第2話:死

 電車が走り出してしばらくしてもまだ、”人”は一言も喋らず立っていた。


「やあ、俺、悪魔!君さ、1人殺して来てよ。終い駅までにさ!」


 ”人”は唐突に自分を”悪魔”だとで名乗った。その口調は非常に軽く、殺人という言葉を口にしているにもかかわらず、まるで友達にちょっとしたお願いを頼んでいるようだった。

 こいつは何を言っている。その差異に俺の思考は混乱した。

 きっと表情にも出ていたのだろう。”悪魔”は心底楽しそう体を左右に揺らしていた。そして、後ろに手を回しボロボロのローブから何かを取り出し、差し出した。


「このナイフでさ」


 ナイフは両刃だったが、刃はガタガタで、少し錆びついているようにも見えた。誰がどう見てもなまくら、皮膚を切る事はおろか、紙すら切れないだろう。

 このナイフを見て、急に覚めたというか、少し冷静になった。こいつはコスプレで俺をおちょくっているという考えが浮かんでくる。というかそっちの方が可能性高いだろ。

 そんな俺の考えを見透かしたように悪魔は言葉を続ける。



「おちょくってるわけじゃないよ。どうすればマジってわかってくれるかな?

 あ!フフフ…これはどうだろう?木野田将司 岩手出身 39歳 妻子持ち 」

「は?」


 またもや唐突だったがその名前が誰なのかすぐにわかった。俺が勤めている会社の上司だ。いつもお世話にになっていて、さっき会社で顔を合わせたばかりだった。そして、上司とはよく話すので記憶が正しければ、年齢も出身も合っていた。何故知っているのか?疑問に思った。もしかして俺は身内のイタズラ?と、呑気にそんな事を考えていた。次の瞬間まで。


「28歳、岡山出身、旧姓 橘」


 聞き覚えがあった。


「佐藤美紀」


 俺は思わず顔を上げた。

 妻の名前だ。年齢も出身も旧姓までも合ってしまっていた。なぜこいつが知っている?頭の中で大きく警鐘が鳴り響いた。

 悪魔は続けて、


「子供は佐藤直人」


 笑っていた。俺は気づけば悪魔へ手を伸ばしていた。


「おい!てめぇ!」


 悪魔の胸ぐらを掴もうとしたが、その手は届く事はなく、悪魔の枝の様な指に掴まれ止められてしまった。痛い。見た目からは想像できないほど力が強く指が俺の腕に食い込んだ。

 そして、悪魔はもう片方の手で口元に立て、わざとらしくシーといって、


「大きな声を出すなよ。俺は悪魔だせ?お前以外には見えていない」


 そこで初めて周りの視線が俺に集っているのに気づいた。悪魔の言い分が正しければ俺は電車内で一人叫んでいた事になる。

 俺は慌てて少しゆるくなっていた悪魔の手を振り解き、何事なかったこのように座った。恥じらいと怒りが混ざり、頭に血が上っている感覚があった。


 そんな俺に悪魔は押し付けるように先程のナイフ渡し、私の肩をポンと叩いて、耳元で囁いた。


「これはお願いじゃないからな」


 先程までの軽い言い方とはうって変わり、脅すような低い声だった。その声は俺の心臓を強く叩いた。急激に鼓動が速くなり飛び出してきそうだった。細かい説明が無くとも悪魔の本気さが伝わってきた。

 俺は気圧され怖気づいていた。手が震えている。その震えを抑えようとしたとき、スマホの家族写真が目に入った。


(ここで怖気付いてたまるか!!)


