人でなし

人でなしという言葉を聞いて、どんなイメージを抱くだろう? 僕はムヨムヨして、手塚治虫作品に出てくるような得体の知れない、ただ目と頭と口だけは確かに付いているという曖昧な黒い物体を思い描く。前置きが長くなったけれど、とどのつまりどこまで行けば『人でなし』となるのかどうかという話だ。


最近、「罪と罰」を読み返していて、何故今更になって読み返しているのだろうと思いながらページを繰っていて、不意にその理由に思い至る。


それは、人はどこまで駄目な存在になれるのかということ、そしてその評定は誰が何時下すのかということに僕は今関心があるのだ。


駄目になるという行為はそれ自体が快楽を孕んでいるものだと強く感じていて、自分の書くものにはどうしてもそういう、どうしようもないお馬鹿さんが沢山出てくる。水が染み出してくるように。世間ではそれを『人でなし』と呼ぶのだろうが、僕にはどうもそうとはとても思えないのだ。


ラスコーリニコフは多分、『人でなし』なのだろう。それを描いたドストエフスキーも、それに共感してしまう僕も。でもまあ、それでいいではないかと僕は思ってしまう。そもそも完璧に憧れている人間から出てきた願望の表出が、「あるべき人間像」なのだから。


学生時代、僕は色々な場面で色々な人から笑い物にされてきたし、その経験はどのカテゴリーでも起こってきた、まるで風刺漫画の一コマみたいに、必ず何処かで僕は道化者にされてきた。多分そのせいだろう、午後六時になると酒を買いにコンビニに出るたびに、「証明証」を持っていない自分に酷い不安を覚え、冷や汗をダラダラ流す。


「証明証」というのは、当時の僕の感覚で、それがないと人として認められない社会的な枠組みみたいなものだ。それは形を持たず、常に不文律という姿のない曖昧な感覚を帯び、ただある場合においてはその所持不所持が強烈に意識されて、持っていない者の存在を鮮明に浮き彫りにしてしまう、そういう鮮烈なイメージと感覚を僕は勝手に一人で覚え、コンビニの六時のシフトの店員さんと顔馴染みになりながら、「あ、レシート大丈夫です」も次第に言わなくなりながら、暗い道のど真ん中を歩く甲虫に感情移入しながら帰路についていた。


話を戻そう。結局の所僕は、どんな人間であっても「人間らしさ」を失うことなど出来ないのだろうという認識を、感覚として抱いているのだと自認する。ただ、まだそういう事を気にしてしまうということは、僕の意識の一部はまだ、『あるべき人間性』という化物みたいな存在に絡め取られたままだということだ。


こういう思いを、人に見られる危険性を踏まえた上で書き出すことが出来ているという事実が、自分が少しでも変われている証明になってくれているといいと思う。


『優しくあらなきゃ』とか、『良い人であらなきゃ』とか、思わなくていいんだろう。そういう作為は、程なくして見破られるものだし、必ず相手に伝わるものだ。


結局、どうしようもない自己を抱きながら、それでもそんな自分と自然と一緒に生きていく、そんな在り方に僕は落ち着くのだろうな。

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