cut.10

 サモエドが現れた岩場を横目に森を南へ下ること2時間。岩場に繋がる切り立った崖が突然途切れ、猿田たちの進行方向を新緑の巨大な壁が遮った。

 壁は岩場、そして菜園がある対岸の森をも貫いてそびえており、真下は壁に陽が遮られ薄闇が広がっている。岩場に面した壁の一部は崩落し、ぽっかりと洞穴を開いている。

「もしかしてサモエドはあそこから岩場に降りたのか?」

 穴と岩場の間は10メートル以上の落差がある。サモエドの巨体に取ってはさしたる高さではなかったのかもしれないが、一度岩場に落下してしまった後、このそびえ立つ壁を登る術はなかったのだろう。岩場を囲む他の崖もサモエドの特徴的な身体が登るには不向きな形状をしていたが故に、今も岩場を彷徨い、崖の先にある菜園に首を突っ込んでいる。

「ありそうな話すね」

「同意してくれる割には声が不機嫌だね。やっぱりあれが私たちではなくても菜園を優先していたのが気になるのかい」

 気にならないといえば嘘だ。たとえ譲葉の言うとおり、今は気にしても仕方がない情報だとわかっていても。

「観察が足りていない。それは私も否定しない。けれども観察が足りない理由を抜きに推測するのは意味がないし、あの場に留まるべきではないという意見はサルのものだろう」

「そういう話をしたいわけじゃないですよ。あの壁、元々はなんなんだろうなって考えていただけです」

 三瀬南部樹海は街の上に現れた自然だ。今までも足下には森に呑まれた家やビル、道路などが多く存在していた。それがこの森の起伏の原因であることは樹海を歩けば容易に予想がつく。猿田たちの立っている地面は、樹海の出入口である境界線付近に比べて標高が高くなっており、地層には“イベント”前の街が埋まっている。

「もしビルの残骸とかなら通り抜けられるかもしれない。壁自体がかなり大きいので穴を真っ直ぐ進めるなら……」

 南へ向かうのに最短のような気がする。だが、穴は暗く壁の反対側へと繋がっているかは定かではない。サモエドが壁の向こうから来たとは限らないのだ。

「やっぱダメですね。回り込みましょう。岩場がここで終わっているならサモエドがこちらに来ることはないし、安全なルートのほうがいいですね」

「サル、この壁の回り込めるところで今日は野宿にしよう」

「早くないですか? まだ陽は高い」

「陽は高くても君が参っているなら休むべきだ。私が遭難せずに済むのはサルが先導しているからだということを忘れないでほしいね」

 肩を叩き、譲葉は新緑の壁がわに下っている段差を飛び降りた。言われてみればサモエドとの遭遇でいささか冷静さを欠いていたかもしれない。

 探し屋としての仕事を進めることは重要だがそれ以上にまずは生き残ることが第一。もっともな指摘に猿田は深く息を吸い込んだ。樹海は三瀬でもイ界に近いエリアなのだ。落ち着いて、無理をせずに行動しなければ生存率はみるみるうちに下がっていく。

 自分に言い聞かせ、譲葉を追う。南蔵田まではまだ長い。


 ―――――

 樹海へ入って4日。菜園エリアに立ち寄りサモエドと遭遇してから3日。携帯食料も順調に減り、蔵先市街をでたころに比べると荷物が軽い。

 目的地である南蔵田までの往復で7日と予定を組んでいたが、進めども進めども、樹海は深くなるばかりで目的地に近づいているか定かではない。

 自分たちは既に遭難しているのではないか? 時折浮かぶその疑問も、周囲を確認し安全な道を探して進む猿田の姿を見るとぶつける気が失せる。仮に戻れない場所まで来てしまってそれが既に深みにはまる契機だったと言われたら、それは譲葉の落ち度なのだろう。猿田と共に樹海で朽ち果てるしかない。

「最期は独りがいいな……」

 森に呑まれて死ぬ最期は見るに耐えない姿に違いない。前を行く相棒にみられたくはなかった。

「どうかしたんですか? 姐さん」

「いや、なんでもないよ。遭難していたらどうしようってね」

「充分なんでもあるじゃないすか。昨日からずっと陽ががささないし、俺も不安ですよ」

「私はサルを信じて歩いていたのにそう言われたらどうしようもないじゃないか」

「そう言われてもですね……ただ、見てくださいよ、あっち。記憶屋が言ってた“森のクジラ”ってあれじゃないですか」

 譲葉たちの頭上を多い、日光を遮る鬱蒼とした巨木。猿田の腕が示す先では巨木をの影を穿つように幾つもの光の柱が樹海を照らしていた。

 そして、光の柱の先に見える倒壊寸前のビルの影。南部樹海では幾度となくみかけた光景で、すっかり見慣れてしまったが、猿田がクジラと呼んだそれは随分と様相が異なっていた。

