彼女の幸福な昼下がり

 パチ、と糸切り鋏の合わさる音のあと、パサリと落ちた布が爪先を隠す。

「出来た。どう?」

 軽く足先を動かし布が邪魔にならないのを確かめる。

「ちょうどいいと思う。ありがとう」

「良かった。踊りはしないだろうけれど、あまり裾が長いと危ないからね」

 裾上げをしていたフィロは、立ち上がると右胸についた花の飾りに手をかけた。やや斜めになってしまっていたのを直し、糸をもう一本通して補強する。

「うん、やっぱりセレンにはこの形と色で間違いなかったかな。良かった」

「フィロが作るんだからどれも素敵に仕上がるに決まってるだろう」

「そんなことないわよ。セレンみたいに超絶綺麗な人が着るとなると、服で翳っちゃうんじゃないかってこっちも緊張するの。本当に良かった」

 心底安堵した顔をするので意外に思う。フィロの才覚は本物であるし、セレンからするとどんな注文でも簡単にこなしてしまうように見えていた。しかし確かに人間であるし、得意分野であっても不安が消えないのは頷ける。

 だが感想に嘘はない。作ってもらった夜会服はお世辞無しに最高と思える品だった。カタピエ宮殿で着せられたもののように露出が多過ぎもしないし、飾り立てて動きにくいこともない。普段着ている見習い修道士服と造りが似ているせいか、自然と身体に馴染んでくれて服に気圧される感覚もない。

 一つ気になることはあるが。

「クルサートル、気に入るかな……」

 なだらかに落ちる裾を見下ろしてぽつりと呟く。カタピエから脱出した時の言葉を思い出すと、フィロの仕立てとはいえ不安はあった。今回は向こうから贈らせてくれと言われてしまったが、もしかしてこういう類の格好そのものが嫌いなのかもしれない。

 しかしフィロは、やたらと自信ありげにセレンの懸念を一笑に付した。

「ばっかねぇ、セレンよ? あのバカが気に入らないはずがないでしょうに。むしろ気に入り過ぎて別の意味で心配だわ」

「それは、どういう」

「アレ呼んであるから、来たら自分で確かめなさいな」

 何か企んでいるような笑みを浮かべつつ、フィロはさっさと針道具や余り布をしまい始める。すると卓の上に置いていた紅の耳飾りに目を留め、じっと見入った。

「これ、あの馬鹿から貰ったものよね」

「ああ、うん。それもそうだし、この服も貰ってしまって甘え過ぎじゃないかと思うのだけれど」

 クルサートルの欲しい物も分からないし、教庁秘書官の持ち物として相応しい品となると悩む。そもそもモノは足りていて不要と言われそうな気がして、自分からは特別な贈り物ができないのではと悩んでもいる。

 そう打ち明けると、フィロは複雑な眼で「アレが欲しいのなんて……」と明後日の方向を向いた。

「でもセレンには言ってやらないわよ、あの馬鹿にそう簡単に」

「え? ごめん、よく聞こえない」

「セレンは気にしなくていいの」

 そう大仰に否定されては追究しにくい。

「ともかく喜ばせたいならもう少し甘えてみれば? あたしから言わせればあの馬鹿ももうちょっと押してもいいと思うけど、セレンも遠慮し過ぎ」

「甘え」

「そんな固まらないの。我儘言ってもらった方が嬉しいこともあるんだから。あたしだってセレンの我儘が聞けたらって思うわよ」

 てきぱきと片付けをしながらフィロはとくとくと述べる。そして全ての荷物を入れ終えて立ち上がると、まだ疑問符を浮かべるセレンの肩をポンと叩いた。

「ま、今日はその格好を見せてあげるだけで十分だと自負するわよ。呼んでおいたからもう来るでしょ」

 そしてまだ思案顔のセレンの頬をむに、と両手で挟み、「お邪魔虫になるから行くわね」と出ていってしまった。

 一人残されるとたちまち落ち着かなくなる。窓の横に置いた鏡に向かってまじまじ見ると、普段の自分とは全く違うのに、これこそ自分だとすとんと嵌まる。さすがフィロとしか言いようがない。

