催眠を解くということ

 歌舞伎町の喧噪に紛れ、麻里はホストクラブから出てきたところだった。今夜も、ホストのケンジの甘い言葉に乗せられて、予算以上のお金を使ってしまった。財布の中身を確認すると、ため息が漏れる。このままでは、家賃も払えなくなるだろう。


「麻里ちゃん、今日も来てくれて嬉しいよ。君といる時間が、俺の生きがいなんだ」


 ケンジの言葉を思い出し、麻里の心は踊る。でも同時に、何かが違うという思いもあった。こんなことを繰り返していたら、いつか本当に破滅してしまう。そう思うと、胸の奥に重苦しいものがのしかかる。


 自己嫌悪にさいなまれながら、麻里は早足で路地を歩いていた。ふと、ガヤガヤと人の声が聞こえてきた。顔を上げると、大勢の人だかりができている。何事かと近づいてみると、一人の男が大道芸を披露しているようだ。麻里は人混みの中に溶け込み、しばらくその様子を眺めていた。男は巧みに手品を繰り出し、観客を魅了していく。


「さあ、次はお客さんの中から、催眠術の被験者を募集したいと思います!」


 男が高らかに宣言した。


 麻里は思わず手を挙げていた。自分でも何故そんなことをしたのか分からない。舞台の上に上がると、心臓の鼓動が早くなるのがわかる。大道芸人は、麻里の目をじっと見つめながら、催眠術をかけ始めた。手のひらに汗がにじむ。頭の中は真っ白になり、体も宙に浮いているような感覚だ。気づけば、麻里は深い眠りに落ちていた。


「はい、目が覚めました。まだ催眠が解けていない気がしても、催眠は一晩寝たら解けますから、安心してくださいね」


 大道芸人の声で、麻里は我に返った。頭がぼんやりとしている。拍手喝采の中、フラフラとした足取りで舞台を降りる。大道芸人にチップを渡す際、麻里はたまたま持っていたポチ袋を使った。


「まあ、なんて几帳面な方なんでしょう。ありがとうございます」


 大道芸人はにこやかに言った。


 麻里は照れくさそうに会釈をして、人混みをかき分けるようにしてその場を後にした。


 帰宅した麻里は、ベッドに倒れ込むようにして眠りについた。しかし、翌朝目覚めた時、何かがおかしいことに気がついた。無意識のうちに玄関で靴を揃えている自分がいるのだ。


「普段、こんなことしないはずなのに…」


 昨夜の大道芸人の言葉が、脳裏をよぎる。「几帳面な方――」。まさか、この行動は催眠によるものなのだろうか。


 日が経つにつれ、麻里の不安は募っていった。催眠が解けていないのではないか、自分はもう元には戻れないのではないか。そんな恐怖が、心を蝕んでいく。藁にもすがる思いで、麻里は催眠カウンセラーの神崎雛かんざきひなのもとを訪れた。


「先生、催眠が解けないんです。寝ても何をしても、おかしな行動が止まらないんです」


 麻里は必死に訴えた。


 神崎は麻里の話に耳を傾けると、静かに語り始めた。


「麻里さん、落ち着いて。そもそも催眠を解くというのは、催眠から抜けたと思い込ませる暗示を入れてるに過ぎないんです。麻里さんの意識状態は催眠にかかっていた時も今もそれほど変わっていないんです」


「でも、私は本当に変なんです。催眠が解けていないからだと思うんです」


 麻里の声は震えていた。神崎は首を振った。


「催眠にかかっている間も、あなたは常に自分の意思で行動していたんです。大道芸人の言葉は、あなたの無意識に影響を与えただけ。昔は潜在意識へ語りかけるなんて言葉で表現されていましたが、催眠は、単純に無意識の先読みを起こしているだけなんです」


「無意識の先読み…?」


 麻里は怪訝な表情を浮かべた。


「人間は、無意識のうちに自分の予想した通りの行動をとろうとする習性があります。大道芸人に几帳面だと言われたあなたは、無意識にそれを実現しようとしているのかもしれませんね」


