二章プロローグNo.2 「愛の神」

一年八ヶ月前 人海高校


 その少女の名前は、桜田依姫さくらだよりひめ

 彼女は花柄のカチューシャが目立つ黒の長髪で、どこか遠くを見ているような光の無い目をしていた。

 自宅に帰れば人はいない。外に出ても話す相手はいない。暗く重たい空気を背負い、日々の全てに絶望しながら生活していた。


「おはよう!」


 高校の入学式の日、下を向いて歩いていた彼女に声を掛けてくる人物が一人、現れる。

 だが彼女はその声を無視して校舎の中に入っていった。

 目もくれなかったので、声の正体は男であること以外何も分からないまま。


「おはよう!」


 完璧かつ無遠慮に無視を決めたというのに、その声の主はまた挨拶を繰り返してきた。

 おまけにどこまでも付いてくる。


「おはよう!」

「……何?」


 教室に入っても付いてくるうえ同じ言葉を吐かれては、いい加減彼女も鬱陶しく感じ始める。


「いや……ハンカチ落としたぜ」

「……じゃあ先にそう言おうよ」

「いやいやその前に止まってくれればよかったんだよ」

「……」


 そう言われれば何も言えない。

 依姫は仕方なさげな表情で男からハンカチを返してもらった。


「同じ新一年生だよな!」

「え?」


 どうやら彼も自分と同じ新入生。あとをつけてきたという以前に、同じ階に彼の教室もあったのだ。


「俺、燃城一輝。よろしくな!」

「……」

「そっちは?」

「……」


 返事をするのも億劫に感じ、冷めた目付きで睨み付けてすぐに背を向ける。

 彼女は誰とも慣れ合うつもりはなかった。


「おーい。名前はー?」


 完全なる無視を続けた。

 そこまで無視を貫かれたらもう一輝も追いかけはしない。

 そもそも同じ学校の人間だと分かれば、話す機会も名を知る機会もいくらでもあるので、拾ったハンカチを返した以上無理に話しかける気はなくなっていた。


     *


一週間後


 少女・桜田依姫は、非常に近寄りがたい雰囲気を漂わせた人物。

 だからこそ彼女に話しかける者は少ない。

 だからこそ、何度も自分に話しかける相手を強く意識してしまうのは仕方のないことだった。


「あ、おはよー」

「……ッ!」


 太陽のように明るく朗らかな笑顔。

 知った顔だからすれ違う度に挨拶だけする一輝だったが、気が付けば依姫は彼を『そういった対象』として見るようになっていた。

 ひとえに、これまで異性と関わったことがないのが原因ではある。


     *


一ヶ月後


「おはよー」


 一輝が挨拶をした相手は依姫ではない。

 依姫は、一輝が知らぬ女に笑顔を振りまいている姿を遠くから見つめていた。

 廊下の曲がり角を強く握りしめながら、恨めしいし目付きで睨み付ける。


「……」


 誰にでも愛嬌を振りまく一輝に苛立っているのか、それとも彼と話す別の女たちが憎らしいのか。

 何を考えているのかは本人にしか分かり得ない。


     *


半年後


 依姫の周囲は変化していた。

 今までの人生がたまたまそうだっただけなのかもしれないが、この高校では彼女は環境と自身を取り巻く人間に恵まれていた。

 それまでのような孤独な日々は終わっていたのだ。


 きっかけは彼女自身の行動にあった。

 いつの間にやら一輝のことを視線で追っていた彼女は目立っていた。

 そもそも彼は他所のクラスで、彼から挨拶を受けるためには、彼のクラスの前の廊下で彼が通るのを待たなければならない。

 彼女は自分でも気づかないうちに周りから注目を浴びるような行動を起こしていたのだ。


「今日も三組に行くの? 桜田さん」

「え……」


 だが当の本人はその変化に気付けていなかった。

 知らず知らずのうちに、彼女は周りに応援されていたのだ。


「頑張れ!」

「いや……うん……ありがとう」


 男子と同じく女子から話しかけられた経験も滅多に無い事。

 実は一輝に向ける想いの力が、自身を覆う重たい雰囲気を拭っていたのだ。

 それに加え、周囲の女子たちは彼女と距離を置こうと考える性格ではなかったため、こうして当たり前のように話しかけてくれるようになっていた。


(一輝君……)


 いつの間にか普通の女子の友達が出来ていても、彼女の頭には彼のことしかなかった。

 やはり自分でも気づかないうちに、彼女は燃城一輝の笑顔に固執していたのだ。


     *


現在 桜田邸


 擬洋風建築の一戸建て。それが依姫がたった一人で住む自宅だった。

 広すぎて静かすぎるこの家には地下の部屋があり、依姫はその部屋の中で佇んでいた。

 薄明かりの蛍光灯が一つだけの、コンクリート打ちっ放しの一室。

 周囲には妙な椅子が一つあるだけで他には何も無く、当然そこには依姫以外誰一人として──



『ああ……良い室温。良い湿度。それでいて良い薄明かりに良い狭さの空間。愛を育むのにこれ以上なく相応しい環境ですよ。依姫さん』



 依姫の背後に、『人』ではない『何か』がいた。

 白装束を着た、空に浮かぶ、足の無い幽霊のような、風景に透けている存在。

 その口元は包帯で覆われていて、袖が長すぎて腕があるのかも分からない。


「……そうでしょ? 私もそう思う。でも足りない。『彼』だけがこの場に足りない。こんなことは許されない。でしょ? アクォル」

『ええ、ええ、そうですとも。彼だけが……イッキ君だけが足りていない』

「一輝」

『はい?』

「燃城一輝。どんな姿になっても……私にとっては一輝君だから」

『ああ、はい。そうですとも。フフ……彼はもうすぐ下界に戻って来ます。安心してください依姫さん。今度こそ……彼を貴方の愛で、愛して、愛する愛で埋め尽くすのです』

「……ええ。だって初めから、一輝君と私は、いずれ必ず一緒になれる運命にあるのだから──」

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