「水かな」

 ビルの周囲に差し込んだ光は地面の付近でゆらゆらと反射し輝いている。苔と土に覆われた樹海の地面はたとえ陽が射してもあのように反射することはない。

「倒壊しかけの植物に覆われたビルと、それを取り囲むような水場。光の柱。話の通りだ」

「それじゃあつまり」

「あと半日もかからず南蔵田ってことですね」

 まだ半日近くはかかるという事実を前にしても肩の力が抜ける。記憶屋から聴かされていたルートから外れて菜園を観に行くと主張したのは譲葉だ。サモエドとの遭遇、菜園南の巨大な壁の迂回、気づけば記憶屋のルートとは似ても似つかない道を歩いていた。それがこうして元の道に戻れたのだ。

「安心しすぎっすよ」

「サルだって不安だったんだろう?」

「記憶屋も南蔵田には行ったことがないわけですからね」

 その言い方はつまり、猿田が不安視していたのは推奨ルートがそもそも存在しない可能性ということか。

「なんかむかつくな」

「なんでですか」

 説明をしてやる義理はない。

「それはそうと、情報の通りならクジラのところで一度休憩です。姐さん」

「なんで?」

「狩りです狩り。蔵先をでるときに話したでしょう」

 あまり思い出したくもない提案を思い出した。

「本当にやるの?」

「勿論。姐さんと俺なら問題なくやれますって」

 猿田の声は確信に満ちている。それがある程度根拠のあるものなので尚更気が乗らない。

 森のクジラ、樹海内有数の水場と称されるそこにいる食べられるイ形の確保と調理。1週間に及ぶ樹海探索計画の必須事項として猿田が掲げた課題が実現可能な段階まで来てしまっている現実に、先ほどまでとは異なるため息が出た。


 猿田が狙うのは宿盗(ヤドリ)と名付けられたイ形である。甲殻類に似た巨大な鋏で獲物を狩る肉食性のイ形であり、水場に近い場所を棲息地とする。身体に備えもった多足を駆使することで水陸構わず自在に歩き回るというが、その速度については気づかぬうちに回り込まれるほど俊敏だとも、300メートル先から歩いてでも宿盗の全速力に追いつくことかできるとも言われている。

 その生態に関する言説が諸説分かれるのは偏に宿盗が周辺の構築物を利用してその身体の大半を覆い隠してしまうからだ。

「要するにでかいヤドカリって認識でいいんだよね」

「ヤドカリというには擬態の幅が広すぎるっすね」

 そんなもの知るか。鋏が2つにカニみたいな身体で、その辺のものに身体の大半を隠す。その特徴だけ聴けば大抵の人間が思い浮かべるのはヤドカリだ。

「気が重い。それで、ここの宿盗は何に擬態しているんだ」

「あれですね。記憶屋の情報では、あれ以外に実例がない」

 猿田が差すのはクジラと呼ばれる傾いたビルの真下、水辺の縁に整列している軽自動車だ。ナンバープレートは剥がれていて、フレームが歪んだり樹海の植物が生えている車体もある。だが、それらはどういうわけか水場にそって1列に駐車し、譲葉たちにトランクを見せつけている。

「それじゃああれは水分補給?」

「または水中の何かを狙っている」

「それじゃあさ、サル。私たちも釣りに方針変更しないか」

「却下っすね。水中にいるイ形のことは情報がない。それに比べて宿盗は生態が明確だし、何よりも調理法がわかっている。しかも都合の良いことに俺が聞き及んだのは自動車を利用している個体の解体法です。イ形を食べるときのリスクの大半がこれで解消されている。渡りに船というのはこういうことを言うんですよ」

 ヤドカリは嫌いだと騒いでみても食べるのは食べるだろうと反論される始末である。こうなってくると断る理由がなかった。

 変なところで合理的な男である。


―――――――

 イ界が生み出す環境やそこからやってくるかつては怪物、妖怪、都市伝説などと呼ばれた存在――イ形は、古く伝わる呼称の通り、我々の認知を越えた何かであり、我々の命を脅かす個体も多い。

 しかし、例えば泊樹と呼ばれる樹木型のイ形は軽く耐熱性にすぐれた品種で、かつイ界の浸食を招かない。成長も早いことから域外との出入りに制限がある現在では、木造建築の建築資材として有効活用されている。例えば、紫雛と呼ばれる人形を模した形状の石は、エネルギーを溜め、伝播させる性質を持つ。三瀬ではこの性質を利用し電力、通信などの設備を維持している。

 このようにイ形には我々に有用な種も多く存在する。そして、その利用方法のひとつに食材への転用がある。イ形と呼ばれる一群は現実には存在しなかったものであるため、三瀬へ流入してきた者たちにとっては驚きの風習として捉えられがちだが、食材のほとんどが既知なのは長い文明のうちの一瞬に過ぎない。我々は、イ界の有無にかかわらず常に未知の食材と共に生を全うしている。

 さて、このデータベースはそんな私たちの挑戦、三瀬で発見された新種のイ形の調理法を紹介していくものだ。データベースの閲覧者であるあなたにも私たちが見つけた新しい食材を調理して、味わって欲しい。

 三瀬の食文化を豊かなものへと変えていく。その一歩となるため私たちは未知へと挑戦していくのだ。

(出典:今日からはじめるイ形料理データベース初版前書)

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