第6話 交錯

「べつに謝る必要はないけど。人格交代なんて、まーまー頻繁ではないけど、度々起こるし。それよりさあ、俺が気になったのは、その質問の意図だよなあ。お前さんはさ、K君とやらのなにになりたいんだい。お前さんの妄想の内容とやらは知識で知っているけれど、だからといって、ちょっとユキナや紅玉にチャットで呼び出されたからってここまで来るなんて、常軌を逸しているぜ。K君にそれほど執着しているのかい。元カノが憎いくらいに」

「……していないと言ったら、うそになるけど」

 私の感情は、私が受け取るべきものを奪った相手に対しての憎しみだ。本来、私が受け取るべきものなどないため、その感情に論理的な正当性はない。統合失調症がみせた幻だ。だけど、私はそれが諦めきれない。私が欲したものの残滓が少しでも他人にあれば、憎らしいと思ってしまう。それを追いかけてしまう。後先も考えず。

「住所どころか、本名すら知らない仲なのに。お前さんのために、夜更かしして通話してくれたこともなければ、お前さんだけにみせる笑顔のひとつも知らないような男なのに」

「それでも、K君が好きです」

「なんで、好きなんだ」

「わからない」

「思うに、統合失調症の陽性症状からも解放されたお前さんがK君に固執してしまうのは、現状に満足できないからじゃないのか。旦那となる人が、凡夫で、満足できないのだろう? 違うか?」

 違わないとも言い切れなかった。もし、旦那となる人が、たとえばYouTuberだったら、私は率先して応援していたかもしれない。K君の動画を見ている隙間もないくらいに、忙しく、推していたかもしれない。

「お前さんがユキナや紅玉の口車に乗せられてきてしまったのは、お前さんの心の隙間が大きいからだ。K君を愛することで、いや実際には愛していないが、愛するふりをすることで、その隙間が埋まるとお前さんは信じている。無意識かもしれないが、俺にはそう見える。お前さんにはなにもない。本当は旦那となる人すら愛していない。ただなにもないから、なにかあるふりをしたいだけの凡人だ。ただ何も遺さず、生きて、死んでいくだけの、凡人」

「ちょっと失礼じゃないですか。K君の指摘はともかく……」

 自分でも驚くほど、声が高くなったが、なにを否定すべきなのかはよくわからず語尾が弱くなった。小学三年生のときの自由研究の発表会で、さやかちゃんがお金に印刷された偉人について調べものをして、最後に「私もお金に印刷されるくらいの功績を世に遺したい」と締めくくっていたのを思い出した。ばからしい。いまどき功績や語り継がれる善行なんて、普通の人じゃ遺せないに決まっている。普通以上になれる望みなんて、私はとっくに捨てている。あるいは後世に遺すというのは、子供のことを指すのか。

 私にはなにもない。このままいけば子供は産まない。育てていける自信はないし、旦那となる人はそういう私の不安定さを嫌がるだろう。

「…………」

 ユキナは無言で前をみて運転を続けていた。

 沈黙のなか、車は水族館に着く。駐車場に停車する。

「降りないんですか」

「交代したんだ」

 ユキナが戻ってきたとわかっても、安心できなかった。

「ユキナが都合のいい時は人格を使って逃げるなんて思わなかった」

「そんなに都合のいいものじゃないですよ。ちょっと心が揺れたら、交代しちゃうんです」

「ひとつだけいい? ……海斗さんって三十代じゃないでしょ」

 いつまでも不機嫌な態度でいられないことも理解していたため、私は車をおりた。

「アイスクリームおごってくれたら、私から逃げたこと、許してあげる」

「いいですよ、紗季さんのためならなんでもご馳走します」

 犬みたいに、ユキナは笑ってついてきた。

 順番通りに渓流の魚から見て回り、クラゲの巨大水槽や、ウミガメをみた。

「水族館で大事に育てられた魚っておいしそうですよね」

「そういうことは、しーっ。飼育員さんに失礼だから」

 とくにクラゲの巨大水槽は、ぷかぷか浮かぶ白く細かなくらげがピンクや青のライトで照らされて、幻想的だった。恋人の聖地に認定されているらしく、恋人と一緒につけるための南京錠も販売されていた。屋外アザラシプールの横の階段を昇ると、幸せの鐘があって、私たちは鐘の前でふざけて何回もカンカンと鳴らしまくった。

