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 “イベント”。それは三瀬一帯を覆うように譲葉たちがいる現実とは違う世界が現れた現象をいう。

 その世界により、三瀬の環境は激変し、紆余曲折のすえに三瀬という名を付けられ立入禁止区域となった。

 譲葉も猿田も“イベント”以降に生を受けた人間だ。加えて、二人とも三瀬の外からきたので“イベント”の詳細をしらない。他方で、三瀬を覆った別の世界については、言語化困難なだけで馴染みのあるものだった。

 三瀬に足を踏み入れた譲葉たちは、外で言語化できなかったそれらを表すために、二人を拾った先代“探し屋”の言葉を借りた。“探し屋”の言葉は、三瀬の言葉であり、身体にすっかり馴染んだ今では、譲葉と猿田の言葉になっている。


 三瀬では“イベント”が現実と繋いだ世界をイ界(いかい)と総称し、イ界から現れるモノ一般をイ形(いがた)と呼ぶ。

 イ形という呼称は千差万別な姿をした意思を持つ者、現実には存在し得なかった植物、鉱物など、イ界産のあらゆるものを含むが、日頃は、意思を持つ者のうち良かれ悪しかれ人と関わりを持つ者への呼び名として使われている。

 イ形の性質は様々だが、現実にはなかったものという共通項のために、総じて譲葉たちの暮らす現実を変える傾向がある。こうやって整理するとまるでイ形の出現により現実が悪い方向へ傾いていくように感じられるが、変化の大小、変化によって得られる損得は個々の事例によって異なる。

 その意味では、イ形と人の関わりは、人と人、人と自然の関わりとさほど大きな違いがないともいえる。三瀬の住人達は、イベント後もこの土地で生きるため、イ界やイ形に名を付け、整理し、変化に順応をしていった。三瀬の外の人々からみれば驚くような状況――例えば居住区の周りを突然正体不明の樹木で囲まれたとしても、三瀬の住人達は根強く今日も生きている。


 一方で行政は、三瀬内で起こるイ界の氾濫を許さなかった。イ形による変化は急激で、常識の壁を平気で破る。天と地がひっくり返った次の瞬間には天が二つに割れている。人の営みには存在しなかった速度の変化に組織は耐えられず拒絶反応を起こした。

 三瀬は早晩崩壊し混乱が生まれると考えた彼らは“イベント”の影響範囲が可能な限り限定されるべきだと主張した。彼らの努力は早々に実り、三瀬は原因不明の災害を理由に、立入禁止区域と指定された。

 三瀬の“イベント”以降、国内では数カ所にて“イベント”が発生しているが、前例を踏まえて立入禁止区域に指定される運用が続いている。

 譲葉の個人的な感想に限れば、行政機関の要望は三瀬の住人よりも冷静で先を見据えたものだと思う。立入禁止区域外の人々は、未だにほとんどがイ形のことを知らないし、立入禁止区域内で人間が生活していると想像することもない。混乱を広めないと言う目的は無事に達成されているといってよい。

 但し、立入禁止区域の制度には幾つもの穴がある。例えば、区域内の人間を連れ出すことも見捨てることも出来なかった政府は情報統制の下、区域内外の往来を許可しているし、物資搬送用の交通網が存在している。

 専用交通網以外の境界線全てを管理することは不可能なため、譲葉や猿田のように政府の許可とは無関係に三瀬へ侵入した者もいれば、その逆もある。

 そして、その往来は必ずしも現実の人間、動植物に留まらない。行政が厭うたイ形たちは未だに立入禁止区域外へ進出可能な状態にある。崩壊は未だに眼前で足踏みをしているのだ。

 それでも40年来、行政が危惧した崩壊が起きてないのは、三瀬上空に浮かぶ巨大な一枚の板――モノリスのイ形への干渉、そして住人達が組織する自警団による積極的なイ形駆除政策が成功しているからだと言われている。

 もっとも、崩壊が進まない理由について真実を知る者はどこにもいない。案外、モノリスの気まぐれで三瀬の拡大は止まっている。そんな程度のことなのではないかと譲葉煙は思っている。


 ―――


「あのサモエドはいつ頃発見されたんですか?」

「1ヶ月前だ。地図と写真を既に見てくれているならこのまま少し状況を整理しよう」

 名波は譲葉たちの間を分け入るように地図に近づき、マグネットで留められたマーカーを手に取る。講師のような振る舞いに、譲葉と猿田は自然と地図の前に身体をずらし、二人並んで名波と向き合った。