 動きにくさも違和感もないのを、上体を捻ったり爪先を上げ下げしてみたりして確かめていると、扉を叩く音がした。

 ぴんと糸で引っぱられたような感覚が走る。

「どうぞ」

 来訪者は予想通りの相手である。どんな反応か。身構えるが、様子がおかしい。こちらを見て目を大きく見開いたと思ったら、そのまま俯き扉に手を当てて固まってしまった。

「クルサートル? 大丈夫?」

 疲れ過ぎて立っているのも辛いのに来てくれたのではないだろうか。頭痛か眩暈ならまずは寝かせないと……

「フィロに……殺される……」

「え!?」

 考えもしなかった一言に思わず叫んだ。

「な、何かフィロが言った? もしかして値段が」

 帰り際のフィロと会ったのだろう。その時に話すとすれば支払いの件である。

「いや、悪い。それは気にしないでいい。なんでもない」

 セレンの推測は外れたらしいが、だとすれば何だというのだろう。だがクルサートルはその場で深く呼吸すると、姿勢を整えて普段と同じに部屋の中へ入ってきた。あの二人の言い合いはいつものことであるし、気にすることはないのかもしれない。

 それより大きな懸念がある。間近で向かい合い、相手の評定を覚悟する。しかし、クルサートルは顔を綻ばせた。

「よく似合う。何と言えばいいのか、」

 うまい言葉が見つからないほどにと心からの賞賛を貰って、するりと「ありがとう」と伝えられる。

 嘘のない褒め言葉に無闇な謙遜は失礼だ。そんな無為なやりとりより、今は貴重な時間を大切にしたい。

 相手の瞳の中にある希望と期待が自分と同じに見える。その推測が正しいと思えるなんて、以前には考えられなかった。

 いいか、と尋ねる眼差しに、いいよ、と言葉を添えずに答えてやる。

 頬にそっと触れる感触に反応して瞼を閉じる。自分とは全く違う骨ばった手指の安定感に毎度のことながら驚きつつ、瞼の向こうの光が陰って近づく相手の気配が分かる。少し前には知らなかった独特な期待が、理性的思考に混ざり込む――

「おい……」

 支える手からするりと頬が逃げると、頭の上から呆れた声が降ってきた。理性と自我が残っていると、それらが打ち勝ってどうにも気恥ずかしくなってしまうのだ。額に受けた口付けがくすぐったいのも手伝って、笑いが溢れるのを止められない。

「こら……いつまで笑ってるんだ」

「ごめ……」

 謝ろうと顔を上げたら、最後まで言わせてもらえなかった。

「謝らなくていい」

 意志の強い碧の瞳と出会って、言葉途中で短く塞がれた気道が楽になる。

 しかしそれも束の間、すぐさま呼吸は奪われ、再び相手との距離が消滅した。

 待ちきれないとばかりにもたらされる口付けは、飢えと渇きに駆られているよう。ただ狂おしいほどの渇望とは裏腹にいてはいない。息をする余裕すらほとんど与えてくれないのに、我欲を押し付ける暴力的な強引さはない。

 驚いたり脅えたりしないようにしてくれているのだろう。触れ合う中で互いの気持ちにずれが無いのか丁寧に確かめられながら、烈しくともいつくしみに溢れた感情がとめどなく流れ込んでくる。

 昼下がりの陽射しが窓から降り注いでいるはずなのに、いつもなら心地よく肌を温める穏やかな恵みがいまは全く分からない。身体が内側から焦がされるように熱く、しまいに脳が溶けてしまうのではないか。まるごと包み込まれて足元も覚束ない、酩酊した心地に溺れていく。鼓動も脈動も入り混じり、相手との境界線が分からなくなってしまう。

 自分が曖昧になるなど本来とても怖いはずなのに、眩暈を起こしそうな中でなぜか安心する。朦朧となる自意識は空無に向かうのではなく、髄まで満たされ完全になるような。

 余すところない充溢を与えられて、ようやく緩やかに自他の境が取り戻される。茫とした頭のまま瞼を開いたら、間近で碧色の瞳と目が合った。

 反射的に直視から逃げて、気づいたらクルサートルの胸にもたれていた。自我が復活してしまっては、たちまち恥ずかしさでいたたまれなくなる。

 このざまはいけない。自分を律して生きようと過去に誓ったはずなのに、我を保てなくなるなんてみっともない。

 今度は自他が不明なわけもなく、紛れもない自分の顔が火を吹くように熱くて、とても見せられない。鼓動まで壊れた機械の如く異様な鳴り方をしている。クルサートルは落ち着いているのにえらい違いだ。何とか気を沈めようと、相手にもたれかかった身をぎゅっと固くする。

