第4話 山形県酒田市へ

 思い立って、美香に電話した。美香は数コールで出た。軽く近況報告をしあい、私は息を大きく吸った。統合失調症のことを話そうとした。でも言葉が出てこなくて、私は常々言わないようにしていたことを、口に出してしまった。

「美香は、子供、ほしいって思わないの」

 美香は結婚してもう三年経つ。私は今まで美香のこの話題に触れたことはなかった。美香と親しくないから聞こうとしなかったのではなくて、これまで私が子供に興味がなかったからだ。結婚が目前になって、他人の夫婦の子供の有無が気になるようになった。

「うち、DINKsなの。DINKsって聞いたことある?」

「知らない」

「共働きして子供を作らない夫婦や生活観のこと。Dual Income No Kidsの略」

 美香は美容師として仕事をし、いつかは自分の店を持ちたいと言っている。その一方でおじいさんおばあさんになっても、旦那と海外旅行に行きたいとも願っており、それをすべて叶えるのがDINKsという生き方らしい。

「子供はね、嫌いじゃないけど、自分の遺伝子をすごく遺したいという欲求はないから。旦那もね、私が自分らしく生きてるほうがいいって」

「そうなんだ。そういう生き方もあるんだ」

「うん、自分らしさを損なわないって大切だと思うよ。結婚や子供を産むだけが女の生き方じゃないよ」

「……うん、あのね、美香に話したいことがあって、去年から病気なんだ。統合失調症ってわかる? あれになっちゃったの、私」

 美香は「そうだったんだ」と驚きながらも、「だから会社を辞めたんだね」と合点がいったようだった。

「私の美容室には電磁波おばあさんが来るよ。若いお客さんが理想の髪型を私にスマホに入ってる写真で見せようとしたのね、そしたら、急に隣に座っていたおばあさんが、スマホの電磁波で私の身体をハッキングするつもりなんでしょう、5Gでおかしくさせるつもりなんだ、私はその被害にあったことがあるって叫び始めてね。集団ストーカーがおばあさんのこと狙っているんだって。すぐに統合失調症だって気づいたけど、その場はなんとか落ち着かせて、ほかのスタッフに髪切ってもらって帰らせたよ。おばあさん、スマホ持ってたけど、アルミホイルでぐるぐる巻きにされててねえ……本人も生きづらいんだろうなって思ったよ」

「美香は私のこと避けたりする? 正直に言ってほしい。そしたらもう連絡しないから」

「うーん、べつに、紗季が統合失調症になっても、それまで紗季と過ごしてきた年月が消えるわけじゃないからね。それにべつに紗季の妄想でなにかの被害を受けたわけじゃないし、いま治療してるんならさ、いいかなって感じ」

「そう……」

 気の抜けた返事になってしまった。美香はなにか取り繕ったような声ではなかった。それに嫌いなものは、はっきり言う性格だ。嘘はついていない。美香はほんとうに私をなんとも思っていないのだ。それから美香とは、正月にまた実家に戻るから、会えたらいいねという話をしてから、電話を切った。

 私は茂樹のドアをノックした。ドアについた擦りガラスから灯りがついているのはわかる。反応がないので、そっとドアを開けると、茂樹はパソコンを開きっぱなしで寝ていた。パソコンの画面には二次元のキャラクターの胸部がでかでかと映っており、画面上の小さな窓では三次元のAVを再生途中だった。幸いにしてパソコンはヘッドフォンが繋がっており、喘ぎ声が聞こえることはなかった。茂樹は見始めてからすぐ寝落ちてしまったようで、パジャマのズボンもふつうに履いたままだ。

 私は横のベッドから毛布を持ってきて、かけてあげた。ベッドから毛布をはぎ取ると、百センチ以上はある肌面積の多い絵が印刷された大きなクッションが顔を出した。茂樹の部屋はこういった二次元のキャラクターだらけだ。カーテンレールには、水着姿の女の子の絵のタペストリーが何点かかかっている。マウスパッドは女の子の胸が盛り上がった形のもの。茂樹はいつだったか「このままじゃ親に結婚できないぞって言われた。結婚することは義務なんだからっておばあちゃんにも怒られて参った」と語っていた。私は茂樹を揺り起こすこともせず、そっと電気を消して部屋を出た。

