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 森のクジラ。記憶屋が樹海探索の目印としたのは植物に包まれた倒壊寸前のビルだ。樹海に土台を侵された高層ビルはその3分の2近くを水場に鎮めている。頂上階から3分の1ほどが水場から地上に姿を見せている。

 30度近い傾斜だが、自重で崩壊することはない。傾いたビルを多くの樹海植物が支えるためで、その形状が水面に飛び出した鯨のようにみえる。ビル内部はイ界の侵食度合いが低く、樹海探索時の休憩地として活用されている。

「記憶屋以外からはひとつも聞かない話だったけれど、嘘じゃなさそうだね」

 足下にあたる壁に骨組みを取り付け、地面と平行に仮床を組む。クジラを訪れる探索者たちは10年以上の月日をかけ快適な休憩所を作成した。

 その作業には、常駐の管理者がいたわけではない。最も古い仮床が組まれた最上階に置かれた情報共有用のノート。それだけが探索者らの行動を決めている。探索者の一人である猿田もまた崩れかかった最上階の仮床を修繕している。

「蔵先の住人は樹海に出かけることを避けていますからね。こんなスポットがあると思い至りもしないと思いますよ」

「自警団は樹海を探索しているじゃないか」

「今の拠点だってサモエドが出現して始めて構築したと話す連中ですよ。ここまで遠征するとは思えない」

 猿田の言い分も理解できなくはない。加えてこうして休憩所を目にすると樹海を恐れている蔵先の態度への違和感が募る。

「この調子だと、南部樹海は未開拓だという話も蔵先からみた姿に過ぎないと思います。確かに樹海内に存在する市街は蔵先のみですが、外からの訪問者は多いのかもしれない」

「でも、今まで通った道は開拓されている感じはなかったよね」

「蔵先を通過しないルートがあるんじゃないですか? 南蔵田側か樹海の東側とか」

 西側、域外との境界線からの流入者は考えにくい以上、猿田の推測は的を射ている。

「ところでさ、これって本当にあのイ形を調理したモノなんだよね?」

 譲葉の皿に盛られたのは猿田が贔屓にしている中華料理屋の一品だ。確か、蟹のナッツ揚げ。味は完全再現されていて、この男にこんな特技があったのだと驚いた。それはそれとして、彼が調理したのは宿盗である。

「これさ、蟹じゃなくてヤドカリ」

「ヤドカリも蟹も一緒って姐さんも言ったじゃないですか。それに味は蟹よりです」

 譲葉は猿田にヤドカリと蟹が同じだ主張したことがある。ただ、それは鋏で人を狙ってくるあの感じが苦手という話で、同じ動物と言いたかったわけではない。

「食材を見て食べると違う感想が湧くね」

「オイルはちゃんと取り除いてるんで大丈夫すよ。店長直伝の方法だし、店で見せてもらったこともあるので間違いありません」

「そうなんだ……」

「不味いですか?」

「美味しいよ。味に不満はない」

 調理は既に終わっていて、いくつもの蟹料理がタッパに詰められている。ナッツ揚げと一緒に食べた蟹玉も店と同じ味だった。満足度はすこぶる高い。

「なら文句ないでしょう。さて、料理も終わったし下層も何カ所か修繕してきます。使わせてもらった恩だ」

 安全は確保したので安心してくださいと言い残す猿田の背中は頼りがいがある。追いかけて補修作業をみたら彼に心を奪われる……なんてこともあるかもしれない。

 だが、樹海探索は相棒に恋をする旅行ではない。譲葉は彼の言葉に甘えてクリームコロッケをつまみながら、最上階の壁と天井を眺めることにした。

 記憶屋が森のクジラを薦めたのは安全性だけが理由ではない。曰く、休憩所の補修と共に皆が地図を残していくのだという。その言葉の通り、最上階の壁と天井には多くの地図が書かれている。

「一人、二人……十人以上いないとこうはならないよな」

 この地図は一人あるいは一つのグループによって作成されたものではない。縮尺や記載方法に統一感がない。

 各々が樹海探索中に作ったメモを、他人のメモと繋ぎ合わせるように付していく。つぎはぎの地図は類似のルートを通った人間がいれば修正され精度を増していく。そうして、幾人もの記録が森のクジラを中心とする樹海地図を作り上げた。

 制作過程も興味深いが、より気になるのは地図の内容だ。

 最も古く掠れた壁面図。中央に示された水場――森のクジラから北東方面のルートが詳しく記されている。地図の端は樹海の出口へ繋がっている。猿田の指摘の通り蔵先を経由しない探索ルートが幾つも存在する。

 どのルートも樹海侵入から森のクジラまでは7~10日前後を要する。経由地に集落の記録はなく、書き残されたのは野営地だけだ。宿盗を初めとする有益あるいは危険なイ形のメモ書きは残っているのに、人あるいはコボクの集落は見当たらない。人間の集落はともかく、あのイ形の拠点がないのは意外だった。彼らがいるのは蔵先の近くだけなのか?

