cut.9
菜園と樹海を分ける岩場は白く輝き帯のように広がっている。落下の衝撃に備えながら目にしたその光景に、これは川だと思った。無論、落ちる前からわかっていたが、岩場に水はない。菜園と樹海。二つの森の間に広がる深さ5メートルほどの溝。その底を白い岩が埋め尽くしている。それだけだ。
岩場は見た目のとおり硬く、イ詞の力で守ってみても足の裏から全身に伝わる衝撃と痛みは大きかった。怪我がなかったのは幸いで、おかげで菜園からの追手を撒くためすぐさま譲葉の後を追うことができる。菜園側の崖下を、当面の目的地である南蔵田の方へ――樹海の南へ向かって下る。だが100メートルも進まないうちに、今度は譲葉が立ち止まった。
崖下にせり出した巨大な岩を避けるつもりなのかと思ったが、彼女は後ろを振り返り、猿田ではなく崖の上をみて目を細めた。
「サル、どうしてあいつらは追ってこないんだと思う」
「どうしてって。そもそも追ってきてないんですか?」
「下りてこないじゃないか」
そんな単純な。岩場自体が谷底であることを除けば、見通しもよいし足元はしっかりしている。自分が追跡する側に立ったとしたら、岩場にすぐに降りてくるのは愚策のように思える。
「下りるタイミング選んでるのかもしれないじゃないですか。こうやって、俺たちが判断に迷って立ち止まった瞬間に上から奇襲をかけるとか……」
口にすると本当になりそうで不安だ。だが上をみても、崖側に枝を伸ばした樹木が風で揺れるばかりで、イ形の気配はない。
「自警団の話によれば、あいつらは菜園内に他人が入ることを酷く嫌がる。それなら、怒りに任せて下りてきたっておかしくはない」
「だから、それは時間の問題でしょう」
単純にこちらの行動が相手の判断よりも早かっただけかもしれない。その場合、ここでこうやって立ち止まっているとアドバンテージを失う。
「とにかく、ここから離れましょうよ姐さん。あれは相手にするには骨が折れますし、依頼主である自警団側に知られたときに余計な面倒が起きます。だいたい、サモエドの調査なのに彼らの菜園を調査していた理由は説明できません」
「チケットがあるかもしれないのに?」
「市外の、しかもイ形の施設用にチケットがあるわけないでしょう」
とにかく、菜園を管理するイ形との接触は予定外だ。面倒は小さなうちに片づけたほうがよい。だいたい五メートルの崖を飛び降りることに躊躇があるとしても、例えば譲葉の背後の岩を伝って
「姐さん」
強引にでも走り出してしまえば譲葉もついてくるだろうか。そう考えていたことさえ忘れて、猿田はそれをみた。
白い岩場に落ちた灰色の巨石。
その背後には削り取られた土を晒した崖がみえていたはずだ。視界にはいった白くふわふわとした何か。それは、岩の真上を一瞬だけ横切って消える。
続いて岩の横から現れた巨大な鼻と口。そして、白い毛。高さ3メートルちかくある岩と同じ大きさの犬の顔が岩の後ろから現れた。
サモエド。それは飼い犬のなかでは群を抜いてかわいいとされる犬種であるが、二階建ての家ほど大きい顔が現れたときにそれをかわいいと言えるかは疑問だ。少なくても猿田は身体が固まり、喉がひりついた。もう二度とサモエドをかわいい犬だと見られない。そんな確信があった。
猿田の視線が自分に向いていないことに気づき、譲葉が遅れてサモエドに気づき動きを止める。彼女の目にはこの光景がどう映っているのだろうか
サモエドは一息で吹き飛ばせそうな二人の人間を視線をやるも、そのまますっくと首を上に持ち上げた。
あまりの光景に言葉が出ない。サモエドの巨大な顔が崖の上へ向かう。身体は未だ現れず、白い毛に囲まれた太い首だけが空に向かって伸びていく。
――体長5メートルって嘘じゃねぇか
未だに巨岩の影から身体は現れないのにサモエドの顔は既に菜園の縁から岩場側にせり出した樹木の枝に掛かっている。首だけでも5メートル以上の長さがある。
耳にかかった枝を振り払うようにサモエドが首を回すと、譲葉の背後の巨岩が軋む。慌てて猿田に駆け寄ってきた譲葉は岩の上を指差した。首を包む白い毛に隠れて岩にかかった数本の爪。ヒビはその爪の下から走っている。
熊のような体躯に六つの足。自警団から聴いたサモエドの情報どおりなら、あの先には宙でうねる長い首を支えられるだけの身体がある。
「ここは通り道なんだ。だからイ形は近づかない」
サモエドは樹海の一画を回遊している。蔵先市街で聴いた情報に嘘はなかった。菜園に侵入するまで遭遇しなかったのはサモエドの現在の回遊ルートは崖下のこの岩場だったから。
筋は通るがどこか納得がいかない。だが、猿田の納得を待ってくれるほどサモエドは人に優しくない。爪を起点に広がるったヒビはついに巨岩を割り、その先にあったサモエドの身体が視界に入る。