 麻里は、はっとした。


「もしかして、私がホストクラブに通い続けているのも、無意識の先読みが関係しているんでしょうか?」


「そうかもしれません。ホストに貢げば喜んでもらえるという予測が、あなたの中にありませんか? その予測が行動を無意識に支配しているんです」


「でも、そんなことがわかっても、やめられる気がしないです…」


 麻里の声は、悲痛に響いた。神崎は麻里の目を見つめ、言った。


「麻里さん、あなたには選択する力があります。無意識の先読みに振り回されるのではなく、自分の意思で行動を決めていくんです。催眠が影響を与えると言われる潜在意識なんて、実体のない概念に過ぎません。大切なのは、あなたの意思なんですよ」


 麻里は、神崎の言葉の重みを感じ取った。自分の人生を、自分の意思で選択していく。それが、催眠を解く本当の意味なのかもしれない。


「先生、ありがとうございます。私、自分の人生と向き合ってみます」


 カウンセリングルームを後にした麻里の心は、新たな決意に満ちていた。


 数週間後、麻里は再びホストクラブを訪れていた。だが、今回は目的が違う。


「ケンジ、もう来ないよ」


 麻里は、静かに、しかし強い口調で告げた。


「えっ、どうして? 俺、麻里ちゃんのことが本当に好きなのに…」


 ケンジは驚いたように言った。麻里は微笑んだ。


「ケンジの優しさ、嬉しかったよ。でもね、それはお金で買えるものだってわかったの。私、自分の人生を自分で選んでいきたいんだ」


「そんな、俺の気持ちは本物だよ。信じてくれないの?」


 ケンジは必死だった。


「麻里ちゃんがいないと、俺、生きていけない」


 麻里は静かに首を振った。


「ケンジ、あなたの仕事は、女の子を特別な存在だと感じさせることだし、それは本当の愛情じゃないってわかってる。私は、もっと自分らしく生きたいの」


「でも、俺たちの思い出は…」


 ケンジの声は震えていた。


「大切な思い出だよ。でも、それだけじゃ生きていけない。私は、自分の人生を自分の手で切り開いていきたいの」


「うーん、じゃあ、最後くらい、豪華にお別れしようよ。シャンパンタワーを作ろう」


 麻里は驚いた。


「シャンパンタワー? そんな贅沢なことできないよ」


「いいじゃないか。最後の思い出に」


 ケンジは強引に笑みを浮かべた。麻里は少し考えた後、静かに言った。


「ケンジ、私たちの思い出は、シャンパンタワーみたいな派手なものじゃなくていい。もっとシンプルで、でも心に残るものがいい」


 そう言って、麻里はバーカウンターから普通のシャンパンを取り出した。高くも安くもない、ごくありふれたシャンパンだ。


「これで乾杯しよう。私たちの出会いに感謝を込めて」


 麻里はグラスを差し出した。ケンジは少し戸惑った後、麻里の瞳を見つめた。そこには、揺るぎない意思の強さがあった。


「そうだね。麻里ちゃんらしい選択だ」


 ケンジは苦笑しながら、グラスを合わせた。


 チリンと乾杯の音が響く。二人は無言でシャンパンを飲み干した。派手ではないが、二人の絆を象徴するようなひと時だった。


「ケンジ、私の意思を尊重してくれてありがとう。あなたは私に、自分の意思で選択することの大切さを教えてくれた。この選択は、私らしい選択だよね」


 ケンジは頷いた。


「君の強さを、俺は誇りに思っちゃうよ。健闘を祈ってる」


 二人は、最後の別れを惜しむように熱い抱擁を交わした。


 ホストクラブを出た麻里は、夜空を見上げた。星が、いつもより明るく輝いているように感じた。


 カウンセリングを受けたあの夜から、麻里は変わった。でも、それはカウンセラーの催眠のせいではない。自分の意思で選択する力に目覚めたからだ。


 催眠を解くとは、自分の人生を自分のものにすること。その事実を身をもって学んだのだ。


 シャンパンで乾杯したように、自分の人生には、自分なりの味わいがある。麻里はその味わいを大切にしながら、これからも歩んでいこうと考えていた──。

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