鏡に向かって「おまえは誰だ?」

 健太は塾の自習室で、机に向かっていた。窓の外には、どこまでも続くビルの壁が見える。冷たい蛍光灯の光が、彼の表情を無機質に照らし出していた。大事な漢字テストが近づくにつれ、彼の心には不安が芽生え、日に日に大きくなっていた。


 健太は以前から自分に自信がなかった。学校での成績は芳しくなく、友達とも上手く話せない。そんな自分が、本当は何者なのか分からなくなることがあった。漢字テストへの不安は、そんな彼の自信のなさを更に際立たせていた。


 そんな時、隣に座っていた友人の弘樹が、ふとつぶやいた。


「なあ、健太。この前、怖い都市伝説を聞いたんだけどさ…」


 健太は、弘樹の言葉に興味をそそられた。普段の自分からは逃れられる、そんな予感がした。


「都市伝説? どんな話?」


 弘樹は、周りを確認してから、小声で話し始めた。


「鏡に向かって『お前は誰だ?』って問いかけ続けると、自分の存在が揺らいで、精神がおかしくなるんだって」


 健太は、半信半疑ながらも、その話に引き込まれていった。自分の存在が揺らぐという言葉に、彼は言いようのない不安を覚えたのだ。


「え、そんなことがあるの?」


「うん。でも、やっぱり怖いよな。自分の存在が揺らぐなんて…」


 その話を聞いた健太は、なぜか釘付けになっていた。自分の存在が揺らぐ。その言葉が、彼の心に妙な響きを残した。まるで、自分の抱える不安や自信のなさと、どこか繋がっているような気がしたのだ。


 実は、健太は最近、漢字の書き取り練習で似たような経験をしていた。同じ文字を何度も書いているうちに、だんだんとその文字が正しく書けているのか自信がなくなってきたのだ。


 塾が終わった後、健太は一人、教室に残っていた。大介の話と、漢字の書き取りの経験が頭から離れない。「自分の存在が揺らぐ」。その言葉の意味を、健太は自分の中で探っていた。


 そんな時、ふと教室の隅に全身鏡があるのに気づいた。都市伝説の話が、頭をもう一度よぎる。


「鏡に向かって、『お前は誰だ?』か…」


 健太は、まるで引き寄せられるように、鏡の前に歩いて行った。自分の姿が、鏡の中に映る。いつもの自分。でも、今はどこか違って見える。


 健太は、ゆっくりと口を開いた。


「お前は…誰だ?」


 その問いかけは、鏡の中の自分に向けられていた。でも同時に、健太は自分自身に問いかけているような感覚もあった。


 問いかけを繰り返すたび、健太の心には違和感が募っていく。鏡に映る自分の顔は、どこか遠くて無機質に感じられた。


 現実感が薄れていく。まるで、自分が自分でないような感覚。不安と恐怖が、健太の心を支配し始めた。


「な、何だこれは…? 怖い…」


 健太は、その場にへたり込んだ。都市伝説は本当だったのか。自分の存在が揺らぐ感覚。離人感。健太は、自分の中で起きている変化に、戸惑いを隠せずにいた。


 そのとき、背後から聞き慣れた声が響いた。


「健太くん、大丈夫?」


 振り返ると、そこには講師の優子が立っていた。いつもの穏やかな表情。でも、その目には心配の色が浮かんでいる。


 健太は、混乱した頭で、ゆっくりと口を開いた。


「先生…今、鏡を見ていたら、急に自分が自分じゃないような気がして…」


 健太は息を飲んでから続けた。


「それに、漢字の書き取りの時も、似たようなことがあって…」


 優子は、健太の不安げな顔に一瞬驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに理解したように頷くと、彼に歩み寄った。


「それは『ゲシュタルト崩壊』というものよ。鏡に映った自分を見つめ続けても、漢字を何度も書き続けても起こるのだけど、脳が普段とは違う方法で情報を処理しようとするから、そんな風に感じるの」


 優子の言葉に、健太は少し落ち着きを取り戻した。ゲシュタルト崩壊、聞き慣れない言葉だったが、先生は良く知っている現象だったのだ。それが今の自分の状態を表しているのだろう。


「健太くん。私たちの脳は、見慣れたものをすぐに認識できるのはわかるわね。特に、毎日見る自分の顔なんて、パッと見ただけですぐにわかるはずよね」


 健太は、うなずきながら聞いていた。


「でも、自分の顔をじっと見つめ続けると、だんだん違和感を覚えるようになるの。細かいところが気になりだして、全体の印象がぼやけてくるのよ。これが、ゲシュタルト崩壊というものなの」


「どうしてそんなことが起こるんですか?」


「自分の顔を繰り返し見ていると、脳が慣れてきてしまうのよ。そうすると、いつもは気にならないような部分が目につくようになるの。そのせいで、顔全体の印象が崩れてしまうのよ」


 健太は、なんとなく理解できた気がした。優子の説明は、彼の体験とピッタリと重なっていた。


 優子は、健太の体験を丁寧に説明していった。自分の顔をじっと見つめ続けることで、脳が混乱し、自分の存在感が揺らぐこと。そして、それが「離人感」と呼ばれる感覚を引き起こすのだと。


 そして、漢字の書き取りでも同じようなことが起こるのだと。普段何気なく書いている文字も、意識して何度も見つめていると、全体の形が崩れて見えてくる。部分部分が気になりだして、全体としての文字がわからなくなってくるのだ。


「健太くん、さっきの離人感は漢字の書き取りの時のゲシュタルト崩壊と一緒よ。漢字の書き取りでも自信がないときは、辞書で確認するわよね。何度も書いたからといって、正しく書けるようになるわけではないし、むしろ、間違った書き方を覚えてしまう危険性もある。だから違和感を感じるのはいいことなのよ。わかるわね」


 優子の言葉に、健太は深くうなずいた。


「漢字も自分自身もゲシュタルト崩壊を感じるほど見つめることができたのなら、それは自分自身を上達させるためのサインかもしれないわ。一息ついて、本当の姿を知って、またコツコツと練習に取り組んでみましょう」


 健太は、裕子の言葉に深く共感した。自分と向き合い、正しい方法で努力を重ねることの大切さを実感したのだ。


「先生、今日は本当にありがとうございました。先生の言葉で、自分のことが少し理解できた気がします」


 健太は、優子に心から感謝の言葉を伝えた。優子も、健太の成長を感じ取ったのか、嬉しそうに微笑んだ。


「健太くん、きっとこれからの君は大丈夫よ。自分と向き合う勇気がどんどんわいてくるはずよ」


 優子の言葉は、健太の心に深く沁みた。自分と向き合う勇気、その言葉を胸に刻み、健太は教室を後にした。


 漢字テストの日、健太は自信に満ちた表情で教室に向かった。先生から教わったこと、自分と向き合った日々が、彼を大きく成長させていた。


 テストでは、一つ一つの漢字に向き合いながら、健太は丁寧に解答していった。どの文字も、彼の中でしっかりと意味を持ち、形を成していた。


 テストを終え、教室を出ようとした時、健太はふと廊下の鏡に目を向けた。鏡の中の自分は、以前とは明らかに違う印象を放っていた。


「お前は…健太だ」


 健太は、鏡に向かってそう呟いた。その言葉には、自分を見つめ、受け入れた者の強さと優しさが滲んでいた──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る