第5話 海斗さん

 夕飯をココスで済ませ、それから、ユキナの住む家へと向かう。ユキナが妹と住んでいるという家は、駅からほど近い、線路沿いのアパートだった。ユキナが電気のついていない部屋の鍵を開けて、そこに私が布団を運び込む。家の中は散らかっていた。あまりの汚さに上がるのを躊躇するほどではないが、ごみ捨てに行けないらしく、封をされたごみ袋がいくつか玄関先に置いてあった。

「妹さんは?」

「最近、社会人の彼氏ができたって土日は帰ってこないんです。十八歳なので好きにしたらいいとは思っていますけど、こういうのを放蕩って言うんでしょうか。まあ学校は問題なくやっているみたいですけど……」

 妹さんは近くの短期大学校に通っているらしい。優秀な成績で入学したため、返済の必要のない奨学金をもらえていると、羨ましそうな口ぶりでユキナは補足した。

 妹の部屋にユキナが寝て、ユキナの部屋に私が寝ることになった。もう一つの空き部屋はけして開けてはいけないと言い含められた。いわく「機材置き場と撮影場所にしている」そうで、だれにも触れられたくないとのことだった。

「そういえばユキナ、今日私と会ってから人格交代してないよね。大丈夫なの」

「前にも言いましたが私は表に出す人格をだいたい決められるので大丈夫です。主人格の冴はまともに話せないし、海斗も紗季さんに興味ありません。内海で紗季さんの相手は私がするって、意見がまとまっています。紗季さんの前だと紅玉が出てくるかもしれませんが、紅玉が出てきたら、逃げてくださいね。ほとぼりが冷めるまで、外に出るか、部屋に閉じこもるかしてください」

 紅玉というのは、ユキナの破壊人格にあたる女性だ。ひどく傷ついたときや、ユキナの邪魔をしたいときに出てくる。ヒステリーな性格で、ものを投げたり、壊したりする。この間はテレビを壊したと言っていた。費用の関係で修理も新しいのを買うこともできず、この家はテレビなしで暮らしている。チャットで私を煽ったのも、紅玉だと思われる。

 ユキナも交代人格のひとりだが、主人格に代わって体の主導権を握り生活を送っている。ユキナは自覚年齢が二十三歳の女性だ。体の名前は、中村冴。身分証明書上では十九歳。冴本人は、聞いた私がいたたまれなくなるほどの悲惨な事件に巻き込まれて心身を喪失し解離性同一性障害を発症した。いまは自我を曖昧に、心の内側・内海に沈んでいる。ほかによく出てくる人格は、海斗という三十歳の男性で、バイクが好きらしい。主にバイトのときや、恐怖を感じたときに出てくるそうだ。ほかにも勝手にユキナが名前をつけた、春人、夏海、冬子などがいる。彼らはタレント性のある性格で、配信をしている。ただし幼いため、ユキナが表ではあまり出ないように抑制しているとのことだった。それでもたまに出てしまうことはあるが、少なくとも学校ではユキナ一人で生活できているという。「アパートが頭の中にあるんです。そこに海斗や、姿かたちのはっきりしない春人や夏海や冬子や、暴風みたいな姿をした紅玉が暮らしているんです。交代するときは声をかける感じで。ひとによっては椅子に座ると人格が変わるらしいですが、私はそういうのはないですね。あ、紅玉だけは声かけとかなしに勝手に出てきます。いまは冴本人はアパートにいません。失踪しています。あと、頭の中の情報はおおむね共有できますし、海斗の声はユキナとして表に出ているときでも聞こえるときはあります」と、以前、聞いた。

 治療としては、カウンセリングで冴本人が抱えているPTSDを克服することが必要ならしいが、医者は「いま事件の記憶を克服するのは難しいだろう」と判断しているとのことだった。それにカウンセリングにはそこそこお金がかかる。ユキナが人格たちの手綱を握る限り、人格の統合を急ぐ必要はないため、社会人になってから統合を目指すつもりだとのことだ。

 多重人格に疑わしいものを感じないと言ったらウソになるが、私はひとまず医者から診断を受けているという点では信じることにしていた。それに冷静にみえるユキナがなにもないのにテレビを破壊するとは思えず、誰かの仕業と言われたほうがしっくりきた。

 シャワーを借りて、髪を乾かし、ダイニングテーブルに座ると、ユキナはホットミルクを出してくれた。

「日曜日はなにをしますか? 行きたいところとかあるんですか?」

「特に決めてない。日曜日も、私の相手、してくれるんだよね?」

「はい、学校の課題はみんな終わらせて、一日空けています。どこに行きたいとかないなら、加茂水族館に行きませんか。くらげを展示する巨大な水槽があるんです」

「水族館か。くらげ、あんまり見たことないな。見に行きたい」

「じゃあ、そうしましょう。おやすみなさい」

 明日の予定をおおまかに決めて、新品の布団に入った。慣れない天井を眺めてもぞもぞしていたものの、睡眠薬を服薬しているので、意識を保てていたのは少しの間だけだった。

 日曜日になり、予定していたとおり、加茂水族館に向かう。道中、私はずっと気になっていたことを訊ねてみた。

「K君と交際していたって言っていたけれど、K君は、解離性同一性障害を受け入れていたの?」

「交際している間中、私は病気のことは言いませんでした。チャットに紅玉が出てきて、説明を求められたときに、解離性同一性障害のことを話して破局しました」

「そもそもなんで知り合ったの」

 声が震えた。それを知れれば、私もお近づきになれるなんて考えたわけではないけれど、頭の隅にその思考はあった。

「向こうが私のTwitterアカウントにDMしてきたんです。K君の動画よく支援RTして感想言っていたので、それで目に留まったんだと思います」

「え、そんなことするなんて、日常的にファンを食ってるってことじゃないの」

「たぶんそうです。幻滅しましたか」

「幻滅もなにも……」

 そんなふうにお近づきになれるのならば、そうしていたのに。私はSNSのアカウントは、Instagramで友達に合わせて「〇〇にごはんを食べに行った」「〇〇に旅行に行った」というふうな内容しか投稿しない。TwitterでK君の動画の布教なんて思いつきもしなかったし、そういうことをして本人と繋がれるなんて考えたことがなかった。どこまでも愚鈍だ。出遅れた。奥歯がギュッと鳴った。

「K君と実際に会ったの」

 それが一番大事な質問だった。

「さあ、どうでしょうか」

「はぐらかさないで」

「はぐらかすもなにも、ねえ」

 ユキナはここで車の小物入れから、煙草の箱とライターを取り出した。青い箱のラッキーストライク。綺麗な仕草で煙草を咥えて火をつける。ここで私は異変に気が付いた。ユキナは煙草なんて吸わない。

「あ、同乗者に、煙草吸っていいか訊ねるのがルールだっけ。ひとりで乗ってるのがフツーだから忘れてたわ。ごめん、ごめん」

 ユキナは車の窓を全開にして煙を逃がした。私は鼻先で軽く手を振って、滞留した煙を追い払った。

「あなたは海斗さん?」

「そうだよ。交代するつもりはなかったけど、ユキナが答えに窮したから、してしまったなあ」

「……なんか、すみません」

 姿かたちはユキナと変わらず、それなのに、私は謝罪しなければならない威圧感を覚えた。

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