曇り空で彩られる日々の概観

なんでこんなに下手なんだろうって、振り返りながら思う。


最近書き始めた『血と〜』も、なんだそれっていうタイトルだし、振り返って見てみてゾッとする。下手になってるとしか思えないし、僕はとことん独りよがりで、誰の事も少しも喜ばせることなんて出来ないんだと本当に絶望する。


時々見る誰かの作品は、とても自然で、当たり前のように面白い。評価されて当然だ。でも僕は違う。面白くも喜びももたらさない生き物。何の価値がある?


僕は人間の猿真似をしている化け物だ。何をやっても不自然で、異常で、不愉快にする。雰囲気が良くない、顔も良くない、臆病すぎる。頭のキレがもう少しよく、回転も早ければ適応もできたかもしれない。


最近はよく自殺を考える。喜びを感じられる能力すら、この変化の乏しい日々のせいか、年齢のせいか、失われつつあるような気がする。


周りは当たり前のように就職して、結婚して、子供もいる。それはめでたいことだ。素晴らしいことだ。それを続けることは簡単ではない。自分には逆立ちどころか、いや、よそう。下手な例えなんて、もう、本当に、意味が感じられない。


平気な顔して42.195kmを走ってるんだ。皆。所々遅れていて、倒れそうになっている人々がいるけれど、誰も見向きもしない。僕はスタートラインに立ってすらいない。あの頃は、いや今も逃げているんだ。自分にはできっこないと。


価値について色々考える。喜びのない人生にかいなどあるだろうか、と。ここに私を必要としてくれる人がいるだろうか、と。一つの確信がある。僕を失って悲しむ人たちは、必ず立ち直るだろうと。そして時々僕のことを忘れて、それなりの幸せに笑えるだろうと。それでいい。僕には得られなかった幸せを、貴方たちは享受する権利があるのだから。僕にはどうも、与えられなかったみたいだ。


僕は多分、交流がしたいんだ。人を喜ばせたいんだ。でも、才能も技術もない。おまけに唯一の取り柄だと思っていた病気になるほどの感受性の鋭さも、感性の豊かさも今は失われようとしている。今は猿真似をして、人の顔色を窺うばかりの本当の化け物だ。


挑戦を経て、心身を壊して、ただ今はそれなりの幸せを感じながら生きられている、そう見える人たちを見ると、素晴らしいなと思う。同時に自分には出来ないことを出来る人たちなのだなと本当に思う。


僕は車に乗れない。免許は持っているが、それは普通の人のフリをして必死で取ったものだ。初めて高速道路に乗った時は、僕は死ぬと本気で思った。やり直しの効かないリアルなマリオカートに誰が乗りたがる? あんな頼りない鉄塊にどうして喜びを感じられる? 一瞬で状況は変化し、誰も見えない、止まればクラクション。不機嫌になる指導員。パニックにならない方がどうかしていると思った。でもこの感覚も手垢まみれで、月並み以下で、話して面白いようなものでもない。面白くもない人間に面白い話が出来るわけもない。最近は記憶力も、言葉の感覚も、切れ味も落ちてきた気がする。


僕は何を頑張っているんだろう? 一体何冊のノートとボールペンを無駄にしてきたのだろう? 僕は何者になりたかった? ただ人間になりたかっただけなんだ。自然と人と話し、関係を築き、時々くっついたり離れたりを繰り返せるような、そんな人間に。


あの頃、何度も何度も言われた「使えない」

という言葉は、恐らく正しかったのだろう。確かに使えない人間は社会に出てほしくないだろう。もう若さは言い訳にもできない。努力はしているけれど、この世界は努力をする者のためにある訳じゃない。ただ存在するだけだ。幾つもの幸運を当たり前に飲み込んで成長してきた数少ない成功者が、「当たり前」を沢山踏み躙って自分の努力のお陰とするのだ。


僕は弱者だ。心根も暗く、ネジ切れている。描いている作品も他にダブってくれる人がいない。異常な恥ずかしい作品ばかりで、おまけに文章が耐えられないほど不味いときている。どうしようもないレベルだ。


僕に何が生み出せる? 何が残せる? あの人たちの「当たり前」にぶつかって、その高さと硬さに絶望する。ああ、なんて馬鹿な夢を思い描いていたんだろうって。


年齢を重ねれば自然と大人になれるんだと子供の頃はそう思っていた。でもそうじゃない。この世に大人なんていないんだよ。大人を演じることに疲れた人間がいるだけでね。


鏡をぶち破って、その先に行きたい。何もないことを分かっていながら、それでも仄かに期待してしまう。分かっている。自分に酔ってるだけなんだと。どうしようもない人間が下らない文章を投下して同情を得ようとしているだけなんだと。


僕は人間が怖い。怖くて怖くてたまらない。多分、いじめられる前からそうだったんだろう。


動物は好きだ。愛している。動物と心を通わせられた時は、本当に生きていて良かったと思える瞬間だ。


あと何日、何年生きられるだろう。生きる気になれるだろう。僕には才能がない。幸せになるために必要な、適応するという才能が。人間に心を許せるという才能が。仲間だと思える才能が。


仲間じゃないのなら、僕はなんだろう。あの日の、世界に対する底のない憎しみと怒りはどこに行ったのだろう。薬はそれすらも運んでいって、それは善意だろうか。


僕のような弱者でどうしようもない人間でも生きていていいんだって思えるような、そんな物語を描いてあげたいと、彼等の為に描いてあげたいと思っていたけど、どうも僕には出来ないらしい。やっぱり強者の方がよく売れるらしいし、面白いらしい。面白さも強者の特権だ。こんな媒体で彼等に申し訳ない。こんな情けない面白くない文章で申し訳ない。


誰かを幸せにするのにも、才能と技術がいるらしい。僕にはどちらも自信がない。


どうすれば他者に心を許せるだろう。仲間だと思えるだろう。彼らが僕を見て浮かべるきごちない微笑に、どうしたら怯えずに済むだろう。


それでも僕はまだ、生きていたいらしい。


どうしようもない。


そして書き終えて見返して、その精神性の稚拙さにまた絶望を覚える。


ただ、自分の描いた作品の中にも、心から好きだと思える物もあるんだ。誰からもいいねを貰えなくても。僕には響いたし、描いてくれてありがとうと本当に自分に感謝した。そう、自分だけには。


僕は生硬な絵というものが好きだ。カポーティの言葉を借りるなら、技術的に見るべきものがないことは明らかだが、そこには見るものの内側をざわつかせてしまう何かがあるようだと、特定の人間を揺るがしてしまう、そんな絵。そして何より、値段が付かない。そういう絵だ。


僕の描いているものも、そういう絵であったらいいと思う。生硬にすらなれていないとは思うけれど、そうなれたらいいと思う。いや、嘘だ。本当はもっと洗練された、美しい文章が書きたいんだ。そんな文章で構成された、豊かな物語を。書き殴りみたいな物じゃなくて。


……全然脈絡はないですが、最近読んでいる『美術泥棒』という小説は面白いです。ノンフィクションノベルなんですが、主人公がスイスアーミーナイフと助手の妻の感覚を頼りに次々と盗んでいく様は圧巻です。美術品の展示は、警備が厚くないから成り立つものなんですね。奪われることなんて、本来は想定していない。しているなら、あんな距離まで近づく事を許してはくれない。その善意につけ込んだ悪党……まあ悪党なのでしょうね。


良ければ読んでみてください。

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