馴鹿
砂糖零時
エリアスという男
第1話
ルースは今日、二十三になる。これはこの世でたった二人しか知らないことだ。司祭であるミシェル氏と、石畳通りで花を売っている母親。この二人だ。ルースに思いを寄せる町の男どもーー気持ちが悪いくらいに女に執着を持つ彼らーーであって尚、ひとりとして知らないのだ。またルースは、誕生日というのを最近まで祝われたことがなかった。二十の頃、ミシェル氏に祝ってもらったのが初めてのことだった。彼女はこのことについて、いささかの不満も抱くこともない。すこしばかりの寂しさを抱くことはあれど、それを自己申告し、他者の温情を恣意的に生成し独占的にそのぬるま湯を受け止めんとす「容認された野暮な心」というのは、優しき人である彼女は持ちあわせていなかった。
彼女は誕生日を、二十歳になって初めて祝ってもらったと言った。そして、祝福したのはミシェル司祭である。つまりルースの母親は、一切、こどもに対するに愛がなかったということだ。
ルースは母親が嫌いだ。くすんだ金の長髪には油が絡み、頬骨が出たいでたちの、実にさもしい女ある。暴力はけして振るわなかったが、それをありがたがらせる人間であった。ルースは、修道女になるため家出したという過去がある。それは、母親から逃れるためにちょうどいい言い訳であった。
どういうものか、悪辣な人間ほど鼻が利く。教会に住み込んでわずか半年のころ、ふいに母親がやってきたのだ。ルースを見つけたときに浮かべた笑顔……黄ばんだ歯をみせつけるように目いっぱい口を横にひらく感じの、猿のような、という表現が一番正しいであろう。見るものすべての背中の産毛をたたせるような、とにかく醜悪そのものの顔をして、銭をせびってきた。はじめのころは母を見捨てきれずに幾ばくかの金を融通していたのだが、次第に増長して、量を増やせと詰め寄ってくる。それにまったくもって動じないとなれば、盗もうと画策するのだが、彼女は母親というのをよくわかっている。ことごとくを失敗させ、その度に、どれだけ罪深い行いであるかを懇切丁寧語り、改心するように努めていた。それでいつか過去を悔いれば、自分への悪の所業も、すべて許すことにしていたのだ。けれど、それは叶わないことだったのである。
母親は、ルースの金のみならず、教会のものを盗んでは、売っていたのだ。深夜に忍びこみ、燭台や皿を気づかない程度にとっていた。これがバレてのこいつの言い訳とは聞くに堪えない。自分に金がないというのを、聾者のように、生まれついたどうにもならない事として語り、あまつさえ何某かの許可を得たなどと、大ウソをつくのだから、ルースもほとほと愛想がついてしまった。官警にひきわたして、もう二度と会わなかった。
馴鹿 砂糖零時 @C12H22O11-0000
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