「まあ、でもそれを言うと蔵先側からの探索ルートは存在しないのも気になるよな。情報が偏っている」

 記憶屋が南蔵田の噂を聞いた者たちも蔵先経由ではなく、北東から樹海に侵入しなおしたらしい。あるいは彼らは何らかの理由で地図を書かなかった。

「蔵先について地図を書きたくなかった。探索者たちに蔵先へ向かって欲しくなかった……とか」

 でも、どうして? 浮かんだ疑問を形にできるほど情報はなく、譲葉の視線は地図の南側、南蔵田がある場所へと滑っていく。北東方面に比べると情報は少ないが、海岸線沿いに樹海が途切れる場所があるとの記載が目を惹く。他の場所よりも“イベント”前の街並みが残っていて、宿盗のように擬態するイ形が確認されているらしい。

「この絵は犬……か」

 擬態の特徴を示すメモのいくつかに犬の顔をしたイ形の記述を見つけて、譲葉の視線は釘付けになった。

 “イベント”以前のホームセンターが残っている。建物内にはペットショップと思われる売り場があり、その周辺では犬に擬態したイ形がいる。害はないが、鏡やガラスに執着して外に出たがらない。出現位置は海岸沿い、樹海が途切れる位置に近いとされているが、訂正が繰り返されていて明確ではない。

 樹海内でサモエド以外の犬は見つけられていない。南蔵田方面へ続く道の1つに書かれたこの目撃例がサモエドと同種のイ形である可能性はある。だが、問題はサイズだ。この目撃情報なら建物内に収まるはずで、あの個体とは象とアリ程の差がありそうだ。

「結局行ってみないとわからないか」

 あくまでも地図は参考だ。直接目にしてみないとわからないことはおおい。地図を前にしてもここで折り返すという選択肢はなかった。

 出発までは時間がある。猿田が戻るまで休んでおくべきかもしれない。譲葉は壁の地図を見ることを止め、フロア中央に立てたテントへと潜り込んだ。


 けたたましいアラーム音で目を覚ましたとき、譲葉の上半身はテントの外に這い出ていた。下半身はテント内の寝袋に入ったまま。テントのなかに転がっているアラームから逃げ出したらしい。寝ぼけた頭を必死に振るい、身体を起こしてテント内へ戻る。

 周囲に猿田の姿はないため、アラームは自力で止めるしかない。寝袋の隣に置かれた携帯を手に取るが操作方法がわからない。とりあえず振ったり叩いたりしていると、アラームは止まり聞き覚えのある声がした。

「繋がりましたね。譲葉さん。いや、えっと繋がったのだから猿田さんですか?」

「失敬だな。私だよ、譲葉だ」

「えっ。すみません。てっきり猿田さんが電話を取ったかと思いまして……“図書館”の石神です。電話が繋がったと言うことは、樹海から出たんですか?」

「いいや、まだ樹海の中だよ」

 どうやらアラーム音ではなく呼び出し音だったらしい。猿田が戻ってきたら設定を変えてもらおう。それにしても、石神九九の声は良く聞こえる。樹海植物に覆われて空は見えないが不思議と電波状況はよいらしい。

「そうなんですか。市外でも通信が確保できる地点があるのは朗報ですね。今後の樹海探索にも役立ちます」

「今後、ね。ところで連絡をくれたということは依頼について情報はまとまった?」

「こちらで調査できる範囲では。ただ、希望の調査をするためには譲葉さんたちのお話を聞く必要もあると考えていました。今のところ譲葉さんも既に承知の情報も多いかもしれませんが、調査項目の絞り込みも兼ねて少し話してもよいですか?」

 石神から話を聞くにはもってこいの状況ともいえる。譲葉は二つ返事で了承した。

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