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 三瀬南部樹海は、国内の森のなかでも群を抜いて若く、そして深い森だという。

 三瀬が立入禁止区域に指定される以前、樹海のあった地域には多くの街があり、平地があったという。森と呼称してしかるべき地域は一定に限られており、電車や車などが往来する道は縦横無尽に広げられ、多くの人間が暮らしていた。それが“イベント”直後、何らかの理由で深い森へと変容した。

 三瀬には南部樹海の他にもいくつか小規模の樹海があるが、三瀬南部樹海は特に広大で深く、全容が把握し切れていない。

 三瀬に生まれた樹海はいずれもその発生経緯から樹海内に人工物を多く抱え込んでいる。地中から顔をだした木々が路上のアスファルトを壊していたり、ビルや民家が森に呑まれていることもざらにある。

 森に呑まれた建物のせいで高低差が生まれ、一度ルートを外れると方向感覚を見失う危険なエリアも多々存在する。更に厄介なことに森に呑まれた建物に動物以外の脅威が潜んでいることすらある。イ形である。

 そのため、樹海に入るにあたってはそれ相応の装備と準備が必要だというが通説であり、南部樹海の探索が進まないのもこの理由からである。そもそも探索にはある程度の時間とコストが必要なのにもかかわらず、最前線に位置する蔵先市街は樹海探索に非協力的だ。労力と樹海探索で得られる情報が見合わない。

 この認識は個人の興味の範疇で三瀬内の樹海の探索をしている者達にも広まっているという。趣味人たちの多くは、イ層と呼ばれる樹海よりも危険な区域の探索も並行しておりその知識を利用してガイドとして生計を立てるものまでいる。それでも、彼らはイ層より遙かに危険度が低いはずの南部樹海の探索を敬遠するという。

 もっとも、彼らが積極的に探索を行わないだけで、動向を頼めばこれほど心強い存在もいない。恥ずかしながら、前を歩く猿田真申も頼れる趣味人の一人だと、譲葉はつい先日まで知らなかった。

 名波から依頼を受け、蔵先市街に戻った理由の一つには、この男の「装備を整えないで樹海探索はできない」という提言があった。市街では幸いなことに自警団が装備している迷彩服と同様の装備が調達可能であり、準備を終えた二人は白を基調にした迷彩柄の登山服に身を包んでいる。

「これ自警団と同じ色とかそうじゃなきゃ樹海の色に合わせて緑のものにしなくてよかったのか?」

 整備された道を外れ、高低差のある深い森に踏み込んでいくと、前を行く猿田の服装はよく目立った。同様に譲葉も風景から浮いて見えるに違いない。迷彩柄は周囲に溶け込むのが目的ではなかったのか。

「それがいいんですよ。慣れないまま道がないエリアを歩く予定なんだ。お互いの位置がすぐに確認できる方が都合がいい」

「自警団やイ形も私たちのことをすぐに見つけられるんじゃないか?」

 何しろ、譲葉たちは自警団が別れ際に許可なく近づくなと言っていたサモエドの潜伏区域――イ形が営んでいる菜園の近辺に向かっているのだ。見咎められれば余計な衝突が起きかねない。

「なんで弱気なんですか。姐さんも俺も自警団に絡まれたって負けやしませんよ」

「君ねぇ……」

 あくまで接近戦に持ち込めばという前提だし、そもそも自警団と戦うつもりはない。

「彼らはそれなりに武装しているんだぞ」

「見つからなきゃいいわけでしょう。そんなリスクより遭難しかかった姐さんが見つからない方が問題ですから」

 ビルや家屋を上り下りするような道を歩くのは初めてで、数キロを進むだけなのに何度も猿田に足を止めてもらっている。イ詞による身体強化が使えるからといって、登坂能力があがるわけではない。

 猿田の背を追いかける度、経験から安全かつ負担の少ないルートを見極める猿田と、樹海初心者の譲葉との間には大きく技術的な差があるように思えた。譲葉自身、この状況下で猿田を見失って迷子になるのは避けたい。

「わかったよ。それで、目的地まではあとどれくらいなんだ。実は今どこにいるのかも把握できているか自信がない」

 猿田は崩れかけの平屋を踏みつぶした巨木の幹によじ登り、周辺を見渡す。平屋と同じ高さにいる譲葉からは辺りは崖ばかりで数百メートル先もよく見えないのだ。

「すぐそこですね。自警団の奴らが言っていた菜園のオブジェがよく見えます」

 話によれば、イ形が営んでいる菜園にはモノリスを模した鏡面状の柱が何本も建っているという。いずれも直方体の表面には何本かヒビが入っているため、前面に立つ者の像は歪んで見えるらしいが、遠方からでも侵入者を把握できる仕掛けとして機能しているというのが自警団の説明だった。

