cut.8

 譲葉が降り立ったのは畑のすぐ傍だ。彼女は柱に立てかけられた鏡を気にしているが、樹上にいる猿田は彼女の背後に群生する背の高い植物が気がかりだった。真四角に区画整理された中に生える猿田や譲葉の背丈を越える青い草。“菜園”と呼ばれている以上、育てられた植物に違いないが、猿田の知識ではそれが何かは特定できなかった。

 品種の特定はできないものの、問題はその密集具合だ。叢のように隙間なく伸びた長い草の合間に何かが息を潜めていたとしても外観上は判別がつかない。譲葉は見える範囲にイ形がいないと判断していたが、あの叢が安全と断言できる根拠はない。

 何が出てきてもすぐに対応できるように、息を潜めて周辺を注視する。対して、猿田の心配を知ってか知らずか、譲葉は背後を気にすることもなく立てかけられた割れた鏡をじっと覗き込んでいた。

 鏡。そういえば、蔵先市街は鏡が少ない街だった。エントランス、宿泊したホテル、生産所の通路。鏡らしい鏡をみかけたのはそれくらいで、建物にはガラス窓がなく、ブラインドをあげると外気が吹き込んでくる作りだった。市外である菜園にも鏡があるのに市街だけ生産が追いついていないのも違和感があるが、それも隔離政策の下、周辺地域での資材回収を行わない結果なのだろうか。

「それだと自警団の話は不自然だな」

 難しいことを考えていても仕方がない。

「何か言ったか? サル」

「いいえ。何でもないっす。それより、どうなんですかその……鏡?」

「どうというものでもないんだが、気にはなるね」

「なんですかそれ」

 譲葉は上を向きながら首を傾げ、そのまましゃがみ込み、再び鏡を見る。

「この一枚じゃよくわからない。“図書館”であった委員が話していた通り、ひび割れのせいで像が歪んでいる。確かにモノリスによく似てはいるが…触感や見た目からするに鏡の柱とみるのがいいんだろうね」

「姐さん、モノリス触ったことあるんですか?」

「ないね」

 それじゃあ、触感はあまり参考にならないのでは? 指摘をするか迷っていると、鏡を覗き込む彼女の背後で叢がかさりと音をたてた。先ほどまで青々としていた草の一部が突然枯れ草のように色を変え、左右に倒れる。

 声をあげる前に身体が動いた。枝を蹴り、譲葉の背後へと飛び降りる。菜園の地面が着地の衝撃を呑みこみ予想よりも深く沈み込む。腰を落としてバランスを取り、枯れ草色の影と向き合った。それは、既に畑から半身を乗り出し、譲葉へと近づいていた。

 コボクと呼ばれるイ形は人に近い形状をしているという。見た目が似ていても中身が似ているとは限らないが、観察している余裕はなかった。勢いのまま足元へ飛び出し、顎らしき位置へめがけ蹴りを放つ。登山靴の底が柔らかい何かを削る。

「サル?」

 一拍遅れて譲葉の声が届く。返答よりも前に立ち上がり、よろめいているコボクの顔面を殴る。枯れ草色のローブに覆われた顔が凹みバランスを崩す。

「撤収だ。走って」

 ようやく状況を察したのか、譲葉が背後に駆けていく。すぐさま後を追いかけたいが、視界の端で更に2か所。叢が揺れるのが見えた。

「参ったな……」

 初めから隠れていたのか。それとも集まってきたのか。自警団曰く言葉が通じる相手だが、窃盗団は彼らを恐れて逃げ回ったという。許可なく侵入している猿田たちはどちらかといえば後者寄りの立場であるし、現状、自警団が猿田たちを擁護してくれるかは怪しいものだ。

 何より、反射的に仲間の1体を伸してしまった猿田を他のイ形が受け入れるという展開は楽観的に過ぎる。

「サル! 飛び降りる!」

 飛び降りる? 想定外の声が聴こえ、土を滑り降りる音が響いた。伸したはずのコボクは体勢を立て直しつつあり、叢から這い出た残りも直立したままジワジワと猿田に近づいていた。このまま接近を許すのは避けたい。前を向いたまま、一歩、二歩と下がり、三歩目で後ろを向くとまっすぐ菜園の境界線に向かって走る。前をいくはずの譲葉の姿が見えないのは“飛び降りた”からだ。

 相棒の声を信じ、境界線を踏み切って飛ぶ。真下は崖になっていて、数メートル下には岩場が広がっていた。岩場の端、猿田の落下地点より少し崖側に見知った白い登山服が見える。

「飛びすぎだ。馬鹿」

 そんな声が聞こえたが、今さらどうしようもない。猿田は持てるイ詞をフル稼働し身体を守った。


―――――――

 情けない声をあげながら落ちてきた猿田は、ほんの数分前に見せたのと同じように四股を踏むかのように地面に着地し身体全体を震わせた。イ詞による身体強化で体内を衝撃から守ったのは理解できるが、古いアニメのような動きは阿呆らしい。

「お……おれる」

 3階建ての建物から落下しても打撲で済むような男がほんの3、4メートル下に飛び降りて怪我をするとは思えない。問題はイ形だ。場合によってはここから離れる決断が必要になる。

「何体いた」

「3。1発当てたから“視えない”のがいる」

 猿田のイ詞は、彼の手が触れた相手の視覚、聴覚、言語のいずれかを一時的に封じる。彼の言によれば1体は視覚を封じられ闇に囚われているはずだ。もっとも、イ形が視覚を使っているとは限らないが。

「ここを離れよう、サル」

「賛成です。当てた感じだとあれは得体が知れない」

 身体の震えが止まったらしい。猿田はゆっくりと腰を上げ、譲葉のいる崖沿いに近づいてきた。崖の上は菜園の境界線。見上げたらイ形が覗き込んでいる可能性も捨てきれない。

「得体が知れないって、何が?」

「人みたいな見た目だけど違うというか」

「それはイ形ならよくあることでしょう」

「まあ、そうっすけど」

 歯切れが悪い。顎に手を当てて猿田が押し黙る。彼の感じた違和感の正体は気になるが、逃げると決めたなら行動は急ぎたい。譲葉たちが菜園に侵入した方向は、岩場が広がり足場が悪いし上から姿が丸見えなのが気に入らなかった。崖沿いに反対方向へ進み、岩場を下り、菜園の南側へと回り込むルートのほうが身を隠しやすい。

 猿田の肩を叩き、進行方向を指さしてやると、彼も頷く。

 善は急げ。南側に向かって眼前の岩に飛び移る。岩の表面に散らばっていた細かい小石を踏みつけてしまい、じゃりじゃりという音が響いた。相手の特性がわからないので不安がよぎる。後ろの猿田を確認するついでに崖の上にも視界を走らせた。

「いない」

「え? 何が」

 追手がいない。崖の上にも岩場にも、菜園で現れたイ形は影も形もない。譲葉たちは境界線の真下に落ちているのだ。譲葉と猿田の身のこなしが優れていて追っ手を振り切ったと考えるにはあまりに安易だ。

 猿田が視界を奪ったのは1体。最低でも残り2体は菜園内の不法侵入者を見つけている。逃げた方向から境界線の外に出たのは明白だろう。

 自警団の証言が正しいなら、彼らは侵入者を厭うはずであるし、菜園の外まで追いかけてくるはずだ。そうでなければ、侵入者たちを自警団に差し出すことはできない。

 以前の侵入者は追いかけたのに、譲葉たちは追いかけない。その差異は何か。よぎった疑問に背筋が泡立った。

 この岩場にはイ形が避けたい何かがいる。

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