批判は祈り
学術バー・アカデミア。東京の隠れ家的なバーは、師走の寒い夜にも、神聖な空気に包まれていた。古樹の香り漂うカウンターに並ぶボトルの群れ、そして柔らかなジャズが流れる店内で、ある研究発表が行われていた。
「先生の研究には重大な問題があります」
その言葉が、静まり返ったカウンターに突き刺さった。グラスを握る木村芽衣が、白い指を震わせている。二十代後半とは思えない、凛とした佇まいの女性研究者だった。色を特別に感じ取る子どもたちの知覚メカニズムを探る、彼女の五年に及ぶ研究が、今まさに批判にさらされていた。
普段はワイングラスとウイスキーの香りが漂うこの場所は、今夜、特別な研究発表会の会場となっていた。教授たち常連の提案で始まったという。形式張らない場所だからこそ、より本質的な議論ができるだろうと。
「このサンプル数では、結論を導き出すことはできません」
「特別な感覚を持つ子どもたちの現場を、先生は本当に理解しているのですか」
「安易な一般化は、かえって現場に混乱をもたらすことになりませんか」
次々と投げかけられる言葉に、木村の端正な横顔が引き攣る。自身の双子の妹が色の世界を特別に感じ取ることから研究を志した彼女の瞳が、みるみる潤んでいく。ワイングラスを持つ手が、かすかに震えていた。
タブレットには、特別支援学校での図画工作の光景が映し出されている。一見、ばらばらな色使いに見える。しかし木村は、そこに独特の美しさを見出していた。妹が幼い頃から見せてくれた、一般的な色彩認識とは異なる、特別な感性の形。五年の歳月をかけて、彼女が丁寧に紡ぎ出した発見。その研究に、今、容赦ない視線が注がれていた。
木村は一口のワインを口に含んだ。深い赤の液体が、彼女の研究対象である子どもたちの絵のように、独特の輝きを放っている。一般的には同じ「赤」でも、人それぞれに違って見える。その個性を否定するのではなく、その価値を見出したい。そんな思いで始めた研究だった。
山下正幸はカウンター奥の席で目を閉じた。この場面が、あまりにも見覚えがある。かつて自分も同じように、このバーで救われた日のことを思い出していた。
三年前の真冬の夜。色彩認知の基礎理論について、新しい発見を提唱しようとした矢先のことだった。数百のワイングラスを並べて色の識別実験を行い、自信に満ちた表情で学会に臨んだ。しかし、その自信は脆くも崩れ去った。
「先行研究の理解が決定的に不足しています」
「そもそも、その実験デザインでは結果を誘導しすぎです」
「学部生レベルの過ちです」
次々と浴びせられる言葉に、山下はただ立ち尽くすことしかできなかった。喉から出かかる言葉は、全て途中で途切れた。心の中で何度も叫んでいた。
「違う、私の言いたいことは、そうじゃない」
けれど、その思いは誰にも届かなかった。
その夜、山下は初めて「学術バー・アカデミア」を訪れた。カウンターに座り、バーテンダーが無言で差し出した赤ワインを見つめながら、虚ろな思いに沈んでいた。
カランカラン。
ドアベルが静かに鳴り、夜の九時を過ぎているというのに、新たな客が入ってきた。
「あら、こんな時間まで」
白髪を綺麗にまとめた女性が、心配そうな表情で声をかけてきた。日本の知覚心理学会を代表する研究者、村松教授だった。六十代半ばの彼女は、夫を早くに亡くし、一人で研究と子育てを両立させてきた強さと優しさを持つ人だった。
「先生...」
山下は慌てて目元を拭った。
「隣よろしいかしら」
教授の声は、熟成された古酒のように、不思議と心に沁みた。
バーテンダーが、教授の定番である赤ワインを注ぎ始めた。液体が描く放物線が、祈りを捧げる時の玉串のように、美しい軌跡を描く。
「私もね、約三十年前、若手研究者だった頃は違った形の心を持っていたの」
白髪を綺麗にまとめた村松教授は、ワインをゆっくりと揺らしながら、静かに語り始めた。グラスを包む指が、長年の研究生活で培われた確かな強さを感じさせる。ワインの香りが、祈りの場のような静けさの中に漂う。
「その頃、私は『批判は真理のためにある』と信じていた。容赦のない指摘こそが、学問を進歩させると。でも、ある時、一人の大学院生が私の前で泣き崩れたの」
教授は少し言葉を切った。カウンター越しに見える街灯が、雪の降る道路を柔らかく照らしている。その光が、まるで神前に灯る灯明のようだった。
「その子は必死に研究と向き合っていた。色彩認識の特異性について、二年間、毎日のように観察を重ねて。けれど私は、その心に寄り添うことなく、ただ論理の不備を指摘し続けた。その姿は、まるで...そう、願いを込めずに手を叩くだけの、形だけの参拝のようだったわ」
「神社でも、いきなり願い事を唱えないわよね? まず手を合わせ、心を整える。批判にも、同じような作法が必要なの」
教授は、グラスの中の深い色合いを見つめながら続けた。その瞳に、かつての後悔の色が浮かぶ。
「批判とは、本来、相手の研究の中にある真実を、より豊かに引き出すための営みのはず。だから私は『祈り』という言葉を使うの。相手の真摯な思いを受け止め、共により良い場所へ導こうとする、そんな祈りのような行為として」
あの夜の村松教授との出会いは、山下の研究生活を変えていった。批判を恐れることも、批判することも、もはや以前のような重さを持たなくなった。代わりに、研究という営みそのものが、真実を求める祈りのように思えてきた。
そして今、バーの中で、誰もが息を潜める。木村の研究には、確かに改善の余地がある。しかし、その根底には、特別な色彩感覚を持つ子どもたちの可能性を信じる、深い祈りがあった。それは、決して否定されるべきものではない。昔の自分と同じ苦しみを見つめながら、山下はゆっくりとカウンターから離れた。
「質問させていただけますか」
その声には、かつての鋭さはない。代わりに、神前で手を合わせるような、静かな敬意が込められていた。
「木村先生の五年に及ぶ研究には、私たちがまだ見出せていない真実があると感じています。特に、支援学校での観察から見えてきた、子どもたちの独特な色彩感覚について。従来の理論では説明できない、その発見の詳細を、もう少しお聞かせいただけませんか」
バーの空気が、確かに変わった。木村の凛とした瞳が、かすかな光を取り戻す。そこには、自身の研究に込めた祈りが、確かに届いたという安堵の色が浮かんでいた。グラスに注がれたワインが、彼女の妹が見せてくれた特別な色の世界のように、深い輝きを帯びて見えた。
相手を否定するのではなく、共に真実を求める祈りとしての批判。時に厳しく、時に優しく、けれど常に、相手の中にある光をより強く照らし出そうとする営み。それは、まるで神前で静かに手を合わせ、耳を澄ませるように始まる。
東京の冬の夜景が、「学術バー・アカデミア」の窓から差し込んでいた。木村の声が、新たな確信を帯びて響き始める。彼女の研究に込められた思いは、今、確かに届こうとしていた。
カウンターの上のグラス群が、街の光を受けて虹色に輝いていた。それは、まるで木村が研究する子どもたちの特別な色彩世界のように、美しく、深い真実を湛えているように見えた。外では、今年最初の雪が、静かに降り始めていた。
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