第二十八話 森の中の対話

 空に跳んだその一瞬。


 一瞬だけ、時間が止まったような気がした。


 眼下には、黒ぐろと広がるヴァルチャーの森。


 視界の端にはアルバトロス山の威容がそびえる。


 黄昏の空はあくまで高く、世界はあくまで広い。


 素晴らしいパノラマだ。

 だが、ゆっくり景色を楽しんでいる暇などあるわけがない。


 風圧が、落下する俺の身体をねぶる。

 約百メートルの高さからの、フリーフォール。


 何もしないままでいると、数秒後に俺は、地面に叩きつけられて死ぬ。


 落下方向に目を向けると、わずかに離れたところにシルクの姿。

 ムササビのように身体を開いて、落下速度を調整している。


 宝珠を持っている彼女ならば、この高さから落ちても死ぬことはない。


 俺は空中で体勢を変え、頭から突っ込むように彼女に近づいてゆく。


 みるみるうちに、彼女の姿が近づく。

 そして、地面も──。


「シルク!」


 叫ぶと、シルクが首を巡らせてこちらを見る。


 信じがたいものでも見るように、彼女の目が見開かれる。


 彼女は咄嗟に身を翻し、俺の方に対面する。


 差し出される、宝珠。


 その宝珠を俺が掴んだ瞬間、俺達二人の身体は同時に地面に叩きつけられた。


 体感的には、走り高跳びでマットに落ちた程度の衝撃だった。

 だが、実際は硬い地面の上に叩きつけられたのだ。

 爆裂音が辺り一帯に響き渡り、土砂が水飛沫のように巻き上がった。


 もうもうと立ち上る砂煙が視界を遮る。


 やがて、シルクの姿が、砂埃の中からぼんやりと浮かび上がってきた。


 彼女の肢体は、俺の身体の下に組み伏せられるようにして横たわっていた。


 美しかった白毛は埃にまみれて黄ばみ、見る影もない。

 だが、その目はかつて無いほど澄んだ輝きを放っていた。


 宝珠は、重ね合わされた俺達の手の中で、深く青く、海のように輝いている。


 身体に力がみなぎる。

 宝珠の力だ。

 宝珠の力が、俺の身体能力を増強している。


 そこには、明らかな実感がある。

 だが、不思議なことに、思考の方には、明確な差が感じられなかった。


 俺が他のNPCと同じ存在なら、雲を払うような知性の冴え渡りを実感できるはずなのだ。


 だが、俺の思考は凪いだままだ。

 いたっていつも通り。


 麻薬を決めたようなぶっ飛びを覚悟していただけに、存外拍子抜けだった。

 一方のシルクの方は、明らかな変化があったようだ。


 それは、彼女の澄んだ瞳からも伺い知れる。


 俺達はしばらくの間、ただ黙ってお互いの瞳の中を覗き込んでいた。

 先に口を開いたのは、シルクの方だった。


「……追いつけたってことは……なんの躊躇もなく飛び出したね。人間なら、確実に死ぬ高さだったのにさ」

「宝珠に触れていれば、この程度の高さでも死にはしない」

「アンタが、どうして、そんなこと知ってるのさ」

「色々知ってるぜ、俺は。なんせ、知の試練を通ったんだからな」

「……素敵な言い訳だね。知の試練を通ったって言えば、どんなことを知っていても不思議じゃないって思わせられる。それも計算して動いてたってことなのかな」

「勘ぐりすぎだ。どうしたんだ、一体」

「……宝珠の力さ……。それが、アタシに色々と気づかせてくれる……。バカなせいで今までわかってなかったことも、全部……」


 彼女の澄んだ瞳の中に、憂いの色が差しこむ。


 今の彼女なら、俺の嘘や誤魔化しなど、俺の表情から瞬時のうちに察してしまうだろう。


 あまり悠長に話していたくはない。

 俺は単刀直入に、要求だけを口にした。


「宝珠から手を離してくれ。これは、本当に危険なものなんだ」

