第6話 「先代」


それは、私が王国の宮廷画家となる前の話。



私が子供だった頃、海の見える国に住んでいた。海運業て有名な場所で諸外国から様々な物が運ばれる物流拠点だった。潮の香りと眩しい太陽。それが私の故郷だった。そして彼女の故郷でもあった。


私は幼い頃から、父が王室の造船所で船大工として働く姿を見て育った。

今では先代女王と呼ばれる彼女が、まだ公女だった時代。彼女は船に無限の好奇心を抱いて、しばしば造船所を訪れていた。他の王族とは違い、彼女の目には宮殿の大理石の廊下から木製の船甲板に足を踏み入れたときも、消えることのない輝きがあった。


私たちの友情は、ある霧のかかる朝に始まった。彼女は私が新しく造られた船をスケッチしているのを見つけた。彼女は静かに近づき、「それ、素晴らしいわ」と肩越しにささやいた。その声は、海鳥や波の音と混ざり合い、私は驚いて炭を紙に滑らせてしまった。彼女は笑った―その笑い声は水面や船の船体に反響し、遠くまで響き渡った。



彼女は事実上の私の弟子だった。子供時分の私は教えられるほどの技術もなかったが、彼女が王室の厳しいスケジュールから解放された貴重な時、ひっそりと造船所の片隅で落ち合った。そこでは、彼女の目はいつも海の広がりに引かれ、船の堂々とした姿に心を奪われていた。私は彼女にキャンバスの前でどう足を置き、どう筆を持つかを手取り足取り教えた。彼女の最初の線はためらいがちだったが、やがて確信に満ちた流れるような筆遣いに変わっていった。


私たちは船舶や海の様々な表情を描いた。穏やかな朝の海面に映る柔らかな光、嵐の日の荒れ狂う波の描写。彼女は特に、夕日が海に沈む瞬間を捉えるのを好んだ。その時、海は金と紫の層に染まり、船のシルエットが鮮明に際立つ。彼女の筆はそれを見事にキャンバス上に再現し、見る者にその場の空気感まで感じさせるほどだった。


私たちのセッション中、彼女はしばしば笑いながら、「こんなに自由に表現できるなんて、本当に楽しいわ」と言っていた。その言葉からは、普段の公務で抱える重圧から解放された安堵と喜びが伝わってきた。彼女の筆使いは次第に大胆になり、色彩はより大胆に、構図はより大胆に進化していった。それは彼女自身の内面が開放され、本来の自分を表現する過程を物語っていた。そんな幼い子供同士だった時代も終わり、やがて私達も大人になる。


私たちは海岸線に沿って歩きながら、これまでのセッションで作った作品について話をしていた。風が強く、彼女の髪が舞い、私は思わずその髪を整えてあげた。その瞬間、彼女の目が私の目を捉え、一瞬だけ時間が止まったように感じた。その視線には感謝と何かを訴えかけるような深い感情が含まれていて、私の胸は締め付けられた。


その日の夕方、私たちは夕日を背景に一緒に絵を描いた。彼女が描く海の絵は、いつも以上に感情が込められていて、その筆致からは彼女の心の内が伝わってきた。私はその横で彼女の横顔をこっそりとスケッチした。彼女の目元の穏やかな曲線と、唇の端に浮かぶ微笑み。このポートレートは私だけの宝物として、私の心の中でずっと大切にされることになる。


その晩、私たちは星空の下で沈黙を共有した。海の音だけが周囲に響いていた。私は彼女に対する自分の感情を抑え、ただその瞬間を彼女と共にいられることに感謝した。彼女が王族であること、私が画家であること、そのすべてがこの静かな夜には意味を成さず、ただ二人の魂が通じ合っていることだけが真実だった。私たちの間の身分の壁は高く、越えることは許されないが、その夜私たちはただの二人の人間として、美しい一時を共有した。


あの日は海風がいつもより冷たく感じられた朝だった。私たちはいつものように海辺でスケッチをしていたが、彼女の様子はどこか違っていた。普段の明るさが影を潜め、彼女の眼差しには重たい決意が宿っていた。