「まずは地図の示す場所からだ。地図の右上、青い○をつけているのがこのキャンプ地で、地図には周辺4キロの地形が書かれている」

 名波はそう断言するが、地図の左側には空白の部分も多い。三瀬にはイベントによって地形が変わり、街の多くが樹海や奇妙な建造物に呑み込まれた。

 イ界に呑まれた土地には当然ながらイ形も多い。人の生活がままならない場合も多く、自然と人が暮らす市街と放棄した市外に分かれていった。結果として市街と市街を繋ぐ交易路の外には多くの未開の地がある。

「私たちもここにキャンプを張って2週間、周辺を調べているのが空白部分は概ね森だ」

「それじゃあこの辺は完全に未開の地?」

「いいや。その分類だと少々不正確だ。この地図上に市街はないが、このルートは、北東の蔵先市街と繋がる交易路になっている」

 名波の示すルートは森のなかに細く這っている。地図上の森を取り囲むように大きなロの字を書いているが、交易路にしては道幅が狭い。なにより譲葉の知る限り、ここから南西方向に市街はない。

「どこと交易してるんだ? この先に市街はないし、樹海経由で三瀬の外に繋がる道はないだろう?」

 三瀬の西端、モノリスの影響範囲の向こう側には今でもイ界に侵されない土地が続いているが、キャンプのあるここ、三瀬南部樹海の西端に関しては地形が変わり深い崖ができている。崖を越えて内外を行き来する道は公式には整備されていない。

 非公式なものは存在するかもしれないが、崖下を探索した者がいないなかで深い崖を越える道を作るのは至難の業のようにも思う。

「市街にも三瀬の外にも繋がっていない。この交易路は“菜園”のために用意されたものだ。場所はここ。写真の巨大イ形が初めに確認されたのもこの菜園の付近になる」

 名波のマーカーが指すのは森。地図の下地になっている航空写真には街の気配がない。野営地ならともかく、継続的に人が暮らす拠点とは考えにくい。

「菜園ってもしかして」

「栽培されているのはイ界産の野菜。菜園の主はイ形だ。交易路は隠されていて、普段は蔵先市街の取引業者と菜園の主しか通らないそうだが、そこに野菜を盗もうとした侵入者が現れた。それがこの巨大イ形の第一発見者だ」

 イ形の菜園。イ界産の作物を作り販売する拠点。三瀬内では珍しくはないが、蔵先市街の自警団員がその存在を知っているのは意外だった。

「それは、蔵先に流れているのですか?」

「菜園の野菜は安定供給されるうえに味がよいと人気があるんだ。居酒屋を巡ってみるとよい」

 三瀬の住人達にとってはイ界産の食料も重要なライフラインの一つではある。譲葉も猿田も口にすることは多いが、殊、蔵先でと言われると違和感があった。

 蔵先市街は三瀬でも珍しい隔離都市だ。イ形を排除し、人間だけで現実に近い生活をする。三瀬を立入禁止にした行政の体現のような街で、イ界産の食べ物が流通しているというのはいささか不自然である。立ち寄ったときも店では三瀬で生産した食品、域外から取り寄せた食品と銘打った料理が並んでいた。

 もっとも、市街には三瀬内でしか稼働しないであろう機械や設備もみかけたので、一定の範囲でイ界を受け入れる、見て見ぬふりをしているのが実態なのかもしれない。

「侵入者たちは、地図上のここ。南側の交易路から菜園に侵入し、西側に出ようとして、菜園出口付近で巨大な犬の顔と遭遇した」

 眉をひそめた譲葉の様子を気に留めることもなく、名波は事情の説明を続けている。窃盗犯とはいえ、イ形の営む菜園で盗みを働いた直後の体験としては怖かっただろう。

「それで、彼らは逃げ延びて自警団に?」

「いや。結局そこから半月、樹海内を逃げて回ったらしい。そのせいで盗んだ野菜も持ち込んだ補給品も自分たちで食べきってしまった。命からがら蔵先に戻ってきたはいいが、その間に菜園の様子を知った主達にエントランスゲートの前で捕らえられたらしくてな。そのまま市街には入れず自警団に証人として連れてこられた」

