非科学的な催眠術

 蒸し暑い夏の日差しが照りつける中、一人の女性が私のカウンセリングルームを訪れた。彼女の名前は理恵だ。


「先生、私、不眠症なんです」


 不安そうな表情で彼女は切り出した。


「寝つきが悪くて、朝までなかなか眠れなくて。眠れても悪夢ばかりで...」


 理恵は、目の下に隈を作り、憔悴しきっていた。


「何か心当たりはありますか?」


 私の問いに、彼女はゆっくりと語り始めた。


「実は、半年前に婚約者と別れたんです…。他の女性と浮気していたことがわかって…。それ以来、裏切られた苦しさと自分への失望感から立ち直れなくて…。日々、人間関係でもコミュニケーションがうまくいかなくて、ストレスがすごいんです…」


 理恵は言葉を詰まらせた。


「自分なりに色々と試してみたんです。ヨガ、瞑想、ハーブティー…。でも、どれも効果がなくて。そんな時、公園で催眠術をやっている路上パフォーマーに出会ったんです」


 理恵は少しだけ興奮気味に話し始めた。


「その人、私の無意識に語りかけるんです。スッと深いリラクゼーションに誘導されて…。終わった後は、かなり気持ちが楽になったんです」


 私は、理恵の話に眉をひそめた。実は、私はかつて催眠療法の効果に疑問を抱き、科学的根拠に乏しい非合理的な療法ではないかと考えていたのだ。心理学を志した学生時代、そうした強い偏見を持つに至った経緯があった。


「ちまたの催眠術師は科学的ではありません。彼らの言うことを真に受けてはいけません」


 私は真顔で指導を始めた。


「無意識への語りかけなどと言われますが、そんなものは測定もできないし存在しないものとして扱わなければいけません。それに、催眠術ではなく催眠法と呼んでください。術という言葉は魔術的な印象を与えます」


 すると理恵は叱られた仔犬のように顔を伏せながら静かに言った。


「でも先生、催眠術は、催眠の技術、魔術は魔法の技術ですよね。催眠を魔法と言ってるわけでもないし、何がいけないんですか…?」


 理恵の言葉に、私はそれなりの衝撃を受けた。確かに、彼女の言う通りだ。私の偏見は、言葉の本来の意味を歪めてしまっていたのかもしれない。


 しかし、語りだした以上、私は自分の考えを改めることができなかった。


「催眠術で無意識に働きかけるなんて、非科学的な考えなんです。あなたの不眠症は、脳の神経伝達物質のアンバランスが原因でしょう。そういうことは科学で説明できるんです」


 私は早口でまくし立てた。


「大体、無意識なんて測定できないものを前提とした療法なんて…。そんなものはオカルトだ…」


 理恵は黙って私の話を聞いていた。しかし、彼女の瞳からは光が失われていった。私の言葉が、彼女の希望を打ち砕いていることに、私は気づいていなかったのだ。


「もう時間ですね」


 私はそう言って、初回のカウンセリングを終えた。理恵は重い足取りで部屋を後にしたように見えた。


 それから数日後、理恵から連絡があった。不眠症が悪化して、眠れない夜が続いているという。彼女の声は、とても弱々しかった。


 私は理恵を追い詰めてしまった自分の姿勢を反省した。クライアントの訴えに耳を傾けることの大切さを、私は忘れていたのだ。


 窓の外では、セミの声が響いていた。理恵との次回セッションに向けて、私は催眠療法の文献を開いた。理恵と向き合い直すために、私は自分自身の考えを改めようと考え始めていた──。


 次のセッションの日、理恵は憔悴しきった表情で現れた。


「先生、やっぱり眠れないんです。毎晩、彼の裏切りを思い出してしまって…。自分が価値のない女のように感じてしまうんです…」


 私は理恵の苦しみに共感した。


「辛い経験だったと思います。でも、その痛みから目を背けてしまうと、心の傷は癒えません」


 理恵は涙を浮かべた。


「どうしたらいいんでしょう…」


 私は、彼女の希望に従い催眠療法を提案した。


「催眠者は、意識的な防衛を緩ませ、無意識の感情へアプローチすることができると言われています。わかりやすく言い換えれば、催眠者はクライアントの無自覚な行動を促しやすくする技術を持っているということですね」


