神の祝福(月色の瞳の乙女)

蜜柑桜

彼の幸福な昼下がり

 ケントロクス聖堂が建つ一帯は常に静謐な空気が流れている。荘厳な祈りの堂は、前に立つだけで自らを律する。

 ——この時間に来るのも久しぶりだな。

 昼下がりであれ、繁華街の喧騒とは無縁の厳粛な空気は、利己心や我欲、あらゆる煩悩を滅せよと求める。

 久しぶりに昼日中の穏やかな陽に照らされる丸屋根を見上げて一礼すると、男は裏の住居棟へと回った。



「あらバカサートル。なんともぴったりのお出ましね」

 鍵のかかっていない扉を開けて玄関に入ると、廊下の先から聞き慣れた声がした。失礼千万な呼びかけはいつものことだが、常のことだからと言って文句がないわけではない。

「フィロは一体いつになったら俺を馬鹿と呼ぶのを止めるんだ」

「あんたが馬鹿じゃなくなったらやめてあげるわよ。それとももう馬鹿じゃないと胸張って言えるのかしら」

 幼馴染の手厳しい発言は、自分を呼び出しておいてどうかと思うが、残念ながら言い返せない。クルサートルはさらに風向きが悪くなる前に用件に移ることにした。

「セレンは? 服の合わせだったんだろう」

「もう済んだわよ。あんたの贈り物とのことですから最高級の材料で作ってあげたから感謝しなさいよ」

「それは正直に感謝す」

「請求書はあとで送りつけるから分割なしで遅滞なく払ってね」

「法外でないことを願う」

 せっかく礼を言おうとしたのにこの言い様だ。げんなりとなるのを見て、フィロは「友人割引してあげたわよ」と笑った。

 フィロは仕立て屋の娘である。今日は近日中に赴く大国カタピエの夜会用に、招待客の一人であるセレンの夜会服の試着と調整を行っていたのである。大国へはクルサートルと共に行くわけだが、仕上げるから見に来いとフィロに呼びつけられたのだった。

 鞄の留め具を閉じつつ、フィロはふふん、と不敵な笑みを浮かべる。

「セレンはいつも綺麗だけれど、今回のはあたしの今の腕で二番目の出来だから覚悟しなさいよ」

「何だ二番って」

「実物見て理性なくしてセレン困らせてごらんなさい。殺すわよ」

 人の質問には答えずに物騒な台詞をサラリと言ってのける。一体どんな服を作ったんだと思うが、聞く前に、早く行け、と廊下を譲られた。

 そして自分の方は玄関へと向かい、扉を開けて振り返る。

「あたしの一番いい出来は、あんたたちの結婚式に取っておいてあげる」

 にやりと告げると、フィロはクルサートルの返答を待たず、パタリと音を立てて戸の向こうに消えた。

 ひとこと言いかけた口を仕方なしに閉じる。言いたいことだけ言って躱して去るのがフィロらしい。大体、理性を失うとかどんな代物だ。どこぞの好色色ボケ馬鹿ではあるまいし。

 何を考えてるんだか、と思いながら、セレンの自室の戸を叩く。フィロから話が行っているせいか、すぐに「どうぞ」と返事があった。

 フィロの話も大袈裟だろうと、なんの気も無しに戸を押す。

「クルサートル」

 息が止まった。

 窓のそばに佇んでこちらを向いた姿が目に入った瞬間、扉を開けたそのままの姿勢で金縛りのように身の自由が奪われる。

 セレンの装いは、他の選択肢はあり得ないと思うほどセレンにぴったりだった。

 明るさをやや抑えた白に近い薄い銀の布は、控えめな光沢のせいか窓から入る陽光を受け止めて優しい輝きを放つ。服の造りは実に簡素に見えるが、それがかえって本人の魅力を隠すところなく引き出していた。

 丸みのある華奢な肩は幅の広い肩紐で隠されて、むしろ細い首筋に視線を行かせる。布から出た鎖骨の下ではわずかに濃い色の帯状の布で胸が覆われ、真上に見える肌の白さを引き立てる。飾りはただ一つ。肩紐と見頃が繋がる箇所には、同じ布で花の形を模した飾りが右胸にだけついて、少しだけ華を添えていた。