彼女が突然、私の手を取り「私の嫁ぎ先が決まりました」と静かに告げた。その言葉は、突然の波が岩に打ち寄せるように私の心に衝撃を与えた。私は一瞬、言葉を失い、ただ彼女の手の温もりを感じながら無言で立っていた。


私たちの間には、これまで言葉にされなかった多くの感情が流れていた。だが彼女の告白によって、全てが一瞬にして形を変えた。私は心から彼女の幸せを願う一方で、私たちのこれまでの時間が変わり果てることへの寂しさを抱えていた。

彼女の声にはほんのわずかな揺らぎがあったが、それが彼女の決意の強さをより一層際立たせていた。


私は彼女を見つめ「君の選択を心から尊重するよ。未来に祝福がありますように」と返した。声が震えずに言えただろうか。自信がなかった。ただ彼女はどれだけ自然な姿であっても、この国の王族だった。元々身分が違う者同士だ。交わらないことはわかっていた。


その日の夕日が海に沈む時、私たちは一緒にキャンバスに最後の一筆を加えた。彼女の未来への一歩と、私たちの間の一時が終わりを告げる瞬間だった。私はその夕焼けの美しさを、決して忘れない。彼女が新しい道を歩み始めるその光景を、永遠に心に刻むことにした。



朝の光がスタジオの窓から差し込む中、私は美術学校からの一通の手紙を手に取った。封を切り、折りたたまれた紙を広げると、そこには私を推薦する彼女の署名があった。その瞬間、胸の中に渦巻く感情が噴出した。彼女が、私の新しい人生を始めるために、私の未来を思ってこの手紙を送ったのだと知り、怒りが心を支配した。権力を用いて、哀れみで美術学校へ通えるように推薦をした。それは屈辱以外の何物でもなかった。


私はこのまま激情に任せて手紙を破り捨てようとした。あと少しの力でこの手紙はただの紙になるだろう。もしも自尊心があるのなら、この手紙は破り捨てるべきだ。それはわかっていた。わかりきっていることだった。だがその少しの力さえ加えることが出来なかった。私は自らの弱さに涙が止まらなかった。


これがなければきっと私は画家になれないだろう。


私は理解していた。どれだけ絵が描けようとも、ただの船大工の息子だ。いまはまだ絵を描かせてもらっているが、やがては親と同じとなるのだろう。何もなければ、何も変えられない。この世界は不平等でコネクションがいかに大切であるか。たとえ屈辱であろうとも、卑怯であろうとも、この手紙は画家としての未来の架け橋だった。喩えそれが彼女の憐れみによるものであっても、犠牲によって成り立つものであっても、自分の未来のために捨て去ることが出来なかった。


私は窓の外を見た。外は朝露に濡れた庭が静かに輝いていて、一日の新しい始まりを告げていた。私は深呼吸をした。彼女はもういない。私達は大人だ。自らの力で生きていく。今はまだ人の手が必要で、それは情けないことかもしれない。ただその時が来たら立てるように、そのために成すべきことを見据えなければならない。


私は冷静さを取り戻すと、手紙を机の上に置いた。これが私にとってどれほどの意味を持つか、痛いほどに理解していた。才能があっても機会に恵まれず、画家としての道を諦めるしかなかった人々の顔が頭をよぎる。彼女が自らの幸せを犠牲にしてまで、私にこのチャンスをくれたのだ。ならもう決めた。そこに行くだけだ。


私は決意した。彼女の新たな国で、宮廷画家として働くことを。それが私にできる彼女への最良の返礼だと思った。彼女と同じ空の下で、彼女が新たに築く世界の一部として、私の芸術で彼女の存在を彩りたい。彼女と結ばれることはなくても、彼女のそばで最高の作品を生み出し続けることで、彼女の人生の一部になれると信じている。


手紙を大切に折りたたみ、心の中で彼女に誓った。もはや過去の感情に惑わされることなく、この新しい道を全力で歩むと。そしていつか、彼女の前で自信を持って自分の作品を披露できるその日を夢見て。私は画材を手に新しい場所へ向かう準備を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る