「美香に会ってこようと思うの。ほら結婚前に女友達と旅行するの、最近流行ってるでしょ?」

 翌日、なんでもないふうを装い、仕事から帰ってきた茂樹にそう言ってみた。茂樹なら断らないだろうなと感覚でわかっていた。予想通り、茂樹は「行ってきたらいいよ」と許可を出した。


 Saki:来週、山形に行くよ。


 ユキナからの返事はなかった。Discordは既読がついたかどうかもわからない仕様なので、非常に不安だったが、それより山形に行って自分の気持ちをはっきりさせたかった。ユキナに会って、明確に失恋してしまえば、自分の気持ちに蹴りがつけられるのではないかと思った。もし仮にユキナに会えなくても、それはそれで、一人旅を思い出にしてしまえばいい。

 茂樹には新幹線で出発するふりをしながら、実際には東京から出る夜行バスに乗り、山形県酒田市に着いた。ホテルの予約はしていない。ネカフェでいいと考えていた。

 時刻は朝六時二十分くらい。朝焼けの空をバックにし、バスを降りてスーツケースを持った人たちは、ばらばらに解散していく。私は少し歩き、駅の中の暖房の効いた待合室に移動した。十月の気温は少し肌寒かった。


 Saki:着いたよ。

 ユキナ:いまどこですか? 迎えに行きます。


 返事は早かった。私がユキナからの返事がなくても、到着時刻などを自分勝手に送信しておいたおかげだろう。

 ほどなくして、ユキナは車を運転して迎えに来た。青いワゴンRのなかで手を振る、黒髪の若い女だった。顔写真はDiscord上で交換していたのでだいたい雰囲気は知っていたが、実際の表情の動きは見知らぬ人のそれだ。

「迎えにきてくれてありがとう、ユキナちゃん」

 声や表情が硬くなっていないかどうか気になった。

「来てくれて嬉しいです。紗季さん、助手席に座ってください。荷物は適当に後ろで大丈夫です」

 その言葉に従い、スーツケースは後部座席に横に入れる。助手席に乗ると、「ここ狭いので移動しますね」とユキナはハンドルを回した。酒田駅は市にひとつしかない駅舎なのに、私の住む町にある駅舎とほとんど変わらない大きさだった。駐車場も狭い。近くのファミリーマートに移動して朝食を買いながら、これからのことを相談した。

「夜はネカフェに行こうと思うんだけど、送ってくれる?」

 送ってもらわなくても、駅から歩いて行ける距離であることは確認していた。

「あ、酒田市のネカフェは十月二日で閉店しました」

「え、そうなの」

 私がグーグルマップで見ていた情報は古いものらしい。市内にあるビジネスホテルに電話してみたものの、やはりネカフェに宿泊するよりだいぶ高くつく。最低でも三泊ほどするつもりだった。薬は一週間分持ってきている。

「うちに来たらいいですよ。布団は買わないとないですが、部屋は3DKなので、一部屋余っています。住んでいるのは私と妹だけなので」

 ニトリで商品を検索してみると、一万円以内で布団三点セットが買えるようだった。

「ほんとうにいいの? ありがとう」

 ユキナを完全に信用していたわけではないが、見た目は普通だったし、学生として大学に通っているというのも聞いていたので、判断が甘くなった。同性しか家にいないと聞いたのも大きい。

 ニトリが開店したら、まずは布団を買いに行くことにした。ニトリは酒田から十四キロ離れた三川にある。ニトリで買い物したあとは、昼食をイオンのフードコートで食べ、それから湯野浜海水浴場に海を見に行った。私はふだん海といえば太平洋だから、日本海が見たいと希望したのだった。

「あっちと、海、違いますか?」

 荒い風に髪の毛が持っていかれそうになる。

 片手で前髪を抑えながら、ユキナは訊ねてきた。

「千葉と比べたら、こっちの海のほうが景色がひらけている気がする。でも海の色とかの違いはわかんないかな」

 せっかくだから、夕陽も見たいと希望した。ユキナがスマホで日没の時間を調べてくれて、それまでまだ時間があるので、コンビニで温かい飲み物を買ってきてもらった。私はその間ずっと、果てることのない波濤を眺めていた。

 夕陽が赤々と燃えながら沈んでいく様は、旅行に来た甲斐があると思わせるほどの非日常感があった。

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