第19話 ダディ イクライノ帰国

「ぐっすり眠れたかね?」

と言う声で私は起きた。

その声の主は強欲の所⾧であった。

チャン・ホンマンはその後ろにそそり立つように控えている。

「あなたのやった事は不法侵入ですが、法にかけてもよろしいかな?」

「不法侵入よりもひどい事をあなた方は私にしています」

「ほう?随分強気ですなあ」

「強気も何も私をここまで満身創痍にしたのはあなた方です!」

「チャン・ホンマンもあなたに顎を蹴られ目を突かれ満身創痍ですが」

「私の受けたダメージより彼の方が軽いはずだ。それに最初に足を引っ張ったのは彼だ。これは正当防衛以外の何ものでもないじゃないですか」

と所⾧への怒りをぶちまけると、それを制するように制服の軍人が私の手首に手錠をかけた。

「ここは南晩漠です。郷に入れば郷に従えです。正当防衛は通用しませんぞ。国家機密機関の立ち入り禁止エリアにこちらの制止を振り切って侵入した罪は重い事だと受け止めて頂きたい」

「治外法権ですか?」

「そうとも言う」

と私が答えたところで会話は終った。

何が“そうとも言うだ”と思った。

私は手錠をかけられたまま、高級外車に乗せられた。

車はゆっくりと発進する。

「これから空港へあなたをお送りします。我々は紳士なので、もうあなたを許しました。帰りの飛行機のチケットもここにあります。感謝して下さい。あなたが私達を訴えようがいっこうに構いませんが無駄な抵抗である事だけは言っておきます」

と所⾧は無表情で言った。

私は空港のロビーでポツンと一人座って飛行機のフライトを待っている。

意気揚々で南晩漠に乗り込んだ時とは雲泥の差だ。

しかし、妻が南晩漠に拉致されていることは確定した。

これは一歩前進だ。

イクライノに帰ってから何かしらの対策を考えようと思った。

生きている事が確認できただけで一つの不安はぬぐえた。

もう春がそこまで来ている。

温かな陽射しが凝り固まった心を少し柔らかくしてくれた。

座席に着いてのんびりしたら、エレナは元気にしているだろうか…とふと思った。

帰ったら「ママは南晩漠にいたよ」と淡々と言おう。

「生きてたらそれだけでラッキー!」

と明るいエレナは言いそうだ。

一気に疲れが私を包み泥のように眠った。


「イヴァンチュークさん、今回はご手配ありがとうございました」

「とんでもない、本当に申し訳なく思います。ボーンダルさんがまさかこんな目に合うとは思いもよりませんでした。怪我の方はどうですか?」

「顎の骨と膝の骨のひびは、こうして固定しておくしかありませんので日にち薬ですよ」

と私はイヴァンチュークさん宅で話し込んだ。

「私がもう少し父に確認しておけばよかったですね。そんな強欲で理不尽な所⾧と用心棒の大男がいるなんて予測できませんでした。すみません」

「イヴァンチュークさんが謝ることはありませんよ」

「そうですか。しかしこれは国際法に則って告訴ですな」

とイヴァンチュークさんは憤慨して語気を強めた。

外務省アジア交流部南晩漠担当課の幹部であるイヴァンチュークさんのお父さんに連絡を取ってもらうと言う事で私は帰路についた。

帰るとエレナが

「おかえりパパ」

と迎えてくれた。

南晩漠での件は小学2年生である彼女には刺激が強いかもしれないが全て話した。

これだけ怪我をしていて空港で転んだでは済まないからだ。

エレナはそれでも元気に

「ママがいたならエレナはそれだけで安心だよ」

と笑った。

数日が経ってイヴァンチュークさんから連絡があった。

「父が懸命に南晩漠に訴えて、奥さんの開放とボーンダルさんへの謝罪と保障を申し出たのですが、そんな人は来ていません…の一点張りで取り合ってもらえませんでした」

と彼は言う。

もう怒りを越えて落胆である。

今まで拉致被害者家族の訴えをこのように揉み消してきたのだろう、南晩漠という国は。

失意のどん底でもエレナとの生活はある。

今日も馬先生の道場にエレナを送る時間が来た。

いつしか自閉症の私は馬先生の人を包み込むようなオーラに癒やされ、心の壁の高さが随分低くなってきた。

初対面の門下生とも話せるようになった。

馬先生は武術だけでなくその高潔なお人柄で人間関係も円滑にしてくれる。

私は一門下生の保護者なのにいつも応接室に招いてくれる。

「今回は大変な旅でしたね」

「ええまあ」

「どうですか、イヴァンチュークさんのお父様に交渉してもらう件は?」

「それが…」

と私は事の次第をすべて話した。

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