cut.5

 ガイドブックによれば最下層は5層までと異なり地面よりも深い場所にある。そもそもは市街に樹海を寄せ付けないため土壌改良、もとい樹の根を掘り返す事業の行き着いた先なのだという。

 最下層を作ったが故に、蔵先はイ界の浸食を免れている。その最下層にも陽を当てると言う目的と、域外の都市と似せた光景を用意するという目的が重なって、空や遠方の景色に似せた外壁の施行がなされたという。

 見渡すかぎりの壁、棚田のような土地。そして、それを覆い隠すように施行された壁が作り出す“遠方”の風景。

 海岸や草原が広がるように見える路地裏も、端まで歩けば市街を囲む壁、上層を構成する地面にたどり着く。住民の目を逸らすため、通路の途中で柵や曲がり角、階段が設けられて壁際に人が留まらないように作られた街並みは、まるでトリックアートの展示会のようである。

 道を歩く人も少ない最下層でもその試みを徹底していることは賞賛に値するが、譲葉は、最下層から見上げる蔵先市街と同じ風景の街を知らない。

 あのガイドブックは誰のために用意されたものなのだろうか。


 ホテルのフロントの案内の通り、路地を抜けると、壁際の十字路に生産所見学者入口と書かれた案内表示が立てかけられている。案内表示は申し訳程度の大きさで、見学希望者が奇特であることを窺わせる。

 標識にそって、低い屋根の家屋の間を縫っていくと、道が開け3層からも見えていた巨大な白い石の塊が現れる。

「近くで見るとやっぱり気持ち悪いな」

「そうか? 思ったより穴が大きいとは思うが」

 遠目で見たときは蔵先市街の一角を覆うように垂れたような形状も、白い壁面を穿つ穴も、どこか生物的で気味が悪かった。

 だが、近くで見れば穴は巨大であるし、垂れているように見えた部分は幾重にも枝分かれした塔であることがよくわかる。奇抜なデザインであるが、食糧の生産をするにあたり必要な立地の確保と一般的な建築物の構造はかみ合わなかったのだろう。

「用途に合わせて器を崩す」

「三瀬らしい発想なの意外ですね」

「散々それらしいものを見て出てくる感想か?」

「ここが市街の主要施設なわけでしょう。これだけ信念を語るならって思いません?」

 猿田は譲葉から奪い取った蔵先市街ハンドブックを手で叩く。

「信念と現実は時としてかみ合わないんだよ」

 それに、蔵先の住人達の認識においてこれが三瀬らしい建築物であるかは別問題だ。

 建物に近づくと、壁の近くに置かれた四角い守衛室から白衣の男が顔を出す。どうやら、この街では自動改札機と守衛室が大量に余っているらしい。

 見学の申込をしたものだと伝えると、男は端末を要求した。指示の通り端末を渡すと、男は端末を操作しチケットを確認する。

「ようこそ、蔵先市街生産所へ。見学にあたって手続が必要になりますが、ひとまずは施設内へお入りください」

 守衛室の隣の壁が音を立て横にスライドする。どうやら隠し扉を通っての入場らしい。

 生産所内部は壁も足下も真っ白で境目がない。まるで、映画の枠の外、銀幕の外に連れだされたような光景だ。意識しないと、自分がどこにいるのか、立っているのか転んでいるのかもわからなくなってしまいそうだ。

「生産所内部は様々な検体を保管しているので、混入がないよう通路はクリーンルームにしてあります。慣れないうちは怪我をされるかたも多いので、ひとまずはその場でお待ちください。見学の手続をしてまいります」

 白衣の男が譲葉たちの傍を離れると、ますます現実感が失われていく。

「クリーンルームって、こういうものだったか?」

「さぁ。これはどちらかというと舞台裏。演劇の奴じゃなくて、映画のスクリーンの裏側みたいな演出であるじゃないですか。背景が全部真っ白な奴」

 あるのか? 譲葉は猿田ほど映画を観ないのでよくわからない。だが、その感覚はしっくりきた。ここは蔵先市街の外側なのだ。

 探索しようにも手がかりがない。仕方なく男の支持にそって待つ。やがて戻ってきた男は右手首につけた巨大な手錠のようなバングルを掲げて手を振った。

「お待たせしました。見学ルートの設定が終わりましたので、これから生産所内を案内いたします。私、案内人のイトウと申します。何卒よろしくお願いいたします」

「こちらこそ。ところで、申込をしておいて何なんだが、重要施設に部外者を通して大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ。お二人の招待チケットは信頼できる住民から発行されたものですから」

 イトウの説明に猿田が首を傾げる。イトウは目敏く彼の動きを追い、そしてわざとらしく両手を広げて驚いてみせた。

「もしかして、お二人は三瀬の外からいらっしゃいましたか?」

「いいや。蔵先ではないが私たちも三瀬内で生活をしているよ」

「なるほど、ではチケットの発行者がわかることに驚かれたのですね」

 身振り手振りは大袈裟だが、観察眼は確かだ。

「この街ではチケットと住民IDが紐付いているんです。ああ、IDというのはですね。戸籍の代わりに蔵先市街が発行している住民の登録番号のことです」

「登録番号なんて管理できるのか?」

「できますとも。何しろこの街はイ界から隔離された区域ですから。イ形を数えなくてよいなら、住民の出入りは管理できるんですよ」

「それは蔵先の人たちが皆さんつけている、そのバングルによる管理ですか?」

「ええ。お気づきだったのですね。蔵先の住人はみなこのバングルを手首に装着しています」

 男は右手首につけた大きなリングを顔の横へと運んでみせる。どちらかといえば手錠と呼ぶのが相応しい手首を覆う巨大な金属制の輪。市街で見かけた住人たちは一人残らずこのバングルをつけており、譲葉たちはこれをつけていない故に旅行者として歓待を受けた。

 バングルの縁には様々な蛍光色の塗装が施されているがその意味はわからない。白衣の男のバングルは、深い青色で縁取られていた。

「ああ。この色が気になりますか? 人によって違いますからね」

「性別とか職業なんかを見分けるものなのか?」

「いいえ。その程度のことはバングルなしでも見分けられますからね。これは各自のファッションに過ぎませんよ。何せ手首に重たい輪をつけて歩き回らなくてはならないのです。多少の装飾くらい許されなければ気が滅入ってしまうでしょう」

 もっともな理由だ。確かにバングルへの装飾を謳う露天商を見かけた気がする。

「色や装飾は自由ですが、このバングルには蔵先の住民となって以降の個々人の行動履歴や獲得した権利などが記録されています。この街では他の市街と違ってチケットも個人と紐付いているんです」

「それでもチケット制を崩さないのは他の市街と足並みを揃えるため?」

「ええ。管理委員会とモノリスの約定ではチケット制を崩しての権利譲渡はできませんから。街を維持するためには動かすことが出来ない部分もあるんですよ」

 さて。チケットの指定通り研究フロアをご案内しましょう。そういってイトウは何もない真っ白な道を躊躇いなく歩く。

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