晩夏
支配者を名乗った審議会が消えても、街の風景は変わらない。外壁は、いつもと同じように樹海のない何処か遠くの景色を映す。1ヶ月も前のことなのに街には今年のロードレースの余韻が残っていて、飲み屋で話題に上ったり、未来のロードレーサーを目指して自転車で往来を走る住人がいる。
階層間の移動には今日も多脚機械が利用され、管理委員会直属の生産所では食糧の研究と生産が続けられている。現在のところ資源難は解消されないため、上層部しか知らなかった立方体の間も変わらず稼働中だ。私たちの食卓には、原種を模倣したイ形の肉が人知れず並んでいる。
審議会が消える前から始まっていたいくつかの変化は、良くも悪くも日常になりつつある。街中を徘徊する動物頭の怪人の噂、行方不明者の像か。そして住人の一部に流行り始めた小型のペット。
最近では市外での巨大イ形の目撃情報は鳴りを潜め、行方不明者捜索のために自警団が市街に入っている。
人攫いだと噂の獣頭の怪人は発見されていない。その代わり、蔵先市街だけで流行する奇病の存在が示唆されている。自警団が他市街や樹海などで集めた情報を基に管理委員会の医療班が検証と対策をすすめている。
検証によれば、私たちがつけている住民ID識別用のバングルが、奇病の発症要因の一つであるとの可能性が示されているが、バングルを外すことで劇症化の原因のとなるとも考えられている。そのため、住民全員のバングルを取り外す施策はまだ行われていない。治験者を集い、医療研究所内で経過観察が行われている。
私はといえば、審議会が解体された翌日から研究所を休み、自宅に帰ってきている。体調を崩したり、仕事に行き詰まったわけではない。ただ、自分の歩みを振り返り、考えたくなった。そんな自分勝手な理由で毎日を過ごしている。
元々研究所に籠もっていたにも拘わらず、周囲の住人は私を覚えていた。初めは休日を謳歌していると思われていたが、一向に研究所へ出向かない私を見て、住人達は心配しているらしい。買い物に出たり家の前を掃除していると、声をかけられることが増えたし、見舞品をくれる住人までいる。
彼らと交流を深める度に、この狭い空間で生きるためには互いを想いあう必要がある実感するようになった。蔵先市街は、三瀬の外の現実とは異なる文化を形成していると思われるが、互いを想いあうこの慣習はそれほど悪いことではない。
今日も朝早くから玄関の扉を叩く誰かがいる。まだ私しか起きていないので声量を下げて訪問者に応対する。扉の先にいたのは斜向かいに住む壮年の婦人だ。
確か、第二層の雑貨商で働いている。趣味はお菓子作りで、最近は蔵先に持ち込まれた新たな原種、蜜柑を使ったクッキーやケーキを作るのに凝っている。いつも笑顔でバスケットを持って歩いていて、私も何度かクッキーをもらったことがあった。
「さっき、見てしまったの」
朗らかなはずの婦人は青白い顔で掠れた声を発した。
「何をですか?」
「あの、あのほら、動物の頭の」
思いだそうしたのか、婦人は目を見開き、口を震えさせた。よほど怖い想いをしたらしい。動物の頭といえば、噂の怪人だ。どこで見たのか、見間違いではないか? そんな風に尋ねたくなるが、茶化すような質問を浴びせるのも可哀想だ。
まずは落ち着くように伝え、一緒に深呼吸をする。周囲を気にするのは獣頭の怪人が現れるかもしれないという恐怖からだ。幸いにも怪人が建物に殴り込んでくる話は聴かない。落ち着くまで家で休んでいけばよいと、私は彼女を玄関に通した。
来客の予定はなかったので部屋は片付けていない。だが、お茶くらいは出せると伝える。夫人は玄関で休ませてくれるだけで充分だと、気丈な振る舞いをみせた。
それでも来客の放置は失礼だ。私はキッチンに戻り、昨日買った茶を湧かすことにした。婦人には玄関が寒ければキッチンのあるリビングに来るように伝え、手洗いは2階にあるから声をかけてくれと話す。
茶が沸くまでぼんやりとキッチンで立っていると、ガタガタと床を踏む音が聞こえ頭上で婦人の叫び声が響く。どうやら手洗いの場所を間違えたらしい。私は充分に染み出たお茶を容器に入れて持ち、婦人を追いかけ2階へ上がった。
予想通り階段を上ってすぐの手洗いの扉は閉まったまま。婦人は、通路の突き当たり、寝室の前にへたり込んでいた。
「どうかされましたか? 大きな声が聞こえましたが」
婦人は寝室を指さして首を横に振る。
「そこは寝室でお手洗いはこちらですよ」
「違うの、寝室に。右記ちゃん、あれはなんなの」
「特に変わったものはありませんよ」
「違う! あそこに、あれは、私が見た怪物と同じ」
「何を言っているんですか? 左伐は」
「左伐ちゃんなんていないじゃない! なんで、怪物がこんなところに!」
後半は金切り声だ。正確に聞き取れたか自信がない。だが、彼女は寝室で怪物を観たと言っている。口の形、慌てぶりはすっかり見慣れた光景だ。
「人の家でそんなに叫んで。仕方ないな……」
婦人はへたり込んだまま廊下の隅に逃げていく。彼女が怖いのは怪人のはずなのに、私に向ける視線にも怯えの色が浮かんでいる。怖がるべきものの峻別もままならない。だから動きが鈍るのだと思う。
やがて、騒ぎを聞きつけたのか階下からサモエドが上ってくる。口にはしっかりと手鏡を咥えている。長い付き合いになったが本当に忠犬だ。
ペットを飼い始めたのだと婦人にサモエドを紹介したが、婦人は震えるばかりで応答しない。仕方なく、私はサモエドから手鏡を受け取り、彼女を鏡に向けた。