 閉館ぎりぎりの十七時まで二人で居座った。お土産屋さんでくらげのぬいぐるみが欲しいと駄々をこねてみたが、荷物になるので千葉まで持って帰れない。私はただ買いたいだけだった。ユキナに買ってあげて、家に置くことで決着した。

 海を切り取ったみたいな、青い琥珀糖も購入した。私は車のなかでそれを食べた。楽しかった思い出が、胃の中で永遠に溶けて混ざって離れなくなるように。日本海の綺麗な青さが、私の中で生きるように。

「今日の夕ご飯はなににしますか? あと……言いにくいんですけど、紗季さんの滞在日数によっては私は外食に付き合えない日もあるかもしれません。食費、決まってるので……」

「わかった、じゃあ私が家でごはんを作るよ。昨日、冷蔵庫の中は見たしね」

 ユキナは目に見えて、活き活きとした表情になった。

「とりあえず、今日は、肉じゃがを作るね」

 玉ねぎ、にんじん、じゃがいもは、家にあったはずだった。

 帰宅して、ユキナが風呂に消え、私がじゃがいもの芽と格闘していると、妹さんが帰ってきた。赤のインナーカラーを入れた髪が特徴的で、ブランドもののバックを片手に提げているところがユキナと対照的だなと思った。その妹さんは私を見るなり、

「あーこれが噂のユキねぇの恋人さんか」

と、言い放った。

「恋人ではないですよ。初めまして、黒川紗季っていいます」

「中村いとです。わあ、夕飯作ってくれてるんですね、家庭的。おいしそ。姉が好くわけですよ。ってか私、お邪魔虫ですね。これから一週間くらいは彼氏のとこに厄介になるんで、どうぞ、紗季さんは我が家でくつろいでください。姉はいま風呂ですか?」

 肯定すると、妹さんは、唇に指をあてた。

「姉と顔を合わせると小言ばっかりでウザいんで、もう行きますね。服だけ持っていきます」

 妹さんが部屋を漁り、荷物を持って出ていくのと、ユキナが脱衣所から顔を出したのは同タイミングだった。

「もしかして、妹、帰ってきたんですか」

 玄関の扉が開く音で気が付いたのかもしれない。

「うん、もう出て行ったけど」

「あいつ、また、ふらふら出歩いて……もう」

 ユキナが顔を両手で覆う。

「仲良いんだね」

 ようやくじゃがいもの芽すべてを取り去ることに成功した。肉とたまねぎを炒めはじめると、油の弾ける良い音がした。換気扇の電源を入れる。

「私はそうありたいと思っていますし……、向こうもそう思ってくれていたら、いいんですけどね……」

 寂しそうなつぶやきをしているのは気になったが、私は調理に集中してしまい、返事ができなかった。肉じゃがは完成した。すこし玉ねぎが焦げたが、ユキナは美味しいと言って食べてくれた。ほっとした。

「明日は学校だね。その間、どうしようか」

「二限から四限までなので、十六時半で終わりですね。大学の近くに大きな公園があるのですが、そこに写真館もあるんですよ。土門拳記念館っていうんですけど。そこで散策とかどうですか」

 私は了承した。ユキナのほうから、こうした提案をしてもらえるのはありがたかった。私は荷物の中から、デジカメを取り出した。一眼レフを買っていないことからもわかる通り、カメラは趣味というほどでもないが、嗜む程度にやっていた。

 時間は過ぎていく。ユキナの大学の通学に合わせながら、私も酒田市を散策していった。土門拳記念館、シャッター街になりつつある中町、高台にあり海の見える日和山公園。

 滞在は三日もすればいいと思っていたのに、気が付けば、五日にもなっていた。

 その間、茂樹とはLINEでやり取りをした。しきりに北海道の写真をねだられたが、場所など特定されようものなら、言い逃れするのが面倒だった。私は適当に、水族館で撮影したアザラシの写真や、加工して海だけ見えるようにした写真などを送って騙した。美香と茂樹は繋がっていないから、茂樹はどれだけ不審に思おうと美香に訊ねることはできない。


 シゲ:会社行ってくるね

 Saki:行ってらっしゃい、気をつけてね


 朝から雨が降っていた。私は布団に寝転がったまま、スマホでそういうやりとりをして、やっと起き上がる。

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