 理恵は理解しきれず、不安そうな顔でうなずいた。


「まずは催眠の技術を使って、少しずつ、そのトラウマと向き合っていきましょう」


 私は、パフォーマンスに過ぎないと思いながらも、彼女を催眠状態へと誘導し始めた。


「深く深呼吸をして、リラックスしてください。一つ数えるたびに、もっとリラックスしていきます。10…9…8…」


 理恵の表情が徐々に緩んでいく。


「3…2…1…」


「さあ、理恵さん。安心して。自分の内面を見つめてみてください。婚約者との別れの場面を思い出したら、ゆっくりと話してみてください」


 理恵は小さな声で語り始めた。


「彼が、浮気相手と一緒にいるのを見たんです…。なんだか私は、何も価値がない女なんだと思ってしまって...」


 涙が頬を伝う。私は、理恵の感情に寄り添いながら、そっと語りかけた。


「理恵さん、あたりまえのことですが、彼の裏切りは、あなたの価値を決めるものではありません…。まずは…」


 何度かセッションを重ねるうちに、理恵は少しずつ自信を取り戻していった。


「先生、この間は彼の夢を見たんです。でも、目が覚めた時、悲しくなかったんです。自分を責める気持ちも、怒りも、だいぶ薄くなっているんです」


 私は、理恵の変化を喜んだ。催眠療法で無自覚な心の流れが整うことで、彼女は自分の価値を取り戻しつつあるのだ。


 一方で、私自身は葛藤を抱えていた。かつては催眠療法を非科学的だと決めつけていたが、目の前の理恵の変化は確かなものだった。


「無意識の力を信じることは、科学的態度と相反するのだろうか?」


 私は自問自答を繰り返した。


 ある日、理恵が言った。


「先生、私、あの路上パフォーマーに会ったんです。先生のおかげで、今は自分の力を信じられるようになったって伝えました。彼も喜んでいましたよ」


 その言葉に、私は答えを見出した。科学的態度と、無意識の力を信じることは、矛盾するものではない。大切なのは、クライアントの変化を敏感に感じ取り、寄り添うことだ。


 理恵のセッションは、私自身の催眠療法観を大きく変えた。私は、無意識の力を尊重しながら、科学的な視点も大切にする、新しいスタンスを築き始めたのだ。


 秋の訪れを感じる頃、理恵は晴れやかな表情で語った。


「先生、私、新しい恋を始めたんです。自分を大切にしながら、相手とも素直なコミュニケーションがとれるようになってきました」


 私は、理恵の成長を心から喜んだ。そして、自分自身の成長も感じていた。かつての偏見にとらわれず、催眠療法の可能性を信じる勇気を持てるようになってきたのだ。


 そんなある日、理恵が再び不安そうな表情で話し始めた。


「先生、催眠療法を始めてから、自分の感情と向き合えるようにはなってきました。でも、まだ何か足りない気がするんです...」


 私は、理恵の言葉に耳を傾けた。


「どんなことが足りないと感じているのですか?」


 理恵は、少し考えてから答えた。


「自分の感情は受け止められるようになったんです。でも、今の彼との日々の中で、その感情を適切に伝え、行動に移すことがまだ難しくて...」


 私は、理恵の課題を理解した。催眠療法で感情に触れることはできても、それを日常生活で活かすことは別のスキルが必要なのだ。


「理恵さん、感情と向き合えるようになってきたことは大きな一歩です。でも、その感情を適切に表現し、建設的な行動に移すためには、アサーティブコミュニケーションの技法を身につけるとよいでしょう」


