第8話 「復讐」
王宮の長い廊下を歩きながら、私の心は不思議な平穏と緊張で満たされていた。それぞれのステップが私をかつて愛した女王の寝室へと近づけていく。ドアが開くと、そこには変わらぬ美しさを保つ彼女がいた。彼女の姿を見た瞬間、時間が一瞬止まったように感じた。
「お久しぶりです、女王陛下。」声には軽やかさを持たせながらも、どこかでほのかな震えが隠れている。彼女の前に立つのは、数年ぶりであったからだ。
彼女は微笑みを浮かべながら、「エドモンド、あなたがここにいるのを見て、とても嬉しいわ。」と言った。その声には温かさがあり、彼女の眼差しは私を温かく迎え入れていたが、その目には複雑な光が宿っていた。
彼女の部屋は朝の光で明るく照らされており、その光が彼女のシルクのドレスを柔らかく輝かせていた。彼女は窓際に立ち、庭の緑を背景にしていた。その姿はまるで絵画の中の女神のようで、私は思わずその光景に心を奪われた。
彼女のお腹は妊娠によってふっくらとしており、新しい命の兆しを内に秘めている。彼女は手をお腹に当て、その新しい命を守る母の姿を見せながらも、昔ながらの友人としての私を温かく見つめていた。その眼差しは、かつての愛情と現在の生活の間の橋渡しをしているかのようだった。
彼女は話し続けた。「あなたが宮廷画家として認められたこと、本当に良かったわ。あなたの才能が認められる日が来ることを、いつも信じていたもの。」
彼女の部屋に満ちる柔らかな光の中で立ち、これまでの経験を語り始めた。彼女の表情に興味が満ちているのを感じ、私も自然と話に熱が入った。
「陛下、宮廷画家になるまでの道のりは、まるで古い物語のような冒険でございました。美術学校では夜遅くまでキャンバスと対峙し、周りが自由なスタイルで画を描く中、私は王族の肖像に専念しました。教師からしたら同じ絵ばかり描く変な学生だったと思います」
彼女の微笑みが一層広がり、私も感じた喜びを共有するように話を続けた。
「休日は教会で壁画を描く日々でした。大体この辺りの教会でしたら一度は触れているかと思います。賃金はあまり良くはなかったですが、食料をいただけたので学生にはありがたい限りでした」
ふふっ、と笑う彼女につい饒舌に語る。
「あれは、教会で壁画を手がけていた日だったかと。教会で描き続けていたら。ついにある貴族の目に止まり、そこからキャリアの転機が訪れ、徐々に私の名前が知られるようになりました」
彼女が興味深そうにうなずくのを見て、話に花を添えた。
「そこから多くの高貴な顧客から依頼を受け、国内を飛び回る日々を送っておりました。それぞれの肖像には、その人の歴史と権威が込めらるよう描き、リアルかつ芸術的にキャンバスに映し出す技術を磨き上げて参りました。美術学校でこの日のために描き続けて来たものが実を結んだときは、嬉しかったものです」
彼女の目が過去を懐かしむように輝いているのを感じた。
「そして今、ここにおりますことを大変光栄に存じます。陛下、あなたの輝かしい瞬間を描かせていただけること、心から感謝しております」
そして完成した絵をみて、彼女は驚く。穏やかな表情をした姿。渾身の一枚だった。そして彼女の目からは涙が零れていた。私はその涙を拭い、そして手を取る。
「これからは私もいます。あなたがあなたの道を歩むことを、私はこの絵とともに側におります」
遠く長い旅の果についにここにたどり着いた。それは私だけでなく、彼女もだった。
出産の前のその日、空は曇っていたが、私の心は不安と希望で満ちていた。窓辺に立つ彼女を見て、私は彼女が抱える重さを感じ取ることができた。彼女のお腹が大きく膨らみ、新たな生命の重みを物理的にも感情的にも支えているのだ。
私は彼女の近くに静かに歩み寄り、手を取った。彼女の手は冷たく、不安に満ちているように感じた。
彼女はためらいながらも私を見上げ、「もう間もなく、私たちの子供がこの世に生を受けます。でもあなたとこうして話すのも最後になるのかもしれない。それが怖いのです」と打ち明けた。
私は心から彼女を理解し、支えたいと思った。「私たちは共にこの国を導いています。私たちの子供もまた、この国の明るい未来の一部となるでしょう。」
彼女の顔に浮かぶ一抹の不安を払拭するために、「あなたもこの子も安全に、そして健やかにこの世に生まれてくるでしょう」と言い加える。私は彼女の肩に手を置き、力強く言葉を続けた。「世界から祝福される」
私たちは一緒に窓から見える広大な王国の景色に目を向けた。子供は無事に生まれたという話を聞いた。だが彼女の無事は聞くことが出来なかった。
会えるようになったのは数日後のことだった。
「最後に描いてほしい」という王からの依頼があったからだ。それはどういうことかと問おうとしたが、彼の顔を見て理解した。
