2-6 もういちど約束

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、理緒りおはパソコン画面に向き合っていた。

 日本時間の午後四時から始まった、ロンドン証券取引所の株の値動きを見つめながら売買のタイミングを窺う。


「……今日はあんまり儲からなさそうだな。まあ、上がる要素も下がる要素も無ぇからしゃあねぇけど」


 そう呟いた理緒だったが、気乗りしない原因は別にある。

 あんのことだ。


 土曜日に二人きりで話をした時に、アタシは杏を傷つけてしまった。

 杏が去り際に見せたあの失望の目は、物心ついた頃から一緒だったアタシでさえ初めて見る目だった。


土屋つちやさんは、そういう人、だもんね……』


 脳内で、杏の声がこだまする。


 そういう人。

 それはきっと『他人を信用しない人』とか、その辺の意味だろう。


 アタシは人間不信で、他人のことなど信用しない。

 けれど、大切な幼馴染のことまでも信じ切っていなかったのは、どう考えてもダメだ。


「ったく、アタシってほんと酷いヤツだよな。嫌われて当然」


 自らの愚かさを思い知って、理緒は自分を恨む。


 アタシは最低な裏切り者だ。

 アタシは杏に「もう一度仲良くしてくれ」なんて、言っていい人間じゃない。言う資格がない。


「ははっ。アタシと一緒にいたら、杏が不幸になっちまう。だからこれで良かったんだ……」


 その時、不意にインターホンが鳴った。

 また瑞穂みずほがお節介に来たのかとため息をこぼして、別の可能性が頭に浮かぶ。


「まさか……!」


 理緒は急いで階段を下りてモニターを確認する。

 だが、そこに映っていたのは予想外の人物だった。



 玄関の扉を開けると、制服姿の茉莉亜まりあが立っていた。

 夕陽を受けて光り輝く琥珀色の瞳が、ゆっくりとこちらに向けられる。


「こんにちは、土屋さん。今日は随分と反応が早かったわね?」

「いや、たまたまリビングに下りてただけだ」

「そう? 私はてっきり冥賀みょうがさんと勘違いしたのかと思ったのだけれど」

「っ! ちげーよ……」


 ずばりと言い当てられて、理緒はわずかに動揺してしまった。


 恐らく今ので、それが図星であることも見抜かれた。

 何でも見通すような茉莉亜の瞳から、理緒はそっと目を逸らす。


「で、アタシに何の用だ?」


 少しでも油断したら、心の中まで全部見透かされる気がする。

 警戒を強めつつぶっきらぼうに問うと、茉莉亜は素っ気なく答えを口にした。


「あなたは『自分には人を信じる心が無い』と思っているでしょう?」

「なっ!?」


 コイツ、どこまでアタシの心を読んで……! この転校生、一体何者なんだよ?

 理緒は驚きのあまり、思わず茉莉亜の目を見てしまう。


 その瞬間、理緒は恐怖を感じて顔を強張らせた。

 冷徹な感情の無い眼差しに射抜かれて、全身がまるで石のように固まって動けなくなる。


 そんな慄く理緒の様子を見ると、茉莉亜は安心させるようにふっと表情を緩めた。

 優しい声音で続ける。


「大丈夫よ。土屋さんにはきちんと、人を信じる心があるわ。あなたは誰かを心の底から信じることが出来るはず」


 茉莉亜は何を言っているのか。

 理緒は大切な幼馴染すらも、信じていなかった人間だ。人を信じる心などあるわけがない。


「……アタシのことなんざ碌に知らねぇくせに、適当なこと抜かすんじゃねぇよ」


 震えながらも弱々しく反論を述べた理緒に、茉莉亜は静かに首を横に振った。


「いいえ。あなたは人を信じられる」

「じゃあ、その根拠は何だよ?」


 そこまではっきり断言するのなら、理由を言ってみろ。


 茉莉亜の琥珀色の瞳から目を逸らさず、睨みつける理緒。

 完全な強がりだった。


 それに対して茉莉亜は、困ったような笑みを浮かべてから口を開く。


「では一つ訊くけれど。土屋さんは不祥事だらけで自転車操業の明日にも潰れそうな企業の株を買うかしら?」

「あ? んなもん絶対買わねぇよ」


 もしそんな株があったなら、それはリスクでしかない。買ったところで損をするだけだ。


 で、これがアタシが人を信じられるって話とどう繋がるんだよ?

 理緒は話の続きを促す。


「ええそうよね、買わないわよね。だってその企業を『信じられない』から。なら土屋さんが今日買った株は? その企業が潰れないと『信じた』から、成長すると『信じた』から、買ったんじゃないの?」

「! それは……」

「当たり前だけれど、企業だって人が経営しているのよ。だから企業が信じられて、人を信じられない理由なんてないはず。違う?」


 違わない。その通りだ、と思う。


「どう? 納得してもらえたかしら?」

「……ああ、そうだな」


 理緒はわずかに迷った後、小さく頷いた。


 アタシは杏のことを心の底から信じてあげられるのか。まだ不安はある。

 けれど、アタシにも人を信じる心があるのだと気付くことができた。


 今のアタシなら、杏を失望させずに済むだろうか。


「杏に、ちゃんと謝らないとな」


 ぽつりと呟いた理緒の肩に、茉莉亜が手を置く。


「ええ、謝りに行きましょう。由依ゆいが五時に冥賀さんを稲田公園まで連れてきてくれる予定になっているから、少し急ぎね」

「はぁっ!?」


 ちょっと待て、何勝手なことしてくれてんだよ!?


