お疲れ様

 春の訪れとともに、新学期が始まった。桜の花びらが舞う中、学校の校庭には、新入生や在校生の姿が見られた。期待と不安が入り混じる中、佐藤は教室に向かって歩いていた。


 佐藤は、教師として日々奮闘していた。生徒たちに知識を伝え、心の成長を促すことは、佐藤にとって生きがいであり、喜びでもあった。しかし、その陰で佐藤は、自分自身の弱さと向き合うことを避けていた。


 佐藤が教師を目指したのは、かつて自分を支えてくれた恩師への憧れからだった。しかし、教師になってからは、自分の理想と現実のギャップに悩まされることが多くなった。生徒たちの問題に向き合うほどに、自分自身の無力さを感じ、心が疲れていくのを感じていた。


 そんな中、同僚たちから「お疲れ様」と声をかけられるたびに、佐藤は心の中でイライラしていた。「疲れるような暗示を入れて欲しくないな…」と思わずにはいられず、「疲れてないですよ」と苦笑しながら答えることさえあった。


 佐藤にとって、疲れを感じることは弱さの表れであり、それを指摘されることは自尊心が許さなかったのだ。佐藤は、自分の弱さを認めることを恐れ、「お疲れ様」という言葉から逃げようとしていた。


 そんな佐藤の心境に変化をもたらしたのは、ある生徒との出会いだった。新学期が始まって間もないある日、校長から一人の生徒を担当するよう頼まれた。その生徒の名は、鈴木茜。不登校傾向にあり、学校になじめずにいるのだという。


 茜との面談の日、佐藤は緊張していた。不登校の生徒を担当するのは初めてのことだったからだ。しかし、茜と向き合ううちに、佐藤は自分自身の姿と重なるものを感じ始めていた。


 最初の面談の時、茜は口を開くことさえ躊躇うような生徒だった。しかし、佐藤は焦らずに、茜の心に寄り添おうと努めた。


「鈴木さん、学校に来るのが辛いんだね。でも、君は今ここにいる。それだけでも、とても勇気のあることなんだよ」


 佐藤の言葉に、茜は少しずつ心を開き始めた。


「先生、私、疲れているんです。でも、それを言うのが怖くて...」


 茜の言葉に、佐藤は自分自身を重ねていた。かつての自分も、弱さを見せることを恐れ、一人で抱え込んでいたのだ。


「鈴木さん、疲れていると言ってくれてありがとう。君の正直な気持ちに、私は勇気をもらえたよ」


 佐藤は、茜の言葉に込められた意味の大きさを感じずにはいられなかった。同時に、自分自身の心の壁が、少しずつ溶けていくのを感じていた。


 次の面談で、茜は少し明るい表情を見せた。


「先生、この前は聞いてくれてありがとうございました。少し、楽になった気がします」


「そうか、良かった。それを聞けて私も楽になったよ」


 佐藤の言葉に、茜は笑顔を見せた。その笑顔を見た瞬間、佐藤の心に温かいものが広がっていった。


 こうして、佐藤と茜の面談は続いていった。茜は少しずつ心を開き、佐藤は茜の言葉一つ一つに耳を傾けた。そして、二人の心の距離は日に日に縮まっていったのだった。


 ある日、茜は佐藤にこう言った。


「先生、私、疲れていると言えるようになりました。先生に言えるようになったんです」


 その言葉に、佐藤は胸が熱くなるのを感じた。同時に、自分自身も変わらなければならないと感じていた。


「鈴木さん…。良かった。疲れていると言えるって、心を楽にするために必要なことだったんだね」


 二人は笑顔で見つめ合った。佐藤は、自分の中の「お疲れ様」という言葉の意味が、少しずつ変わり始めていることを感じていた。


 ある日の職員室で、同僚の教師が疲れた様子で席につくと、佐藤は思わず声をかけていた。


「お疲れ様です。今日は大変だったみたいですね」


 同僚の教師は驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。


「ありがとう、佐藤先生。今日は本当に疲れました。でも、まさか、佐藤先生に『お疲れ様』って声をかけてもらえて、なんだか救われた気分です」


 その瞬間、佐藤は「お疲れ様」という言葉の持つ力がようやくわかった気がした。それは、弱さを認め合い、支え合うための言葉だったのだ。


 月日が流れ、茜は佐藤の支えを受けながら、少しずつ学校生活に適応していった。茜の表情には、以前にはない明るさが見られるようになった。そして、ついに茜は無事に卒業の日を迎えたのだ。


 卒業式の日、佐藤は茜から一通の手紙を受け取った。手紙には、茜の心からの感謝の言葉が綴られていた。


「佐藤先生へ


お疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。


先生との出会いが、私の人生を変えました。先生に教えていただいたことを胸に、これからは自分の弱さを恐れずに、仲間と支え合いながら前に進んでいきます。


先生も、時には疲れることがあると思います。でも、その疲れを認めることが、先生の優しさなのだと私は気づきました。先生が教えてくださったように、弱さを分かち合うことで、心は軽くなるんですね。


これからも、先生が教師としての道を歩まれることを心から願っています。


本当に、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。


鈴木茜」


 手紙を読み終えた佐藤は、涙を流していた。茜の言葉一つ一つが、佐藤の心に深く染み入っていく。佐藤は、茜との出会いによって、自分自身も大きく成長させてもらったのだと気づいていた。


 新学期の始まりの日、佐藤は教室の黒板に大きく「お疲れ様」と書いた。生徒たちが不思議そうな顔をするのを見て、佐藤は微笑んだ。


「みんな、今日からまた新しい学期が始まる。勉強や部活、人間関係など、いろいろな悩みや疲れがあると思う。でも、その疲れを感じることは、とても大切なことなんだ。疲れを感じるということは、一生懸命頑張っているということだからね」


 佐藤の言葉に、生徒たちは真剣な表情で耳を傾けていた。


「だから、疲れを感じたら、恥ずかしがらずに、疲れたって言い合おう。そして、一人で抱え込まずに、仲間と支え合おう。みんなが、お互いの頑張りを認め合い、支え合える。そんなクラスになればいいなと思います」


 『お疲れ様』の心を胸に、佐藤は生徒たちと共に、新しい一歩を踏み出した。教師としての道を歩む中で、佐藤はこれからも生徒たちと共に悩み、共に喜び、共に成長していくのだ。


 教室に、温かな空気が流れた。佐藤は、この瞬間こそが、教師冥利に尽きるのだと感じずにはいられなかった。茜との出会いから始まった「お疲れ様」の物語は、佐藤にとって、かけがえのない財産となったのかもしれない──。

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