短編集「ハ、春」
青切
ハ、春
初春のよく晴れた日。
休日の日課である長い散歩の途中、川沿いに生えている菜の花をながめていたら、昔、付き合っていた女の口の味を思い出した。瞬間、私は何となく、女が死んだかと思った。虫の知らせというやつである。
その女と私の付き合いは、学生時代の三か月間であった。女に飽きるのが、もしくは飽きられるのが早い私としては、長く付き合ったほうだった。
別れようと思った理由は何となくだった。
学校の下校時、雨が降っていた。すると、女が私に傘を差しだした。その時の笑顔が気に入らなかったので、私は、進学で県外に出ることを理由に女に別れを切り出した。それ以来、その女とは会っていない。
その女と過ごした日々を思い出すと、ずいぶんとひどいことをした記憶がある。しかし、それらはすでに私の中では遠い過去であり、その記憶はあいまいなものが多かった。女の顔もよく思い出せない。
その女はかまぼこのような目をしていた。いまの私は、そのような目をした女が苦手である。アダルト動画サイトを物色していても、そういう目をした女は避けている。自分がひどいことをした自覚から、一種のトラウマとなっており、その女のことを記憶から封印し、彼女に似ている女を避けているのだろうか。そういう微妙な事柄は、自分のことながらよくわからない。私はそういう人間であった。
歩きながら、そのようなことを考えていた私の目に、また、群生している菜の花が映った。すると、再度、女の口の味がした。死んだのだろうか。死んだのなら、それは悲しいことであったが、それと同時に、私の嫌な過去の記憶が薄らぐような気がして、もしそうならば、それもいいかなと思った。
そこそこ長い坂道をのぼると、右手に田畑が広がっていた。その中に梅の木が一本あったのだが、花はすでに散っていた。その春は異常な暖冬であり、風の強い日が多かった。
春に梅の木と言えば、山上憶良の歌を思い出す。
春されば まづ咲く庭の梅の花 独り見つつや 春日暮さむ
ハルサレバ マヅサクニワノウメノハナ ヒトリミツツヤ ハルヒクラサム
古文を知らないと、この歌にはひっかかるところが二つある。
まず、「春されば」だ。これは「春去れば」ではない。「春さる」で、「春が来る、春になる」の意味になる。
そして、「独り見つつや」の「や」と「春日暮らさむ」の「む」が係り結びの関係にあり、ここでは反語の意味になる。
てきとうに訳してみると、次のような意味になる。
春になると、最初に咲く庭の梅の花を、一人で見ながら、春の一日を過すのだろうか、いや、そのようなことはできない。
なぜ、菜の花を見て、昔捨てた女の口の味を思い出し、できれば死んでいてくれればいいのにと思ったのか。
私はさみしいのか。たしかに私は、さいきん、さみしくてしかたがない。さみしくて昔のことを思い出すことが多い。そうすると、昔、その女に私がしでかしたことを思い出さざるを得ない。だから、さみしいけれど、その女には死んでいてもらいたいと思っているのだろうか。
私はスマートフォンを手に取り、連絡先の一覧から、女の名前を探した。女の名前があった。
まさか、きみの口の味を思い出したから、連絡を取ってみたとは言えないので、お元気ですかとメールを打ってみようかと思った。菜の花の写真を添えて。
相手は返事をくれるだろうか。別れたあと、一度、女が電話で復縁をせがんできた。まだ、私に未練があるだろうか。ないといいな。生きているならば、幸せならばそれでいい。クラスメイトが昔を思い出して、メールを送っただけ。近況報告をしあい、同窓会とかで会えたらいいねと話を終える。そういうふうにはいかないだろうか。
そんな風に文面を考えていたら、会社の先輩から電話がかかってきた。あした、気心のしれた男連中だけで、花見をしないかという内容だった。私は迷わず参加することにした。
電話を切ると私は、彼女への書きかけのメールを削除した。
気がつくと、道の両脇に、無数の菜の花が咲いていた。
季節の春はすでに来ている。しかし、私に恋人との春は来ていない。もう、死ぬまで来ないかもしれない。そして、それはそれでよいようにも思えた。
自室に戻った私は、ユーチューブで、スガシカオの「八月のセレナーデ」をかけながら昼寝をした。夕飯までよく寝れた。
「……どうしたの?」
「いや、菜の花を見ていたら、急に、きみの口の味を思い出してね。それで、メールを送った」
「なにそれ、気持ちが悪い」
「気持ちが悪いだろう?」
「私の口の味がして、どう思った?」
「きみが、死んだかと思った」
「それを確かめるために、メールを送ってきたの?」
「そうだよ。昔と同じく、ひどい人間だろう、ぼくは」
「そうね。でも、やさしいときは、やさしい人だったわ」
「そう……。そう言ってもらえると助かるよ」
「私に会いたい?」
「会いたくない」
「さみしいのに?」
「……さみしいけれど、きみには会いたくない」
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