cut.3
リングのうえで威勢をあげて拳を振るう男は蔵先市街のスパークリングチャンピオンだという。鋭いパンチに広い視野、相手の拳を受け流し間合いを保つためのフットワーク。
譲葉は格闘技には疎いのでただの感想に留まるが、確かにチャンピオンにふさわしい技能だと思う。並の人間は彼のラッシュを捌けないし、有効打を与えられないだろう。譲葉自身も彼の猛攻に何秒立っていられるか疑問だ。
ただ、それはあくまで人間のためのルールの下で行われる人間同士の試合に限る。残念なことに、いかに取り繕ったとて蔵先市街は三瀬の一部であり、三瀬はイ界の影響を受けている。市外に出れば人間の技術など意にも介さないようなイ形がいるし、人間のなかにもイ界に寄った技術を持つ者がいる。
王者の一撃は挑戦者のガードを捕らえグローブの下の腕に大きな衝撃を与えたはずだった。彼をチャンプと慕うジムの会員たちはそのストレートにノックアウトされたこともあるだろう。
「軽いな」
しかし、今日の挑戦者にはそれでは足りない。三瀬の住人として生き、イ界を受け入れている彼は、チャンプと違って自分をイ界に寄せられる。
挑戦者、猿田真申は自らの身体にイ詞を巡らせ、一瞬前よりも少しだけ硬く重たい腕をあげ、チャンプのストレートを受け止めた。相棒のふるまいはいささかフェアプレーの精神には欠ける気もするが、チャンプと猿田の周りに倒れた四人のジム会員たちがジム側にもフェアプレーの精神はないことを後押ししてくれる。
徹底的にイ界を排した市街の生活では、イ詞による身体機能向上は不可思議な現象だったのだろう。チャンプは目を見開き硬直し、そして猿田のカウンターを顎に受けて倒れ込んだ。拳を返す直前にイ詞を解き威力を押さえたのは、猿田の温情だ。
人を殺めるような事態に発展しなくてよかった。譲葉は心の中で猿田に拍手を送った。
「思ったより時間かかりました」
スパークリングを終えた猿田は、涼しげな顔でリングを降りる。トレーニングマシンにもたれかかった会員たち、リング上で伸され意識を取り戻し始めた会員たち、彼らを介抱するジムの職員。その全員が化け物を観るかの如く怯えに満ちている。
「あいかわらず、サルは多対一で輝くね」
三瀬に来る前から独学で格闘技を学んだという猿田は、譲葉の知るかぎり初めから喧嘩に強い男だった。基本はボクシングだというが、ボクサーにしては姿勢が低かったり手近な凶器を武器に使うので、原点がどこにあるのかはよくわからない。譲葉にわかるのは、イ詞を使わずに組み手をすれば猿田が自分より強いこと、猿田が最も輝くのは多対一で相手を伸す瞬間であることだけだ。
「全員きちんと強かったっすよ」
「それじゃあ勝敗はズルの差?」
譲葉の見る限り、ジム会員達は一人もイ詞を行使せず人間の枠内で戦った。
「イ詞の使い方も含めて実力っすよ。5対1で示威を使わなかっただけでも俺のほうが優しい」
初めの3人が全く相手にならなかったので2対1に。それでも相手にならなかったので会員達は5対1で猿田に挑みかかった。リング上で5人も入り乱れたら動きにくいだろうと思うが、それでも一般に数の暴力は個の能力を凌駕しうる。彼らが読み違えたのは、猿田が多人数との喧嘩に慣れていること、イ詞を使うことに躊躇いがなかったことだ。
「まあ、ともかく多勢に無勢みたいな結果にならなくて良かったよ。無料体験に立ち寄ったせいで病院送りになったなんて話、目も当てられない」
「止めもしないでそんな暢気な感想。たまには姐さんもやってみますか?」
「やめておくよ。格闘技はパス」
「日頃のトレーニングがいざというときに身を助けるんですよ」
市街での聴き取りの途中で、スパークリング無料体験ののぼりを見つけたときと同じ、ふてくされているようにも聞こえる口調とかみ合わない熱を持った瞳。
なんとなく腹が立って、後頭部を狙って回転蹴りを放ってみるも平然と躱され、ジム内にざわめきが起こる。どうやら余計に彼らを怯えさせたらしい。
「姐さん。TPOって知ってます?」
「格闘技のジムだろう、ここは」
ため息をつく猿田の続く小言が聞きたくなくて、譲葉は懐に入れていた禁煙パイポを口に咥えた。
「でも、妙だね」
「なんですか、好みの飯屋がないですか」
猿田は、譲葉の座っていたベンチにおかれた蔵先市街ガイドブックに目をやった。
「期待した料理はなかったね」
「そうでしょうね。この街でイ界産の食材を売りにした店があるわけがない」
“期待した”がなんのことであるか正しく掴んだ回答ではあるが、そもそも譲葉が気にしていたのはそこではない。
「ジム会員は誰もイ詞を使わなかっただろ。袋だたきにする知恵と精神があるなら君と同じ土俵に立つほうが勝率は高い」
人間が身につけたイ界寄りの力。異能、超能力、傾向進化。様々な名称で呼ばれていたそれは三瀬ではイ詞と総称される。譲葉や猿田のように固有の力を発現させる者は限られるが、体力の向上や感覚の拡張など、身体能力の補助として利用する者は多い。譲葉たちの暮らす市街では対イ形護身術として教える道場まである。
だが、先ほどの試合を見る限り彼らはイ詞を使えない。使い方を知らないのだ。