「待った。名波さん、証人ってのはなんの?」

「彼らの菜園付近にあのイ形が出たことの証人だよ。そもそも、自警団に駆除の相談にきたのは菜園のイ形たちなんだ。突然現れた巨大なイ形のおかげで菜園付近のバランスが崩れているとね」

「俺からも質問いいですか?」

 黙って聴いていた猿田が小さく手を上げると、名波は目を輝かせて頷いた。

「蔵先市街の自警団はイ形の依頼も受けるんすか」

「もちろんだ。自警団の役割は蔵先市街の治安維持。蔵先の生活に関わる依頼なら依頼主が人かイ形かは些細な問題だよ。無論、何かしらの罪を犯していたとしてもそれも依頼とは関係ない」

「なるほど。それで、依頼主のイ形はサモエドをみたことがない……サモエドはイ形達の仲間じゃない?」

「彼らが言うにはそういうことになる。まあ私たちも手放しで信用しているわけではない。なにしろ、地図の通りこの辺りには未踏の場所もあるが、西は三瀬外との境界、南は海。この立地であのサイズのイ形が隠れていたは考えにくい。イ形の場合、突然巨大な個体が出現することもありうるが、初めから菜園にいる個体だったと説明されたほうが納得できる。

 依頼者達もこちらの疑問については感じ取っていたらしい。私たちが疑っているのをみて、彼らは侵入者達を探しだしたんだ。侵入者は何度か予行演習をしていたそうでね。そのときにはあんな犬はいなかったと口を揃えて話したのを聴いて、私たちもあの個体が最近現れたものだと判断した」

 話としては一応筋が通っている。だが、ここまでなら“図書館”伝手で犬の鑑定法の捜索を依頼しなくてよい。

 譲葉がみるかぎりこの自警団キャンプはイ詞を使わなくても害獣を仕留められるような装備が整えられている。危険因子だというなら戦ってみれば良いのだ。大きいとはいえ6メートル。譲葉や猿田が個人として相対するには危険な大きさだが、遠距離攻撃が可能な装備と人数がある。サモエドがよほど変わった力を持たなければ数の暴力は個に勝る。

 なにより、三瀬でイ形と相対するにあたって常に詳細情報を求めていたらいつになっても駆除は出来ない。昨日まではなかった未知と遭遇するのが当然だからこそ、自警団は武力に拘る傾向にある。

「前置きが長くなってしまったが、探し屋さんに手伝ってもらいたい問題はここからでね。

 現在、私たちは該当個体駆除のため周辺のマッピングし、このイ形の生態調査を行っている。サイズ、行動予測、ロケーションが揃い次第、駆除作戦を行うつもりだ。だが、この作戦に横やりを入れる人間がいる。

 それが、蔵先市街管理委員会だ」

「管理委員会が市外のイ形駆除に異議を申し立てているんですか?」

「そうだ。異例中の異例でね。あのイ形は南部樹海で発生した“イベント”の詳細を解き明かす鍵だと主張し、捕獲または懐柔を提案する委員がいる」

 それはまた大層な意見だ。三瀬の人間たちにとって“イベント”は過去で、正体不明で、それ以上の追及は不要の出来事だ。掘ったところで時間はまき戻らない。無意味な調査をするくらいならイ界との共存を優先する。それが三瀬の基本姿勢であり、実質的に行政を担っている管理委員会もその姿勢を貫いている。

「歴史的価値があるので討伐せずに捕獲しろ。あの巨体を前によくそんな発言が出来たものだよ。だが、知っての通り管理委員会は自警団の母体である以上、彼らの指示に従わざるを得ない。だから、私たちは探しているんだ。あのイ形の正体を鑑定する方法をね。

 あの巨体が彷徨きまわるだけで災害だ。あれが歴史的価値をもつものではなく、単なる災害だという根拠を探してほしいんだ」

 駆除をする現実的な力はあるが政治がそれを許さない。思ったより普通の説明だ。サモエドに相対する必要性もないから、譲葉たちは軽装で許されたわけだ。

「つまり、この写真のイ形が、過去に現れた個体と同一または同種ではないとお墨付きを与える方法が欲しい?」

「その通りだ」

 こちらが理解を示したことに安堵したのか、名波はにぃと白い歯を見せて笑った。

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