 菜園に侵入したという者たちが暫く見逃されていたことと矛盾するように思えるが、当のイ形たちと接触したわけではない。真実の用途は不明と整理するしかなかったが、似た景色が続く樹海で目印には使えそうだった。

「オブジェに映らないように敷地内を覗くことはできそうか?」

「近づいてみないと何とも。まあ、見える範囲だと全部地面に刺さっているので、上を伝っていけば侵入できるんじゃないですかね」

「猿かよ。ああ、サルだったか」

「置いていきますよ」

 それは勘弁してほしい。謝罪の言葉をかけて譲葉は猿田の上った幹へと向かった。猿田は、譲葉の技術では困難なルートには所々蛍光塗料を塗りつけてくれている。譲葉はそれを辿って道を歩き、通りがかりに塗料を塗布した部分を剥がしていく。そうすることで、足取りを消して回っている。

 想像よりも手間も時間もかかる。名波が出した一週間という報告期限までに何らかの成果があがるか早くも疑問が生じてきた。


―――――

 自警団の団員曰く、菜園を運営するイ形は麻色の布で全身を覆った人型で、遠目で見ると枯れ木のように見えるらしい。人の言葉も解するらしいが、人の言葉で名乗ることはなく、自警団員たちは枯れ木の名の通り“コボク”と呼んでいるという。

 コボクたちは全部で20数体でコミュニティを作っており、菜園の敷地内で育てた野菜を主食に自給自足しているという。

 樹海内は現実の動物の他、多様なイ形が生息していると見られているが、コボクらは他のイ形と衝突することもなく、人間や動物を襲うこともない自称菜食主義者らしい。蔵先市街の周辺しかしらない自警団員たちが油断するのもわからなくはないが、その言動を真に受けるべきかどうかは問題だ。

 遭遇すれば戦闘になりうるし、コボクと人間で利害が一致しているとは限らない。

 “イベント”の影響で急成長した巨木の枝を辿り樹木を伝い菜園に入る。上から見下ろすと、周辺と違い地面が均され、開拓の邪魔となった樹木が伐採されているのが良く分かる。菜園は大きくL字型に樹海を切り開いて作られており、辺に沿って等間隔にレンガ造りの柱が並ぶ。柱に立てかけるように1枚から2枚、モノリスを模した直方体が目に入る。L字の中央には伐採した木で作ったであろうログハウスや倉庫が何棟か集まっているが、それ以外の場所は、柱と直方体以外の人工物が見当たらない。木柵すらないのに、一定間隔で同種の作物が栽培できているらしい。確かに畑が並んでいるように見える。

 幸いにも菜園を管理するイ形、コボクの姿はみえず静まりかえっている。

「元々樹海内で育っていたなら始終世話をしている必要もないのかな」

「野菜の栽培は思っているより手間かかりますよ。大量生産するとなると自然に育ったモノとは全然違う」

「それは経験談?」

「まあ、小さな家庭菜園ですけど。昔、触っていたことは」

 相棒の意外な一面を見ることが多い依頼だ。長年付き合ってきたはずなのに譲葉の知らない猿田の顔は多い。

「家庭的だね。ところでこの辺に生えてるあの背の高い草はなんなの」

「わかりませんよ。イ界産なのかどうかも識別がつかない」

「家庭菜園は嘘なのか」

「何言ってるんですか。育てたことがない作物は誰だってよくわかんないっすよ」

「それもそうか。まあ何であれ、イ形がいないのは都合がいい」

 菜園を囲む樹木はいずれもレンガの柱よりも高い位置に枝を広げている。8メートル弱の高さを掴まる場所なしに上るのは厳しいがロープを垂らしておけば往来は余裕だろう。問題は見つからないかどうかだ。

「見つかったときは諦めて平地を逃げてくださいよ。相手がよくわからないのに足場の悪い場所でやりあいたくはない」

「了解だ」

 レンガの柱の傍まで太い枝が伸びている木を探してロープを垂らす。ちょうどL字の端で、ログハウス群からは遠い。発見されるリスクは低いだろう。周囲に動く影がないことを確認して一気に滑り降りる。

 意外に大きい。真上からの見た目と違い、柱に立てかけられた直方体は譲葉の背丈を優に超える。二メートル近い大きさの鏡面状の板。市街で見かけるならともかく、森で目にするには場違いだ。

 事前の情報の通り、中央部が割れて放射状にヒビが入っている。そのせいで、面に写る自分の姿が何重にも分かれて歪む。もっとも、ヒビによる歪みを差し引いてもなお光沢があり、表面がまるで液状の何かであるような錯覚を受ける。

 蔵先市街でみかけたのはホテルの部屋に置かれた曇った古い鏡だったからだろうか。

 いや、鏡だけならほかにもみかけた。エントランスホールの改札機にたてかけられたもの、生産所に置かれていたもの、いずれも目の前の鏡より曇っていただろうか。

 あるいはこれは鏡ではない何かなのか?

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