テセウスの自転車
新宿の雑居ビルの一室。「神崎メンタルケア」のドアプレートは、さりげなく上品な真鍮色に輝いていた。壁一面の本棚、やわらかな間接照明、そして窓際に置かれた観葉植物。神崎雛が大切にしているカウンセリングルームは、都会の喧騒から切り離された静かな空間だった。
「本当に苦しいですよね」
雛は静かに言った。向かいのソファに座る中村さんは、小さくうなずいた。プロジェクトマネージャーとして働く彼女は、パニック発作に悩まされていた。
「電車に乗るたびに、また発作が起きるんじゃないかって。この前なんて、急いでいた会議の直前に...」中村さんは俯いた。「みんなに迷惑をかけてしまって」
「そんな時、どうやって対処されているんですか?」
「深呼吸をしたり、酔い止めを飲んだり...でも、全然ダメで」中村さんは苦笑いを浮かべた。「本当は、こんなの治さなきゃいけないのに」
雛はデスクの上に置いてある古い自転車のミニチュアに目をやった。
「少し違う見方をしてみませんか?」雛は優しく続けた。「完璧な自転車じゃなくても、今の状態でも乗れるんです。ギシギシ音がしても、ペダルが重くても、それはそれで一つの乗り方」
中村さんが困惑したように目を上げる。
「今のお話で言えば、パニック発作が起きそうな感覚とも、付き合っていけるかもしれない」
「でも、それじゃ治療になりません、よね? このまま悪いものを抱えたまま...」
「ええ、最初は慣れないかもしれません。でも、実は面白いことが起きるんです」雛は自転車のミニチュアを手に取った。「そうやって乗っているうちに、どの部分が特に気になるか、どこを直すと少し楽になるか、そういうことが少しずつ分かってくる」
「具体的には、どういう...?」
「例えば、電車の中での対処法。深呼吸や酔い止めを飲む、それ自体は良い方法です。でも、それを『完璧に効かなきゃいけない』と思うから、かえって緊張が高まる。その代わりに、『今日はちょっとドキドキするけど、それでも大丈夫』って感じで乗ってみる」
中村さんは少し考え込むように黙った。
「そうすると、意外と気づくことがあるんです。例えば、窓際の席の方が楽かもしれない。あるいは、音楽を聴きながらの方が落ち着くかもしれない。そういう小さな発見が、少しずつ乗り心地を良くしていく」
「でも、それって結局...逃げてることになりませんか?」
雛は穏やかに首を横に振った。
「無理に全部を直そうとしなくても良いんです。今日は少しペダルを軽くする。来週はチェーンを少し調整する。そんな風に、気になったところから、少しずつ」
「少しずつ、ですか...」
「実はこれには、面白いパラドックスがあるんです。古代ギリシャに『テセウスの船』という考え方があります。ある船の部品を少しずつ交換していって、最終的に全ての部品が新しくなったとき、それは元の船なのか、それとも新しい船なのか」
「それは...どちらなんですか?」
「答えは人それぞれかもしれません。でも、大切なのは、その過程なんです」雛は自転車のミニチュアを大切そうに手に取った。「まず今の状態を受け入れて乗ってみる。そうすると、自然と気づくことがある。直したい部分が見えてくる。でも、それは焦る必要のないこと」
中村さんは黙って、けれど何かを考えるように雛の言葉に耳を傾けていた。
「今週は、そんな気持ちで過ごしてみませんか? 完璧を目指すのではなく、ただ、今の自転車に乗ってみる。そこから見えてくるものがあるかもしれません」
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた──。
「先週、面白いことに気がつきました」
次のセッションで、中村さんは少し表情を明るくしてそう切り出した。
「寝る前に、先生の『テセウスの船』の話を考えていたんです。私の場合、新品の自転車を手に入れることばかり考えていた。でも、もしかしたら...今の自転車でも、行けるところまで行けるのかもしれないって」
雛は静かにうなずいた。
「それで、試しに...」
中村さんは、この1週間で試してみたことを少しずつ話し始めた。完璧な対処法を求めるのではなく、とりあえず電車に乗ってみる。その時の感覚に気づいてみる。少しずつ、自分なりの工夫を見つけていく。
「この前の会議の日のことなんですが」彼女は少し照れたように笑う。「また電車でドキドキし始めて...でも、『今日はちょっとドキドキする日なんだな』って、そう思ってみたんです」
「そうですか」雛は静かにうなずいた。
「そしたら、なんだか不思議で。今まではドキドキが怖くて、必死に消そうとしてたんですけど、『まあ、これはこれ』って思ったら...全部が嫌な感じじゃなくなってきて」
「何か変化に気づかれましたか?」
「ええ。普段より早めに家を出て、お気に入りの音楽を聴きながら、窓際の席に座るようにしてみたんです。実は、景色を見ているとちょっと気が紛れるって分かって」中村さんは少し考えるように言葉を選んだ。「完璧じゃないんですけど、なんだか自分なりの乗り方が見つかってきた感じ?」
雛は自転車のミニチュアを見つめた。
「古い部品を全部取り替えなくても、少しずつ調整していける。時には、その音さえも、自分の自転車の個性になる」
「そうなんです」中村さんは生き生きとした表情を見せた。「今朝なんて、ちょっとした成功体験があって。電車が混んでて、普段なら絶対にパニックになるような状況だったんですけど」
「ええ」
「イヤホンで好きな曲をかけて、窓の外を見て、『今日も私の壊れかけの自転車で行こう』って。そう思ったら、なんだか少し笑えてきて」
「笑えた、んですか?」
「ええ。変なんですけど。今までずっと『完璧じゃなきゃダメ』って思ってたのが、『これはこれでいいのかも』って」
「その感覚、大切にしていきたいですね」雛は優しく微笑んだ。「完璧な自転車を手に入れることよりも、今ある自転車との付き合い方を見つけていく。それが、意外と大事なことかもしれません」
セッションの終わり際、中村さんはいつもより肩の力が抜けた様子で帰っていった。
その日の夕暮れ時、雛はカルテに向かいながら、静かに微笑んだ。古びた部品と新しい部品が混在する自転車。それは完璧ではないかもしれない。でも、その人だけの、かけがえのない乗り物になっていく。
都会の喧騒が静かに部屋を包む中、小さな自転車のミニチュアが、柔らかな光を受けて輝いていた──。
読切 たきせあきひこ @puzzlepocket
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