「まずいぞサル。想像以上に」
大きい。イ界と混ざってしまった三瀬では、現実離れした大きさの生物の目撃例もある。だが、怪獣が過去の言葉とされているのは蔵先市街に限らない。キリンや象辺りと比べてもサモエドのほうが遙かに大きいだろう。猿田は三瀬を訪れる前に博物館でみた首長竜の骨格模型を思い出した。
「反対側まで走りましょう。サモエドはいま菜園側に興味がある」
サモエドの首は枝をかき分け菜園の中へと侵入している。崖の上へと首を伸ばさなくてはならないため、身体に力が入り、足下の岩を破壊したのだろう。今なら樹海側の岸に意識が向かう確率は低い。四の五の考える余裕はなかった。迷う譲葉の手を取り、猿田は岩場の反対側に向かって全力疾走した。
排除するにしても、あのサイズのイ形に迂闊に手は出せないだろう。自警団がサモエドの鑑定法を探していたのにはそれなりに意味があるのかもしれない。
だが、こんな巨大なイ形を保護するなんて選択肢があるのか? 反対側にたどり着き、崖を登る間、頭に浮かんだ疑問への回答を今の猿田は持ち合わせていなかった。
―――――
猿田たちが必死に崖をよじ登ったのはおおよそ15分から20分程度だろうか。
登り切り、近くの丈の長い草むらに隠れて崖の様子を窺うと、まだ反対側の縁を白くて長い巨大なものが動き回っていた。サモエドの顔は菜園の奥へ潜ったり、崖側に出たりを繰り返しており、端から見ると何かを探しているようにも見える。
「あれでしばらく追跡はないな。あんなのに狙われちゃ菜園側も私たちどころじゃない」
菜園の反対側、サモエドとそう離れた距離にいるわけではないのに、しゃがんだ譲葉から緊張の色が抜けた。
「そうかもしれないすけど」
岩場はそれ相応に幅がある。5メートルを越える首を支える巨体でも、菜園側から樹海側に移動するには数歩かかる。草むらから眺めるかぎりサモエドは首は器用に動かすが身体は鈍重のように見える。こちらに気づいたからと言ってすぐさまサモエドがやってくることはなさそうだ。
けれども、相手は未知の存在である。やはり、安全をとるなら早々にここを離れたほうがいいし、緊張は解くべきではない気がする。
「話に聴いていたのより大きいよね。でも、イメージとは違ったな」
ところが譲葉ときたら姿勢を崩し膝立ちでリュックから望遠鏡まで取り出す始末だ。
「自警団の話を聞いたとき、なんとなくキリンをイメージしていたんだ。だが、実際のあれは首がやたらに長くて足が短い。短いというのも変か。足の生え方が哺乳類とは違うから高さに繋がらない」
菜園を覗きこんでいる5メートルを越える首をと顔、それを支えている小山のような身体には昆虫のように側部から6本の脚が生えている。身体だけなら3メートル弱しか高さがない。それ故に、首は菜園をのぞき込めても身体が崖を登り切れない。
「顔が犬で全身が白い毛に覆われているので似ていないですけど首長竜みたいじゃないですか? スケールが違うというか」
あれではまるで蔵先で聴いた“怪獣”だ。
「なるほどねぇ。そういえばサルは芝・大門地区には行ったことがないんだっけ?」
「藪から棒になんですか」
「あれだけ大きいといるだけで環境が激変しかねない。だから怪獣と呼びたくなるのもわかるなあと思ったんだよ。けれどね、サル。仮にあれを怪獣と呼ぶなら小型だ」
「小型? あれで?」
「ああ。本物の怪獣はね、あんなレベルじゃない。私も生きている怪獣を見たことはないんだけど、怪獣というのは理屈や能力じゃ覆らない圧倒的な質量差があるんだ。
とはいえ、あの巨体でも簡単に押し切れそうにはない。自警団のあの装備じゃまるきり無駄死にだろうね」
だが、現状はそうなっていない。自警団が安全をみて接触している賜物なのだろうか。
「もっと単純だと思うね。私たちが菜園に入った北側には崖も岩場もなかったから断定はできないけれど、サモエドはこの崖下に落ちたんだんじゃないか? 餌場だからここにいるのではなくて、崖の上に戻れなくなったから留まっている」
なるほど。
「でも、本当にそれだけですかね」
なら、何故サモエドはしつこく菜園を覗きこんでいるのだろうか。あの崖が上れないのは奴自身が崖に手をかけて滑り落ちている様子から明らかだ。そうまでして、菜園を覗かなくてはいけない理由が猿田にはわからない。
「いずれにせよ今の私たちには情報が足りない。ただ、自警団がサモエドの扱いに慎重になりたい理由も、慎重になれる理由も予想がついたわけだ。あれが本当に南蔵田から来たなら、現地に行けばわかることが増えるはずだ。まあ、あとは……南蔵田にあのサイズのサモエドがいないことを願おう」
全く同感だ。
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