鏡に映った彼女の身体には幾何学模様が浮き上がっている。皮膚や服が所々金属のような色に変色し、また流体のように流れているようにみえる。
彼女は獣頭を怪人と呼んだが、彼女もまた充分に怪人だ。
「暫くは人間大になるね。2週間くらいかな……迷惑かけるけれど、頼むね」
忠犬らしくサモエドが鳴く。そして、後に残ったのは婦人のいた場所に散った何かの欠片と、足下で身をかがめる婦人の姿をした獣頭の怪人だけだ。
「助かったよ。おやつの計画はこれから考えるから、下で待ってて欲しい」
サモエドに伝えると、吠えることも四つ脚で歩くこともなく、立ち上がり静かに1階へと下りていく。人間の身体を使うときのコツが掴めてきたらしい。
あの様子なら、1階で待たせていても安心だ。私は、下りていくサモエドを背に、婦人が覗きこんでいた寝室の様子を確認した。
「なんだ。左伐。やっぱり起きていたんじゃないか」
この家に越してきたのは研究所に配属になった初日だ。
それから今まで私は左伐と共に暮らしてきた。寝室の入口から右側のベッドが私。左側のベッドが左伐だ。左伐は朝も夜も私より30分ほど遅い。それは私が私であることを確かめる術として1日たりとも変わらなかった習慣だ。
「今日は少し早かったみたいだけど、起こしてしまった? お茶を沸かしたからか、来客が少しうるさかったのかな」
お互いのベッドの中間には、背の低い丸テーブルを置いている。それは、二人で何かを話し合うときに使ったり、お互いが何か些細な作業をするのに用意したものだ。しかし、実際には左伐が利用していることが多かった。左伐が起きている間、左伐を観察することに全霊を尽くしていたせいで私には何かを為す余裕がなかったのだ。
左伐はテーブルの前でいつものように礼儀正しく座っている。足を倒し、膝の上に両手を乗せて背筋を張る。彼女はいつだってその姿で私に話しかけた。
研究所に同僚が増えて嬉しいこと、案内係は誰もがネジが外れ気味であること、自分の育てた原種が街で食材となるのが嬉しいこと。彼女は自分のいままでを語り、私のこれからを知りたがった。
私は彼女に様々な話をしたと思う。けれどもそのほとんどは記憶にない。私の記憶にあるのは、左伐の手や足の形、首筋の傷、表情筋の変化、髪の質、彼女の声のトーン、好物、生活リズム。全てが左伐の観察で得られる情報で、私は左伐と自分の差異を探し続けていた。
例え初めが同じでも月日を経て決定的な違いが現れる。そう信じるために。
「まずは食事を準備してくるから少しそのままで待っていてね。左伐」
私は彼女に向かって微笑みかける。柴犬と呼ばれるものに近い彼女の頭は、くぅんと小さく鳴いてみせた。あの日までのように不安に駆られる必要はない。
左伐が私と“衝突”する可能性はもう消えた。
私と左伐は別のものになったのだ。
―――――――
「自分が何をしたのか理解しているのか」
暗闇ばかりが目立つ部屋で、彼らは私にそう尋ねた。
通信の記録、街の異常。私たちが計画してきた変化は、洪水のように街の歴史を押し流していく。だが、その速度が勝ったから私がここに立っているのか。それとも彼らは既に私たちへの興味を失っていたのかはわからない。
声をあげるのは、若者とも老人ともつかない、あるいは人間と呼ぶべきかも定かではない何者かたちだ。身体の半分以上が金属様の皮膚に変わり、審議会と呼ばれる場の椅子から離れることもままならない。食事や睡眠を棄て、“窓”から生まれた同朋を喰らう。審議員たちは皆そうやって生きてきた。
蔵先市街の設立時から現在まで、彼らの生き方が変わることはなかった。
――本当にこの結論で良かったのか?
探し屋は、南蔵田で犬を見つけ、自警団を引き連れて戻ってきた。
彼女たちは、手持ちの情報から依頼人が私であると考えた理由を話し、私に正しいかを尋ねた。
事の経緯について差異はあれど、依頼人は私だ。だから、彼女たちに肯定した。すると、彼女、譲葉煙は蔵先市街の変化をみて、こう尋ねたのだ。
――本当にこの結論で良かったのか?
あの日の私は、彼女のその問いに答える言葉を持たなかった。既に変化は始まっていたが、いきつく先など見えていなかった。それでも蔵先市街の変化を予期し、その問いを残した譲葉煙は、短期間のうちに私たちについて多くのことを知り、考えたのだろうと思う。
だから、彼女の問いに何らの不満はない。
彼女たち、探し屋にはその問いをする権利がある。
だが、探し屋は、私の眼前に座る支配者の姿を知らないのだ。
「わかっていますよ。わかっているからやっているのです」
咄嗟に出た言葉は、あの支配者らに向けたものだろうか、それともあの日の探し屋に向けたものか? 答えは私にもわからないし、洪水は私の答えを待ってくれない。
隣で小さく犬が鳴き、審議会という名の座が静寂に包まれる。
「ありがとう。良い子だね君は」
隣に座り込みこちらを見上げる犬の頭を撫でる。
白くふさふさした毛並みにつぶらな瞳。探し屋たち曰く、サモエドという種の犬に近いという。彼は今回の計画の要だった犬だ。エネルギーを消費し、元のサイズに戻った今でもこうして私たちに力を貸してくれる。
「君は忠犬なのかな? 忠犬でいてね」
自分が発した言葉が願いか祈りかはもうわからなかった。
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