 さらに、布は体の線に沿って下へ落ちて背筋の良さを分からせるし、腰の切り返しからは斜めに切られた複数の布が縫い合わされて、腿あたりから裾にかけてなだらかに広がり、女性らしい美しさを主張する。

 控えめな色合いと少なめの露出でセレンの物静かな気質を表し、それでいて少ない装飾と自然な形が嘘偽りなく芯の強い心根を表すようだ。

 長い髪は普段の通り簡単に一つに縛っているだけなのに、着ている人間の外見の美しさも内なる魅力も、余すところなく伝えてくる。

 虚飾を排し、布地本来の趣を生かした自然な造りは、清純で潔癖、強くしなやかな反面、華奢で可憐というセレン自身を見事に具現化する。

「クルサートル? 大丈夫?」

 思わず視線が逃げて俯き、手が扉に支えを求めていた。

「……フィロに……殺される」

「え!?」

 敗けた。完敗だ。

 ――あいつ凄いな……

 けして官能的ではない。だが筆舌に尽くしがたい刺激が強すぎる。

 ここまで特定の人間に適した服を仕立てる手腕は他に類を見ないだろう。素直に感嘆を認めるしかない。

「な、何かフィロが言った? もしかして値段が」

「いや、悪い。それは気にしないでいい。なんでもない」

 慌てて畳み掛けるのでなんとか精神力を総動員して立て直す。ぎりぎり理性は失われていない。窓際まで進んで、待っていたセレンと向き合った。

 改めて近くで見ると、よく似合うという言葉が陳腐なほどに似合っている。思ったままを伝えると、「ありがとう」と嬉しそうに微笑んだ。

 やたらな賞賛と謙遜の応酬は無駄に思える。短くも和やかな沈黙は、むしろ互いに相手の望みを期待して待つ証拠と分かる。

 そしてその期待が実現されるという確信も。

 いいか、と視線で問いかけると、いいよ、と少し照れた瞳が見上げてくる。

 朱が差した滑らかな頬に手を添え、笑んだ桜色の唇を上向かせてやる。長い睫毛が震え、すぐ間近まで近づく――

「おい……」

 もう触れるというところで、頬がするりと指から逃げた。小さく吹き出して俯きがちになり、肩がわずかに震えている。

「こら……いつまで笑ってるんだ」

 本来の行き場を失い代わりに額に口付ける。しかしこれでは満たされない。しばらくは我慢しきれずにくすくす言っているのを聞いてやるのに甘んじるが、全然足りない。

「ごめ……」

 顔を上げたところを捕まえて、言葉の続きを奪った。

「謝らなくていい」

 軽く息を塞いだあとに一言、謝罪を言わせる代わりに短い呼吸を許してやる。しかし次は、そう簡単に逃さない。

 こぼれ落ちるような笑いが絶え、窓からの風がさぁっといって吹き抜けた。

 交わす言葉もなく、しかし相手の存在を互いに確かめながら、甘やかな快に思いのまま身を任せる。昼下がりの陽光に温められながらも、触れて伝わる熱の方がずっと熱い。五感が研ぎ澄まされつつおぼろになるような妙な感覚を覚える中、鳥の囀りと葉擦れのさざめきだけが心地よく鼓膜を震わせた。

 自他の境界が曖昧になるほどに、重なり合う意識に酔う。昂るのに落ち着く心は、彼女とでしか持ちえまい。

 ある程度の充溢を味わったのち、どちらともなく重ねた唇を離す。すると目が合うか合わないかのうちにセレンが頭をぽすんとクルサートルの胸に埋めた。いつものことだが、恐らく本人は見られたくないほど顔が真っ赤に火照っているのだろう。

 これがフィロの言うところの殺す理由に該当するのかと疑問が頭に掠めたが、もしそうでも別にいいか、と思う。証拠も残らないし。大体こんな服を作ったフィロも同罪だ。

「クルサートル、鼓動が速い」

 ふと、しばし腕の中でじっとしていたセレンが可笑しそうに呟いた。

「そういうことは、敢えて言わないでおいてくれ」

 肩に回した腕の力をややきつくする。抱いた相手の顔が見えなくなるが、かくいうセレンも耳まで赤い。こんな姿をフィロが目にしたらそれこそ無事では済まなそうだ。だが、普段は見せないセレンの顔を自分以外が知る必要はないし、知られたくもない。