「なら、ますますアンタに渡したくないね。アンタなら危険に晒されてもいいっていうの?」


 そう言って、彼女は軽く笑う。

 彼女はその視線を、己の手に握られた宝珠に移す。


「にしても、すごいね、宝珠ってのは、本当に……。まるで、アタシ、本物の天才になったみたいだ……」

「だからこそ恐ろしいんだ。こんなものは、長いこと持っているべきじゃねえ」

「それも、わかる。わかるけど、でも……抗えない。今のアタシなら、魔王だって殺せる気がする」


 彼女の視線が、再び俺の目をまっすぐ射抜いた。


「アンタのことだって、今なら、なんとなくわかる。……ジェイド……やっと、アンタの隣に来れた気がするんだ」


 俺が言葉の意味を問うより先に、彼女は言葉を重ねる。


「ジェイド、アンタには夢はある?」

「なんだよ、藪から棒に」

「答えてよ。じゃなきゃ、この手は離さない」


 宝珠を握る手に、力がこもる。

 俺はしばし唸った後、おもむろに答えた。


「──許嫁のベリルと結婚して、幸せな家庭を作る。ガキは十人はほしいね。ガキどもが一人前になるまで、親父から継いだ肉屋をしっかり切り盛りしてな。そして……」

「本当に、その夢が叶うと思ってる?」


 俺の言葉を遮るように、シルクが問うた。


「アンタは、ずっと一人ぼっちだったじゃないか。アタシといる時も、誰といる時も。今のままじゃ、これからだって、きっとずっとそうだ」


 俺が一人ぼっちだと? そんなわけあるかよ。俺には──。


「アンタは、ずっとどこか遠くを見てた。一人で何かを抱えてさ、アタシが隣にいるときだって、ずっと一人みたいな顔してた」


 ふっ、と、その面差しに、寂しげな笑みが浮かぶ。


「……わかるかよ? バカジェイド。アタシは、ずっと……」


 彼女の瞼の端から、涙が溢れてこぼれた。


 ──正直、わからなかった。


 何もわかっていなかった。……宝珠を手にするまでは。


 いや、これは、宝珠を手にしたからわかったことなのか?


 それとも、彼女の涙が俺にわからせたのか?


 それすらもわからない。


 何もわかっちゃいなかったんだ、俺は。


 彼女がどれほど、俺を心配していたのかも。


 彼女がどれほど、寂しい思いをしていたのかも。


 のけ者にされそうになった時の焦りも。


 出番はないと言われた時の悲しさも。


 何も。


「……ごめん」

「謝んなよ、バカ」


 彼女は片方の腕で涙を拭い、鼻をすする。


 涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔に、おどけた笑顔が戻る。


 それから彼女は、冗談めかしてこう言った。


「……知ってる? この宝珠は世界に七つあってさ、全部集めると龍が現れて、一つだけ願いを叶えてくれるんだってさ」


 いつだったか、ルタが彼女に言って聞かせたおとぎ話だ。


 だが、俺は知っている。


 それは、罠だ。


 世界に仕掛けられた、恐るべき罠なのだ。


「バカ。そんなのは根も葉もないデマだ。騙されるな」


 俺は首を振って、彼女の言葉を否定する。


 だが、それは間違いだった。


 彼女の目に、再び怜悧な光が灯った。


「騙す? 誰が? 誰がどんな意図で騙してるってんだい」

「……それは……」

「語るに落ちたね。アンタは何かを知っている。宝珠の秘密や、この世界の秘密、いろんな秘密を知っている。だから、アンタは一人ぼっちになってしまうんだ」


 柔らかく温かな肉球が、俺の頬を撫でる。


「ねえ、教えてよ。アンタは何を見ていたの? 時折、ずっと遠くを見ていたよね。どうしようもなく一人ぼっちみたいな顔してさ。教えてよ、ジェイド、アンタには何が見えていて、何を知っているの?」