「やっぱりイ形を排除した都市計画結果なんじゃないですか。街から出ない限りは不要なんすよ」
「だからイ界産の食べ物も出回らない?」
「筋が通ってるでしょう」
通っていない。少なくても自警団の話とは真っ向から矛盾している。
ジム会員達の視線を避けるようにジムを出ると、商店街が広がる。ジムが位置するのは蔵先市街の中腹にあたる階層だ。下層に続く縁沿いに作られた商店街は、書店やスーパー、飲食店などが立ちならび、住人達の生活拠点になっているのがよくわかる。
夕方になると仕事を終える者が多いのか、ジムに入ったときよりも人が多い。先般、市街に入ったときに利用した飲食店は別のエリアにあったが、この商店街でもロードレースの貼り紙や宣伝が目についた。補助輪付きの自転車で縁を走る子どもの姿もある。
「気にいらないな」
「そうですか? 妙だとは思いますけど、噂に比べて明るい街で俺はちょっとほっとしてますよ」
「さっきのジムも、ロードレースも、まるでここはイ界の外だと言わんばかりで無理をしているように見える」
「それは……他の市街だって多かれ少なかれそうじゃないです?」
「イ界産の食品を使わない自給自足ってのも引っかかるんだよ」
ガイドブックの宣伝文句を見せると猿田が眉をひそめた。
「だいたい、三瀬の外でだってこれだけの規模の街を支えるのに自給自足は限界がある。構成員のほとんどが一次産業に従事しているならさておき、この街の人間にはそれらしい施設がないんだぞ」
蔵先市街は14階建てビルに騒動する壁で囲まれた閉鎖的な立地であるし、壁に穿たれた出入口は、南側の樹海か、北の交易路にしか繋がっていない。交易路の先には別の市街があるが、その市街ですら三瀬の外へ続くルートに繋がっていない。
ここは三瀬の外から食品を大量輸送できる土地ではなく、イ界との関わりなしで自給自足が成立しているという説明は不自然だ。
「表向きと実態は違うんじゃないですか。インフラは管理委員会の管轄ですからね。イ界0の純粋な町作りなんて不可能なのは彼らが一番知ってるはずです。
でも、この街のコンセプトはイ界と関わらない空間の維持だ。住民には真実を告げられない」
それはひとつの説明ではあるのだが。
「じゃあ名波はなんで私たちに市街にイ界産の食品が出回っているなんてしたり顔で話したんだ。自警団だって管理委員会の下部組織だぞ」
「彼らは市外にいる時間が長いから価値観が変わってきたんじゃないですか。だから、素性を隠しているはずの食材の話も平然としてしまった。俺たちは部外者だから気に留めなかったとか?」
住民に伏せておきたい情報を市街に出入りすることがわかっている訪問者に提示する。仮に管理委員会の遣り口に反感を覚えていたとしても遺恨が残りそうなやりかただ。
「気にいらないが、できるところからか」
まもなく市街に夜が来る。街並みが橙色から群青へ塗りつぶされるにつれて、街を囲む外壁も夜空と同様の色合いへ変わっていく。
蔵先市街は高い外壁から中心部へ向かって、何層にも分かれ地下へと潜っていく。敷地面積が広いとはいえ、境界線を全て高層ビルで取り囲まれていては圧迫感があると思っていたが、外壁とそれに近い場所の壁は時間に応じて表面が変化し空と同化するように細工されている。どういった原理でなされているのかはわからないが、ぼんやりと眺めていれば街の外は遠い空が見える平野であると錯覚し、壁の存在もここが樹海に囲まれた土地であることも忘れてしまいそうだ。
夜に先んじて灯りをつけた飲食店は、蔵先名物なる幟を立て、夜の営業を始める。人工的な景色が広がる街で蔵先産食材を掲げる光景にこの街の住人は疑問の目を向けない。
「そういえばサルは北から三瀬に入ったんだよな。あっちはどうなの。実は境界付近にいくとこうやって壁に囲まれた街がない?」
「ないですね。これは俺の感覚ですが、こんな壁を建てるコストをかけるくらいなら街の周りを焼いて更地か廃墟に保つ活動のほうが確実です」
「もっともだね」
「ところでこれからどうします? 今日はこれ以上情報収集は難しそうですが、結局、行きたい店は見つからなかったんですよね」
「そうだな。できれば食事と合わせてもう少し街のことかサモエドの手がかりが掴めればと思ったんだけどね」
依頼者から与えられた手札はあまりに少ない。サモエドの写真。6メートルほどという大きさ。菜園と目撃者の情報と、管理委員会の横槍。
「せめてサモエド自体を観察するか、自警団のことを知りたいところだね」
だが、これから樹海に出てキャンプをするには譲葉も猿田も装備が足りない。我ながら行き詰まっている。開放感を演出した街にいるのに息が詰まりそうな気分だった。
「それならこの店に行きましょうよ。元々俺たちみたいな流れ者を歓迎する店らしいっすよ」
ジムの受付から自分の分もとってきたらしい。猿田が蔵先市街ハンドブックを紐解き、賑やかそうな居酒屋の写真を指した。
“探索者歓迎! 樹海の情報交換ならここ!”
怪しげなキャッチフレーズだが、依頼解決に何も繋がらなさそうな大衆食堂より数段ましかもしれない。
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