第44話 大門耕平の夢

 将来の夢は何ですか?


 小学校の卒業文集に記された質問。クラスの女子が描いたであろう可愛らしい雲の

フレームの内側は、僕のそれだけが空白のまま文集は完成された。


 僕の母は自分の子供に高学歴を求める、俗にいう教育ママだった。


 自分は私立の小学校に通えなかったから勉強の価値も知らない頭の悪い子たちにい

じめられた。大学も就職も、もっといいところに行けた。パパは好きではないけど学

歴が高いから結婚したいと思った。


 プライドで塗り固められた理想を、5歳児の子供に堂々と押し付ける人だった。


 「どうしてそんなことも分からないの!?」


 小学校受験を半年後に控えた家で、母は掛け算のできない僕の頭を叩いた。


 「もう半年まで迫ってきてるのよ!」


 父は、3歳の弟の面倒を見ると別室に避難している。2人だけで、大きくて真っ黒

で静かなテレビ画面に背を向け、積みあがった教材に挟まれる日々。


 苛烈な指導の末、迎えた小学校受験。


 結果は不合格。


 家のテレビの何倍も大きな板なのに、自分の受験番号が書かれていないのは何かの

間違いだと思った。しかし、これで母の執着は消える。諦めてくれる。優しいお母さ

んになってくれる。子供ながらに期待を膨らませていた。


 「まだ大丈夫よ。耕太(こうた)ちゃんがいるもの」


 弟の名を呼ぶ母の顔は、悪魔と形容するに相応しい笑みを帯びていた。


 叱責も落胆もない母親の眼差しは、目の前の大きな合格発表の板を突き破り、虎視

眈々と未来を見据えていた。


 「やだ! テレビみせて!!」


 弟は自分とは違い、母親の指導を素直に拒絶した。泣きわめき、テーブルをバンバ

ンと叩き、溢れる感情をそのままに訴え続けた。


 「私はあなたのことを思って言ってるのよ! どうしてわからないの! お兄ちゃ

んみたいになりたいの? 毎日、頭の悪い子たちと喧嘩して、ママたちに迷惑かけた

いの?」


 5歳の子供に向かって感情的に理屈を唱える母。彼女は、僕が喧嘩をする理由を知

らない。僕がクラスで母親の頭がおかしいと笑われて悔しかったから喧嘩した、なん

て事実を知らない。


 「いい加減にしろ」


 見兼ねた父は、母の頬を叩いた。僕の時は何もしなかったが、耕太は下の子で2度

も同じ過ちを犯していたことに腹を立てたのだろう。僕と違って、顔が良かったから

かもしれない。


 「何するのよ!」


 それからは声にならない声を発して暴れる母を、父がなだめた。その1時間弱の

間、僕は泣きじゃくる弟を抱きしめた。


 耕太も私立の小学校には合格しなかった。


 すると次は、兄弟をまとめて私立の中学に受験させると息をまいた。


 僕が5年生になったころ、父親の不倫が発覚し、離婚した。もともとお金には余裕

があったため、養育費を払うことには何の苦労もなかったらしい。最後に父が家を訪

れた日、僕らと離れて寂しいなんて気持ちはなく、むしろ解放されたような顔をした

父を見て、少し寂しい気持ちになったのを思い出す。そういえば、運動会には母方の

祖父母とお母さんしか来ていなかった。お父さんの家族は、誰も来ていなかったな。


 そこからは3人だけの生活が始まる。


 僕も耕太も、中学受験には落ちた。


 結果は同じであれ、しかし過程は全く異なる。


 僕は必死に机にかじりついていたが、弟は、トイレに行くと言っては逃げるように

外へ出かけていたり、母の言葉に揚げ足をとったり、とにかく反抗的な態度をとり続

けていた。


 「お母さん、次はちゃんといい高校に行くから」


 母は、精神疾患を患った。置物のように何も言わない日もあれば、僕の声に対して

「どうせ無理よ」と力なく言葉を放った数秒後に、目覚まし時計やテレビのリモコン

などを僕に投げつけ言葉にならない奇声を発しながら数分間暴れ続ける、なんて日も

あった。


 「耕太、今日も泊まりか?」


 「うん」とこちらを見向きもせずに、教師の機嫌を損ねるほどの長い髪を外の風に

靡かせながら玄関を閉めた。


 「兄ちゃん、いつまで続けんの?」


 「え」


 「あんなクソババア、さっさと見殺しにして楽になればいいのに」


 いつか、耕太の口から出てきた言葉。普通の兄貴なら、そんなことを言うもんじゃ

ないと怒るなり諭すなりできただろうに、僕はへらへらと調子を合わせるだけだっ

た。


 「あはは、いつまでだろうな」


 笑うことしかできなかった。


 それからは、身も心も枯れ枝のように生気を失った母と、家族に背を向けた弟の世