 すると、さっきまで自らのものと一体化していた心音にふと気づく。

「クルサートル、鼓動が速い」 

「そういうことは、敢えて言わないでおいてくれ」

 バツが悪そうに呟くのは普段ならなかなか聞けない。自分だけではないのか、と思うとなんだか可笑しい。

 いつの間にか静かな高揚を感じているのは、いつもの服とは違うからだろうか。装いひとつでこんなに変わるなら、夜会ではまた全然違う気持ちになるのかもしれない。

 初めて赴く場への期待が高まるのを覚えたら、嫌そうな声が降ってきた。

「カタピエに一緒に行くのは、やめるか……」

「えっ?」

 思わずバネのように頭が上がる。

「行かないのか?」

「俺は公務だからどうしても行くけれど。セレンは招待されているとはいえ必須ではないし」

「そうか」

 何か問題が生じたのだろうか。招待には応じたいと思っていたので残念である。カタピエの令嬢たちがどんな仕立ての服だったか話したらフィロも喜びそうであるし。

「セレンは行きたいのか」

「もし、いいなら……招待してもらったから二人でメリーノに挨拶するべきだろうし、せっかくこんな素敵なのを作ってもらったし……」

 やはり作ってもらったからには相応しい場所に出てみたい。それに今回は特例なのだ。

「夜会もクルサートルとなら、一度くらい出てみたいし……」

 もともと夜会のような華やかな場に興味はないが、一緒に行けるなら貴重な機会である。

 どうだろう、と見上げて反応を待っていると、クルサートルは長い溜息を吐いて抱擁を解いた。

「分かった――行こう」

 途端にぱっと顔が明るくなるのが自分でも分かる。鑑識眼が優れていそうなメリーノの姉は何と評するだろう。そんな興味さえ湧いてくる。

「クルサートルが行きたくないなら我儘を言ってすまない。でも、今から楽しみだ」

「むしろセレンは、もう少し我儘を言ってくれた方が嬉しいのだけれどな」

 困ったように言われて面食らう。十二分に甘えてしまっているつもりなのだが。フィロにも同じことを言われたけれど、自分の感覚がズレているのだろうか。

 我儘か、と考えてみる。本当にそんなので喜ぶのだろうか。

 でももしそうなら、

「クルサートル、今日はこのあと、仕事は?」

「ああ、今日の分はもう済ませてきたから」

 それがどうしたのかと尋ねられる。

「それなら」

 言い出してはみたがやはり遠慮を禁じえない。いいのだろうか、と相手の瞳の中を窺う。

「ひとつ、我儘を言っても」

「もちろん。言ってみろ」

 そうすんなり認められるとますます甘やかされすぎではないかと気が引ける。「その、」と続けようとするものの、言おうと思ってためらわれ、口を開いてみては閉じてしまう。

 その後数秒、もう待たせられないと、やっと決心がつく。

「仕事が無いなら、もう少し……一緒にいたら、駄目かな」

 普段、隙間時間も少ないのだから今日みたいな日はさっさと帰って寝たいだろう。自分に付き合わせるより別のことがしたいかもしれない。それを束縛してしまうのはあまりに配慮のない自分勝手である。

 そう罪悪感を感じていたのに、言うや否や、ぐい、と引き寄せられた。

「これは誰の我儘を聞いていることになるんだ」

 呆れたような安堵したような、だが間違いなく喜色の滲んだ呟きが零れ落ちる。正解だったのかな、と胸の内のもやつきが消えて、そのまま目を閉じた。

 直に誰かに触れられるのは苦手だと思っていた。しかし今、しっかりといだく腕の中にいて自分でも驚くほど安心する。

 自分が何者か分からず、どこにいても、ここにいて良いのかと疑問が消えなかった。それがやっと居場所を許されたと思えるこの上ない安定感。

 神のもたらす恩寵が確かに続いていると信じて、多幸感にもうしばらく身を任せることへの許しを心の内で請う。

 暖かく穏やかな午後はあまりに贅沢な時間――この時が在ることに、セレンは心から感謝した。


 ――完――



 おまけに続く。

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