廊下を歩く足取りが重く、受け入れがたい現実であったが、それでも歩いた。
彼女の部屋には暗がりが広がり、唯一の光源であるろうそくがほのかに揺れていた。彼女の床辺に座り、私は彼女の手を握りながら、彼女が静かに眠りにつくその瞬間をスケッチブックに捉えようとしていた。絵筆が紙の上を滑る音だけが、時折り聞こえる彼女の浅い呼吸とともに静寂を破った。
「エドモンド... 子供は... 無事ですか?」彼女の声はかすかで、しかし画面に映し出される彼女の目には明るい光が宿っていた。
「はい、元気な子です。あなたの美しさと強さを受け継いでいます。」私はそっと答えると、彼女の顔に再び筆を走らせた。彼女の強く優しい目もと、苦しみの中にも美しく静かな口元を描き出した。
「それは良かったわ... 私の愛を、この絵を通して子供に伝えてください。そして、あの子を守って、エドモンド。」彼女の言葉は私の心に深く刻まれ、それを絵に込めるように筆を動かした。
「貴方がどれほど美しく勇敢であったかをいつも目の前に見ることができるでしょう」私は彼女の肩に優しく手を置き、その手を筆でなぞりながら最後の一筆を加えた。
完成したそれは赤子を抱いた聖母のような女性画だった。ここにはいない。空想。だが求められているのはこの絵だろう。
「かわいいわ、私の愛する娘」
彼女は微笑みを浮かべ、その瞬間、部屋に穏やかな静けさが広がった。彼女の手の温もりが少しずつ失われていくのを感じながら、私は最後のスケッチを完成させた。夜が更けていく中、私は彼女の静かな息遣いを胸に刻みつつ、この作品が未来への橋となることを願った。
彼女は死んだ。
そして私は宮廷画家として絵を描き続けた。薄情かと思う自分がいた。彼女の言葉だけが全てだった。
やがて彼女の子供は育った。子供は白雪姫と呼ばれていると噂では聞いていた。
白雪姫は人目に付かぬよう大切に育てられ、
女王と呼ばれた彼女かなくなってから数年が経っていた。私は初めてその姿を見た。
狂ったように咲き乱れる花の中、月明かりに揺れる白いドレス。
薔薇のような赤い唇が目に焼き付く。
「あなたが宮廷画家のエドモンドてすね」
真っ直ぐに見据える彼女の目は、心まで見透かすようだった。
明るかったあの人の子供とは思えないほど、冷たい。宮廷の中で育った彼女は幼いながらに、王族となっていた。
「私はあなたの絵を見て育ちました」
子供を宿した穏やかでいて何処か寂しげな顔。その意味は何か。穏やかな母親の顔。でもどこにもいない。
「あなたは。私を恨んでいませんか?」
彼女は私に問う。聡明なこの子は子供ながらに理解をしていた。あるいは大人の誰かに聞かされたのかもしれない。
自らが生まれることがなければ、母親が死ぬことはなかった。母親の死で立っている自分。それは人を殺したのと代わりはない。そう思っているのだろう。
彼女を傷つける者について、憤りを覚えたが、それもすぐに収まる。
彼女を傷つけて、慰めるフリをし、操ろうと画策する者。母親を亡くして哀れな子供を依存させ、権力を手にする。欲しいもののために、手を尽くす。ここはそれが当たり前の場所だった。
生まれ落ちた場所は変えることができない。彼女がそうだったように。私がそうだったように。
この汚い場所でこの子は育つ。だから私は答えた。
「はい、恨んでおります。あなたがいなければきっと彼女は亡くならなかったでしょう」
それは事実だろう。死亡したのはおそらく出産時の出血による衰弱。はたまた感染症などもある。
いずれにせよ産むことがなければ死ぬこともない。出産が理由で死んだのは紛れもない事実だ。優しい大人ならどう答えるのか。そんなことはないとでも言うのか。まぁ、そうだろう。
「しかしながら、子供の貴方が死んだからと言って何になりましょうか。私は満たされない。何も幸福を知らず、悲しみしか知らない者が死んだからと言って、それは貴方の願望です。貴方の幸福であり、私の望みではございません」
私が駆け上がるために費やした情熱も、いまはない。
「だから大人になってください。幸せになってください。誰かを愛してください。そして私はそうなった貴方に復讐します。それが私の願望で、それがあなたの贖罪です」
愛していた。亡くしてしまった。壊れてしまった。いまここにいるのは夢の残骸。
私が上り詰めた意味もなければ、身分も何も意味はない。
けれど彼女が残した物が、その行末が見届けられるなら。きっとこの身体にも意味がある。
「私を見届けていただけますか?」
はい、と。私は答えた。
それから彼女は大きく育った。人を愛した。私はその日が来ることを夢を見ながら、今日もまた絵を描く。
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