読切

たきせあきひこ

嫌なら距離を置け…?

 春の陽光が、目黒川の桜並木を優しく照らしていた。川面を覆う桜の花びらは、まるで春の訪れを祝福するかのように、ゆらゆらと舞っていた。優子は川のせせらぎに耳を傾けながら、ゆっくりと歩を進めていた。彼女は、穏やかな春の風景とは裏腹に、教え子の健太のことで思い悩んでいた。


 優子は地域の学習塾で教鞭を取る傍ら、生徒の心のケアにも力を注いでいた。彼女にとって、生徒の心の健康は、学業の成果と同じくらい大切なものだった。そして今、健太の様子が少し気がかりだったのだ。


 川沿いのベンチに腰を下ろすと、ちょうどそこには健太がうつむきながら腰掛けていた。スマートフォンを手にした彼は、まるで世界から取り残されたかのようだ。優子は、そっと声をかけた。


「…健太君、大丈夫?」


 健太は顔を上げ、優子の問いかけに戸惑いの表情を浮かべた。しかし、やがて観念したように語り始めた。


「先生…。実は、親友に裏切られたような気がしていて…」


 優子は、健太の話に耳を傾けた。親友は、過去に打ち明けられた秘密を利用して、無理強いをするようになったという。健太は周囲から「嫌なら断れば?」と言われたが、親友を失うことが怖くて、言いなりになっているのだと言う。


「健太君、私にも似たような経験があるの」


 優子は舞い散る桜を見つめながら語り始めた。学生時代、麻里という親友がいたこと。二人の関係が次第に歪んでいったこと。優子は当時、麻里の不安に寄り添おうと必死になったが、周囲からは「嫌なら距離を置けば?」と言われ、それができずにいたことを話した。


「まるで、増水した川に飲み込まれそうだったの」


 優子は当時を振り返った。


「必死に足をかきながら、川面に顔を出そうとしているのに、どんどん深みにはまっていく感覚…健太君も、今はそんな気持ちなのかもしれないね」


 優子は、麻里との出会いを思い出していた。二人は意気投合し、すぐに親しい友人になった。しかし、次第に麻里の行動に変化が表れ始めた。麻里は、優子に対して「私さ、あなたに嫌われてるよね?」と不安げに尋ねるようになったのだ。そして、優子が少しでも反応が薄いと、麻里は「やっぱり私のこと嫌いなんだ!」と感情を爆発させた。


 優子は当時、麻里の不安に寄り添おうと必死になった。しかし、麻里の試し行為はエスカレートし、優子は次第に疲弊していった。周囲からは「嫌なら距離を置けば?」と言われたが、優子は麻里を傷つけたくないと思い、それができずにいた。


「本当に嫌いなわけじゃなかったしね」


 健太は、優子の顔を見つめた。


「先生は、どうしたんですか?」


「ある日、勇気を出して、麻里に向き合ったの」


 優子は小さく微笑んだ。麻里と真摯に向き合い、お互いの気持ちを伝え合ったこと。それから、二人の関係が少しずつ変化していったことを、優子は丁寧に語った。


「健太君、人と向き合うってさ、相手の気持ちに寄り添うことと、自分の気持ちを大切にすること。その両方なんだと思う…」


 優子は桜の花びらを手に取りながら語りかけた。花びらは、まるで優子の言葉に呼応するかのように、風に舞った。


 健太は、優子の言葉に頷いた。


「先生の話を聞いて、自分の気持ちが少し楽になった気がします。でも、親友との関係を変えるなんて、簡単じゃないですよね…」


「そうだよね。簡単じゃない。でも、健太君。大切なのは、自分の気持ちも大切にすること。そして、相手の気持ちにも寄り添おうとすること。その両方を、バランスよく考えることなんだと思う」


 優子は川面に浮かぶ桜の花びらを見つめた。舞い落ちる花びらは、水面に触れるとゆっくりと流れていく。


「『嫌なら逃げろ』とか『嫌ならノーと言え』というアドバイスは、一見もっともらしく聞こえるかもしれない。でも、現実はそう単純じゃない。時には、勇気を出して向き合うことが必要なんだよね」


 健太は、優子の言葉を噛みしめるように頷いた。


「先生の言う通りですね。逃げ続けていても、何も変わらない。僕も、親友と向き合ってみます」


 優子は、健太の肩に優しく手を置いた。


「健太君の決意を、私は応援するよ。たとえうまくいかなくても、健太君は健太君のままでいいからね」


 二人は、ベンチから立ち上がった。桜並木を歩き始めると、風が花びらを舞い上げた。柔らかな花びらが、二人の頬に触れる。まるで、春の女神が二人の決意を優しく後押ししてくれているようだった。


「健太君、一緒に頑張ろう」


 優子は微笑みながら言った。健太は、優子の微笑みに応えた。


「はい、一緒に頑張ります」


 二人の歩みは、春の陽光を浴びて、希望に満ちているようだった。川面を覆う桜の花びらが、二人の新たな一歩を祝福しているかのようだった。


 優子は、心の中で静かに誓った。これからも生徒たちに寄り添い、時には勇気を持って向き合うことを。そして、自分自身の気持ちにも正直でいることを。


「さあ、新学期だ」


 優子は、輝く川面を見つめながら呟いた。


「私も、もっと成長しなくちゃな」


 春風が、優子の髪をなびかせた。彼女の瞳には、新たな決意の光が宿っていた。目黒川の桜並木は、そんな彼女の姿を優しく見守っているようだった──。

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