと音がして、夢から覚めたような感覚を覚えた。

「そうだっ! お前夢でなんか色々と言っていたけど、あれは何っ!?」

 薄い眉毛のような毛をハの字にさせて兄貴は言った。

【まず一つ。一応オレお前の兄貴。兄貴に対して『お前』って! こんな姿でもお前の兄貴だよっ!? 兄ちゃん泣いちゃうよ?】

 無言で先を促す。

【ああはい分かりましたよ。お前の右手、不幸を移せるから】

「はあ?」

 意味が分からないという顔をしているであろう僕に対し、兄貴は更に続ける。

【夢で言っただろ】

 ……誰かの不幸を解き放つ力。不老不死。

【生き返る代わりに、肉体的な成長は止まる。だからお前の周りの人間が年を取っても、お前はずっとそのままだ】

「それは、それが、俺の役割なの? 有り得ないような現象を、俺に信じろっていうの?」

【人にばっかり聞く奴だな。誰かに自分の意思を捧げるんじゃねえ。信じる信じないはお前で決めるんだ】

 珍しく叱るような口調で言い、僕は何も言えなくなった。しばらく、無音が空間を支配した。

「俺は、信じる。現象じゃなくて、兄貴をだからな」

 金色の双眸が僕を睨んでいた。

【ぜんっぜん変わってねえし。オレを信じるとかそうじゃなくてだな……まあいい。どうせお前はその力を使うんだ。そのときになれば分かるだろ。お前の役割だ】

「その断定口調はなんだよ……?」

 兄貴はへへん、と口元を歪め笑いながら言う。

【そうなっているから】

 意味が分からない、と言おうとしたところで、チリン、と外で鈴の音が鳴った。扉が開いて、佐伯さんの顔が見えた。

「帰ってたのか。残念だ」

 はいまた意味が分からなーい。

「残念ってどういうことですか」

 佐伯さんは、口元を歪め笑いながら――デジャビュ?

「食費高ぇし学費高ぇしおれとしてはそのままポックリ逝ってくれた方がよかったのに」

【いいないいなもっと言ってやれ】

 この二人は根本的なところが似ている。特に僕に対する接し方が似ていると思う。

「もー酷いなあ。あぁ!」

 パン。とわざとらしく手を叩いて僕は言う。

「それよりこの猫の名前どうします。いやもう考えてあるんですけどね」

 どんな名前だよ。と佐伯さんは目で訊ねる。

「一彦ってよくないですか?」

 佐伯さんはピクッと眉を動かし、兄貴を睨み付けた。

「なんであの馬鹿の名前を冠する必要ある」

「なぁんかこの猫、兄貴に似てませんか? 兄貴に対してできなかったこと全部こいつにすりゃあいいんですよ。佐伯さんだって色々あるでしょ? 兄貴に対してさ」

 悪人になっていく自分に酔いしれそうだ。

【馬鹿野郎っ。ここでのオレの居心地を悪くするんじゃねえ】

 プルプルと震えている兄貴に聞こえるように僕は言ってやった。

「一彦って名前でいいですよねえ!」

「おれが感じていたこのむかつきは馬鹿に対してのモノだったんだな。この猫は似すぎている。むかつく、むかつくが、捨てるのはおれの猫道に反するからな。ちゃんと飼って……」

 猫道ってなんですか。

「ちゃんと飼って憂さ晴らしするからな。一彦」

 凶悪犯もびっくりの悪魔の微笑み。先ほどよりもガクガクと震えている兄貴に対して、僕は小声で告げる。

「さあ、今日からまた三人の楽しい楽しい生活が始まるよ。俺も面倒みてやるから」

 色んな意味でね。

「まあ、とりあえず今日はお前の祝いだ。飯食いに行こうぜ?」

「食費、高いんじゃないんですか?」

「行きたくないの?」

「是非行きましょう」

 上着着てこい。と佐伯さんは言って、車を取りに行った。

【あの、オレの飯は】

「知らない」

 ああ、もっと悪人になっていく僕。こんな姿になった兄貴と関わったばかりに心がどんどん汚れていくんだ。あぁ……。

 頭を抱えて蹲る僕を冷ややかな目で見つめる兄貴。

【一人で芝居して楽しいか?】

「なんだろう。悪人になっていく自分に酔いたいときってあるじゃん」

 奇妙な人間を見る目で僕を見ないで欲しい。だってアンタ、猫だよ? 人面猫にそんな目で見つめられた僕は一体どう反応すればいいんだよ。是非とも僕は対応の仕方を教えて欲しいと【可哀想な奴】……猫になった人間が言うなってば。

 ブルンブルンと車の音がして、佐伯さんが店に入ってきた。

「おい、上着着たのか?」

 無駄なことを喋っていて忘れていた。

「すいません。今着てきます」

 僕は住宅部分である二階に上がって、急いで上着を羽織る。一階に戻ってみると、佐伯さんがキャットフードをお皿に載せていた。

【おっしゃぁ! オレの飯!】

「ミィちゃんもケンちゃんも食べろよぉぉお。だがお前は食べ過ぎるんじゃねえぞ。この一彦(ばか)」

 フン、とそっぽを向いてカフェの隅っこに移動する兄貴。いい年して拗ねやがった。

「じゃあ行きますか」

 僕と佐伯さんは車に乗って夕食を食べに行った。


 そのあとの話。

 僕らが夕食から帰ってみると、兄貴が傷だらけになって店の前に倒れていたのだ。なんでも僕たちが店から出た瞬間、キャットフードを横取りしようとしたらしい。だが、待ち構えていたミィチャンとケンちゃんにボコボコにされて外に出されたという。グッタリとしている兄貴を抱えて僕は店に入った。

 ……扉が閉まっているはずなのに、どうやって外に出したんだろう。とか、色々と疑問が残るけど。

 それはまた別のお話ということで。



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