 現時点で、すでに時刻は午後四時四十五分。

 約束の時間まであと十五分しかない。


「ほら、その恰好で行くつもりじゃないのでしょう? さっさと着替えてきなさいな」

「ったく、なんでアタシは急かされてるんだ? 上着だけ取ってくる。待ってろ」


 文句を言う間も心の準備をする間も無く、理緒は最低限の支度をして家を出た。



 理緒と茉莉亜が稲田公園に到着したのは午後四時五十九分。約束の時間ギリギリだった。

 しかし、公園内のどこにも杏の姿は見当たらない。


「おいアンタ、まさか騙したんじゃねぇだろうな?」

「騙してなんかいないわ。あなたを騙す意味がないもの」

「本当かぁ?」


 理緒が疑いの目を向けていると、不意に茉莉亜が横を向いて手を上げた。


 茉莉亜の目線の先には、こちらに歩み寄ってくる杏と由依の二人。

 どうやら騙されてはいなかったらしい。


「連れて来たわね?」


 そう声を掛けた茉莉亜に、由依が答える。


「連れて来たというか、冥賀さんが土屋さんに会いたいって」


 その言葉に反応して、由依の隣に立つ杏が上目遣いでちらりと理緒を見る。


 杏はアタシに何かを伝えようとしている。

 アタシも杏に、今の気持ちをちゃんと伝えないと……。


 刹那、突然背中に衝撃を受けて、理緒は大きく一歩前に踏み出した。

 結果として杏と至近距離で向き合う形になる。


 今何が起きたのか。

 緊張で頭の働きが鈍っていた理緒は、茉莉亜に背中を押されたとはすぐには気付けなかった。


「あとは二人でごゆっくり」


 茉莉亜が由依の腕を引っ張りながら、足早に公園を後にする。


 小川に架かった橋の上に、理緒と杏の二人だけが取り残された。

 静寂の中、そよ風が吹いて木々が揺れる。


 いつまでもこうして黙っているわけにもいかない。ここはアタシから切り出そう。


「あのさ!」

「あのね……!」


 しかし、杏も理緒と同じように考えていたらしく二人同時に喋ってしまい、気まずくなって互いに口を閉ざした。


 再びの沈黙。無言の譲り合い。


 先、話していいぞ。

 理緒が手の動きだけで合図をすると、杏はこくりと頷いてから話し始めた。


「土屋さん。この前は、ごめんね……。ひどいこと言っちゃって……。私はちゃんと、土屋さんが裏切ってなんかないって、分かってたのに。約束を破ったつもりなんかないって、分かってたのに……」


 杏は目を潤ませながら、理緒の顔を見上げて続ける。


「私は土屋さんが、嘘つきじゃないことも、悪い人じゃないことも知ってるよ。土屋さんは優しいから、だから人を信じるのが怖いんだよね。学校に来なくなったのも、自分を守るためだもんね。分かってる、分かってたんだよ。なのに、私……」


 大粒の涙が杏の頬を伝う。


 きっと杏はあの時、学校でも理緒と一緒に居たいがあまりに、感情的になって思ってもないことが口をついて出てしまったのだろう。

 そして今、そのことを強く後悔している。大好きな理緒を傷つけてしまったと。


 あぁ、本当に杏はどこまでも優しい良い子だな。


 カーディガンの袖口で涙を拭っている杏の腕を、理緒はそっと掴んだ。

 それから反対の手を伸ばして、親指で杏の目元を拭いてあげる。


「大丈夫、気にすんなって。アタシはそこまで気にしてねぇよ。むしろ謝るのはアタシの方だ。……杏、今までずっと心のどこかで信用してなくてごめん。これからはさ、その。杏のこと、心の底から信じるから。学校にも、毎日行くから。ずっと一緒に居よう、杏」


 理緒のその言葉を聞いて、杏が目を丸くする。

 何度か瞬きを繰り返した後、笑顔になって首を縦に振った。


「うん、ずっと一緒……!」


 ぎゅっと抱きついてきた杏を、理緒も抱きしめる。


 アタシはもう、二度と杏を悲しませたりしない。

 双葉ふたばだろうが誰だろうが、信用ならない人間が杏に近寄ってきたらアタシが守ってやる。


「えへへ。約束だから、ね……」

「ああ。もう一度、約束だ」


 あの日と変わらない小さな橋の上に、あの日よりも大きくなった二人の影が重なっていた。

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