話をしながら、勉強をつづけた。最近流行りのテレビ番組やゲームで盛り上がる教室

の中でも、黙々とノートと教材を広げ、勉強し続けた。


 そして。


 「お母さん!」


 僕は意気揚々と、時の丘高校の合格通知を母の前に掲げた。


 すると、12時になっても寝間着姿の母は、僕に言った。


 「時の丘? そこは一番頭のいい高校なの?」


 思いもしない問いに、僕は戦慄した。


 「違う…、でも! 結構難しいところなんだよ!」


 いつものように、僕は笑った。作り笑いが得意になっていた。


 「生徒の自主性を重んじる点は全国屈指なんだ。これから社会に出た時のリーダー

シップを養うという点では他の高校よりも群を抜いているんだよ! そこで頑張れ

ば、きっと一番になれる…」


 「無理に決まってるじゃない」


 起き上がり、か細い両手で僕の胸倉を掴んだ。


 「そんなことでいちいち盛り上がらないでよ! このバカ息子! 失敗作!」


 金切り声で怒鳴り散らし、乱暴に僕を前へ投げ捨てると、その両手を覆ってうう、

と泣き始めた。


 「もうあなたには何も期待しないから」


 僕は何のために生きているのか、わからなくなった。






 高校に行かずに働くことも考えた。弟と母を本格的に養うために現実を見る時間だ

と本気で考えた。


 何もかもが自分のせいだと信じて疑わなかった。あれだけ勉強を頑張っても、母が

納得いく結果を得られなかった。僕が無力だったから父は家を離れた。僕が不器用だ

から弟は家族を嫌いになった。


 何が最善か、何が適切か。そればかりを考えていた。


 『将来の夢は何ですか?』


 僕は現実から目を背けた。理想に目を向けた。


 僕なりに努力して手に入れた資格。そう簡単には手放せずに入った校舎。


 僕は何がしたい? どう生きたい?


 母の願いを叶えるためだけに頑張ってきた僕は、今では自分が何のために生きてい

るのかも分からなくなった。


 空っぽだった。


 友達も1人も作ったことがなく、誰に恋をしたこともない。人間関係に関しては何

一つ築き上げた例がない。


 母のせいで。


母が時間を奪った。


 そんな邪念を脳裏に浮かべては消し去る毎日。


 道しるべのない暗闇。


 そんな中、迎えた最初の中間テスト。


 筆記用具を忘れたことに気付いた。


 気付いたころには遅く、5分後には試験が始まるころだった。小さなころから人間

関係を作り慣れたクラスメートたちは、各々で友人の束を作る。


 身体中に戦慄が走った。


 何を今さら。


 僕は、怖くなった。


 何もしなくて、全科目0点のままでいいじゃないか。その先には夢も希望もないの

だから。退学になって、そのまま就職してもいいじゃないか。


 しかし、母親の顔が頭に浮かぶ。


 もう期待しないとは言われながらも、いつの日か再び期待してくれることをどこか

で信じていた。その証拠に、何とも表し様のない焦燥が全身を震わせた。


 「ふざけんなよ」


 腹の底に溜まっていた憎悪が、声になって出た。生まれて初めて、何かに対して強

い恨みを抱いた。


その相手は、自分自身。いくら努力しても報われない、大門耕平という正真正銘の失

敗作。


もうダメだ。


叫んでしまいそうだった。


限界状態の母のように、場を凍り付かせるほどの叫びが、喉元の、もうすぐそこまで

せり上がってきた。


直前。


シャープペンシルと、消しゴムが視界のど真ん中に伸びた。


「忘れてきたんでしょ? 使う?」


女子の声だった。慌てて鼻水と涙を頭部の内側に引っ込めて、顔を合わせる。


「あれだけ本気で勉強してたのに、凡ミスなんかで0点は勘弁だよね、大門君」


名前は確か、土屋陽菜乃。


 窓から差し込む光を鏡のように反射する黒い髪、白い肌。和装が似合いそうな顔立

ち。


 その顔が動いた。


 何の言葉も発することなく、にこりと笑った。


 「あ、あ、あ、ありがとう。ひっ、陽菜乃さん!」


 次は別の意味の動揺が僕を襲い掛かった。それも、さっきの恐怖とは比べ物になら

ないほどの緊張だった。思わず、下の名前で呼んでしまった。それにも動揺する。


 「うん、お互い頑張ろうね。一番は譲らないから」


 そんな僕の馴れ馴れしい呼び方を気にすることなく、依然として優しい笑顔を浮か

べた。


 将来の夢は何ですか?


 今なら、胸を張って答えられる。

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