 そう思ったら、思い出したくも無い人物の顔が頭に浮かんで、途端に不快感が穏やかな心地の邪魔をする。

 あの馬鹿男がこの服を着たセレンを前にどんな反応をするのか想像の域を超える。

「カタピエに一緒に行くのは、やめるか……」

「えっ?」

 セレンが頭を跳ね上げた。意外な反応である。腕を緩めてやると、珍しく驚きが全面に表れている。

「行かないのか?」

「俺は公務だからどうしても行くけれど。セレンは招待されているとはいえ必須ではないし」

 そうか、と言う目がいつになく残念そうである。

「セレンは行きたいのか」

「もし、いいなら……招待してもらったから二人でメリーノに挨拶するべきだろうし、せっかくこんな素敵なのを作ってもらったし……」

 服もかなり気に入っているのだろう。確かに一張羅の出番が無いのでは、特に女性は寂しいかもしれない。

 さらに眉を下げつつ、遠慮がちに言い添える。

「夜会もクルサートルとなら、一度くらい出てみたいし……」

 その顔でその発言は反則ではないのか。

 こうなったら観念する以外の選択肢はない。長い溜息を吐き切ってから抱擁を解く。

「分かった――行こう」

 二人揃って赴いて、あの腹の立つ好色馬鹿に見せつけてやるのも悪くない。純朴なセレンを見ていると、そんな意地の悪い企みを考えるのも性格が悪いなとは思うが、いけ好かないあの男相手になら構わないだろう。

 連れて行くと言ったら、目の前の本人はもう嬉しそうであるし。

「クルサートルが行きたくないなら我儘を言ってすまない。でも、今から楽しみだ」

 一体、どのあたりが我儘なのか。どちらかといえば自分の方の我儘だというのにセレンにとっては違うらしい。少しは甘える顔も見せてくれるようになったものの、なかなか私欲を言わないのは変わらない。

「むしろセレンは、もう少し我儘を言ってくれた方が嬉しいのだけれどな」

 すると銀の瞳が丸くなって、すぐに思案顔に変わる。また何か難しいことを考えさせてしまっただろうか。

 しばらく沈思黙考するのを見守っていると、セレンはおもむろに口を開いた。

「クルサートル、今日はこのあと、仕事は?」

「ああ、今日の分はもう済ませてきたから」

 それがどうしたのかと答えると、セレンは「それなら」と、まだ言いにくそうにしながら、挑むようにこちらをじっと見る。

「ひとつ、我儘を言っても」

「もちろん。言ってみろ」

 あまりに真剣で、しかしなかなか決心がつかないといった様子は、打ち明けねばならない重大事をいざ言おうとして躊躇うのと似ている。

 続きを待っていると、口をわずかに開いては閉じるのを二、三度繰り返す。ここまで言い渋るとは一体どんな我儘だというのだ。セレンならそう無茶なことは言わないと思うが、さすがにここまで来ると身構える。

 伏目がちに「その、」と言ってからさらにその後数秒、やっと呟きが零れ落ちた。

「仕事が無いなら、もう少し……一緒にいたら、駄目かな」

「これは誰の我儘を聞いていることになるんだ」

 思い切り脱力したら、知らずのうちにもう一度抱き寄せていた。これほど仕事を済ませてきて良かったと思った日は過去にない。

 神聖な聖堂つきの居室で神に愛された娘を独り占めしては、怒りを買うだろうか。

 ただ、目を閉じて安堵しているセレンを見ると、神にすら渡すものかと思ってしまう。それとも、もし現在いまが赦されているのなら、これも神の恩寵だろうか。

 これまでになく満ち足りた昼下がりが永遠とわに続けばいいと、そんな我儘を言いたいのはおのれの方だ。


**


 本編「月色の瞳の乙女」後日談です。

 https://kakuyomu.jp/works/16817330667049844136

 ドレスの話はスピンオフ「最高の仕立て屋参ります!」より。


 クルサートル視点での彼の幸福な昼下がりでした。彼女の幸福な昼下がりに続く。

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