 私はそう提案した。アサーティブコミュニケーションとは、自分の感情や意見を率直に、しかし相手の感情も尊重しながら伝える方法だ。このスキルを使うと相手を責めずに建設的な対話ができるようになる。


 理恵は興味深そうに聞いていた。


「アサーティブコミュニケーションを学べば、感情に振り回されることなく、冷静に相手とコミュニケーションがとれるようになるんですね」


 私はうなずいた。催眠療法と並行して、アサーティブコミュニケーションも練習することを提案した。


 催眠のセッションの中で、理恵は様々な場面を想定して、アサーティブに自己表現をする練習を重ねた。


「気持ちを押し殺すのではなく、率直に伝えること。でも、相手を尊重することを忘れないこと。難しいけど、とても大切なことですね」


 理恵は、セッションを重ねるごとに自信を深めていった。


 そんなある日、理恵が嬉しそうに報告してくれた。


「先生、彼とオープンに気持ちを伝え合えるようになってきました。もちろん、時には意見が合わないこともあるけれど、お互いを尊重し合えるようになったんです」


 私は心からの喜びを感じた。理恵は、催眠療法で自己理解を深め、アサーティブコミュニケーションで自己表現の技術を身につけた。外の世界で、自分らしく生きる力を手に入れたのだ。


 一方で、私自身にも課題があった。初回のセッションで、催眠術に対する偏見から、理恵に攻撃的な態度をとってしまったのだ。私は、アサーティブコミュニケーションの重要性を理恵に説きながら、自分自身の言動を振り返った。


 次のセッションで、私は理恵に正直に話した。


「理恵さん、最初のセッションで私は、催眠術に対する偏見から、あなたの気持ちを尊重しない発言をしてしまいました。本当に申し訳ありません」


 理恵は驚いたように私を見つめ、それから優しく微笑んだ。


「先生、こうして正直に謝ってくださって、とても嬉しいです。先生も、アサーティブコミュニケーションを実践してくださっているんですね」


 理恵の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。私は、理恵に教えながら、自分自身もアサーティブに生きることの大切さを学んでいたのだ。


「理恵さん、あなたと一緒に成長させてもらっています。これからは、お互いの感情を尊重し合いながら、オープンにコミュニケーションをとっていきましょう」


 理恵はうなずき、私の手を握った。


「はい、先生。一緒に、もっと良い関係を築いていきましょう」


 私は、理恵との触れ合いを通して、人と心を通わせることの喜びを実感していた。カウンセラーとクライアントという立場を超えて、一人の人間として、対等につながり合えるのだ。


 それから数ヶ月後、私は公園を散歩していた。すると、以前理恵が話していた路上パフォーマーが催眠術ショーをしているのが目に入った。思わず足を止め、そのパフォーマンスを見守った。


 ショーが終わり、観客が去った後、私は彼に声をかけずにはいられなかった。


「すみません、実は以前私のクライアントだった理恵さんから、あなたの話を聞いたことがあるんです。あなたの催眠術ショーがきっかけで、彼女は自分の内面と向き合う勇気を得られたそうです」


 すると、パフォーマーは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「いえいえ、先生こそ、理恵さんに寄り添い、導いてくださったのでしょう。理恵さんの成長は、先生あってこそだと思います。でも、私のパフォーマンスがきっかけで、自分自身と向き合えた方がいるなんて、とても嬉しいですね」


 彼の言葉は、優しさに満ちていた。人を癒やし、成長を促すためには、このような明るさも必要かもしれない。改めて、そう教えられた気もした。


「今日はお話しできて、本当に良かったです」


 私は心からの感謝を込めて、パフォーマーに頭を下げた。彼はにこやかに微笑み返し、優しく手を振ってくれた。


 穏やかな日差しが、私の背中を包み込んでいく。一人ひとりのクライアントの物語に真摯に耳を傾け、共に歩んでいくこと。それがカウンセラーとしての私の使命なのだと、あらためて心に刻めた経験だった──。

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