「話したら、宝珠を渡してくれるか?」

「ああ、渡すよ」

「約束してくれるか?」

「約束する」


 彼女にを話すことには、抵抗があった。


 は、彼女にとって、天地を逆転させるような話に違いないからだ。


 できることなら、話さずに済ませたいところではある。


 だが、時間がない。


 魔将軍イルゲイルが動き出すまで、もう寸刻の猶予もない。


 だから、俺は話した。

 彼女に、この世界のことを。


 この世界がゲームの世界で、俺がそのゲームの制作者の一員だったことを。


 そして、これから先起こる出来事を、ある程度把握しているということも。


 俺の話を聞き終える頃には、シルクの顔面は驚愕の表情でいっぱいになっていた。


「……信じられない……。じゃあ、ジェイドは、神様ってことなの……?」

「今は、違う。だが、この世界を作った時の記憶は残っている」

「アンタがどこか冷めた目をしていたのは、そういうこと? 神様には、アタシ達のことが取るに足らないものに見えてしまうの?」


 俺は僅かに考えた後、首を横に振った。


「いや、違う。むしろ、この世界に真実があるとすれば、お前達だけだ」

「……どういうこと?」

「この世界の人々は時々、神の操り人形になる時がある。『イベント』っていうんだけどな……。そういう時、この世界が作り物だと嫌でも実感させられる。円卓の間の会話も、六諸侯の試練も、あのあたりは全部イベントだったんだぜ」


「ああ……。タルフの試練は、アタシもおかしいと思ってたんだ。そっか、あいつは、神様に操られてたのか」

「今だって、イベントは動いてる。日が沈めば、魔王軍が山から攻めてくる。だが、それは魔将軍イルゲイルの意思じゃない。そういう筋書きになってるからそう動いているだけだ。そんなものに、俺達全員殺されそうになってるんだ」


 シルクの喉が、ゴクリと鳴る。


「イベントなんて一時が万事そうなんだ。予定調和だけで構成された三文芝居だ。擦り切れてボロボロになった脚本の内容を、俺は全部知ってる。世界が、できの悪い書割みたいに見えてくるぜ」


 シルクが、再び泣きそうな顔になる。

 だが──と続け、俺は彼女を安心させるために微笑んでみせた。


「だが、今こうして話しているお前は、間違いなく本物だ。今まさに俺に向き合い、心に思ったことを話してくれている。俺はお前が次に何を話すか、想像もできない。それこそ、生きてるってことなんだ」


 シルクは納得したのかしないのか、よくわからないというような表情を浮かべていた。

 それから、しばしの、黙考。

 長い思案の末に、彼女はポツリとこう呟いた。


「神様の台本がない世界なら、ちょっとはマシに思えるかな?」

「どうだろうな」

「この世界からイベントをなくすには、どうすればいいと思う?」

「魔王を倒すしかない。ゲームクリア後、プレイヤー……つまり勇者は、ゲームをもう一度最初から始めるか、そのまま平和な世界を満喫するか選べる。後者を選べば、イベントのない世界で永遠に過ごすことができるはずだ」


 再び、沈黙。

 やがて、シルクはゆっくりと頷いて、俺に向かって微笑んでみせた。


「……事情は大体わかったよ。アンタのことも、少しだけ……。話してくれて、ありがと」


 彼女の指が、一本、また一本と、宝珠から離れてゆく。


「宝珠はアンタに渡す。戦いが終わったら、もう一回このことについて話そうよ」

「ああ。そうしよう」

「約束してくれる?」

「ああ、約束する」


 とうとう、シルクのすべての指が、宝珠から離れた。

 俺はそっと、彼女の肉球の上から宝珠を引き離す。


 すると、シルクの瞳の中から、あの怜悧な光がすうっと引いていった。

 そして、またいつものシルクの顔つきに戻っていった。


 彼女は当惑しきりといった風情で、俺の顔と己の掌を交互に見やる。

 それから、おろおろと目を泳がせて、俺に問うてきた。


「あ、アタシ……アンタと、いま、ずっと話をしてたよね……?」

「ああ……」

「どんニャ話か、説明してくれニャい……? 自分が何言ったのかも、何を聞いたのかも、わからニャくニャっちゃったんだ……」

「いや、もういいんだ……」

「話してよ!」


 悲痛な声が、夕刻の森の中にこだまする。


 彼女は両手を己の眼前に掲げ、掌に視線を投じた。

 そこに今まであった感触を、思い出すように。


「……何も……わからニャくニャっちゃった……。さっきまでこの口で話してたことニャのに……。すごく大事なことだった気がするのに……」


 俺はそっと彼女の頭を撫でると、ゆっくり立ち上がった。


「ああ、大事な話だった。だけど、今は戦わなきゃな。戦いが終わったら、また話そう」


 と、その時。


 街の方角から、巨大な破壊音が響いた。

 遠くに、甲高い悲鳴が飛び交う。


「……嘘だろ」


 ──もう、始まっちまったんだ。


 イルゲイルの侵攻が。

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