 家族の存在が力をくれた。意を決して言葉を返そうと口を開いたが ――

 気づくと悪魔の姿は消えていた。

 夢。もしかしたらさっきの出来事は全部、夢なんじゃないか、そう思った。けれど手の中の冷たいナイフが非情にもそうじゃないと伝えてきた。


「家族が人質…ふざけるな…」


 悪魔が家族の情報を持っている、奴が何をするつもりかは分からない。けれど相手は人を殺せと言うようなやつだ。何をするかわかったものじゃない。

 俺は深くため息をつきナイフを見た。

 殺す。そんなのが選択肢にあって良いはずがない。ならどうするべきか?警察に伝える?なんて言う?まさか悪魔に脅迫されているというわけにはいかない。ならばいっそのこと逃げる?悪魔は家族の個人情報を知っていた。家の住所を知っている可能性は十分にある。到底安心安全とは呼べない。ではどうすれば、どうすれば ――

 この時俺は相当パニックになっていた。思考が整理されず堂々巡り、結論には、決断にはなかなか辿りつけない。


「次は一つ目駅 —」


 次の駅到着のアナウンスが流れた。

 そこで俺は悪魔のもう一つのルールを思い出す。悪魔はこう言っていた。殺人を”終い駅”までに行う事。

 終い駅は乗った駅から数えると4つ目の駅、時間でいうと30分ほど。今、電車に乗ってから5分経っている。つまりタイムリミットは25分。この時間内に決着を付けなければならない。タイムリミットを過ぎたらあの悪魔の事だ、まともな結末が待っているとは思えなかった。


 そうこう考えている時、体が大きく左右にゆすられ、電車のブレーキ音が響いた。どうやら一つ目駅についたようだ。ドアが開く。


「わーい!」


 子供が勢いよく駆けてきた。椅子に飛び乗り窓から外を覗き込む。元気な子供だ。初めての電車なのかもしれない。自分の子供も大きくなったらあんな風に元気に駆け回るのか?そう思うと口が綻んだ。


「お母さんァァァァ!」


 耳を突き刺すような大声で母親を呼んだ。子供のそばに一人の女性が歩いていく。母親だろうか。顔に疲れに見える。こんなに元気いっぱいな子だから、きっと大変な部分もあるのだろう。


「うるさいねぇ!静かにしないか!」


 白髪の老女性だった。子供と同じくらい、いやそれ以上の大声で怒鳴った。

 この時私は軽く苛立ちを覚えた。子供ははしゃぎ、声を上げ動き回るものだ。仕方ないのではないか。なんなら、あなたの方がうるさいと。この時は自分でも感情的になっていたと思う。

 老女性は次に母親に対して強くあたり、彼女は何度もすみませんと頭を下げていました。そんな姿を見て俺は母親が可哀想になり、つい考えてしまった。消えるならこんな人がいいだろうと。自然とナイフを持つ手に力が入った。


「あんた大丈夫かい?周りがうるさかったでしょう?」


 突然声をかけられ、思わず体をびくりと動かしてしまった。横を見るといつのまにかあの老女性が座っていた。彼女は心配そうに俺を見ながら、


「あんた顔色悪かったから、子供の声が頭に響くんじゃないかと思ったんだけどね。少し怒鳴りすぎたかね」

「え?」


 ご老人は俺の為に怒鳴ったと言った。顔色が悪いからと。俺は全身に汗をかき、いまだに手が震えていた。殺せと言われ強いストレスに晒された俺は、周りから見てわかるほど酷かったのだろう。それを思ってご老人は怒ったと知ると、さっき自分自身の考えてしまった事が、罪悪感となり心へ重くのしかかった。


「そうだったんですか…体調は大丈夫です…」


 表面だけを見て感情に流されていただけの自分の浅ましさに軽蔑した。


「間も無く二つ目駅、二つ目駅—」


 アナウンスが流れ、もうすぐ次の駅に着く。ご老人は立ち上がり、


「無理せんようにね」


 言葉をかけてくださり、扉へ向かった。俺が会釈しようとしたその時、車内に小さく風が吹いた。そして、いつの間にか彼女の背後にそいつはいた。悪魔だ。


 ゴー


 耳に低い音が響く。空気が鼓膜を覆うような不快な感覚。外は夜のように暗くなった。電車がトンネルに入ったのだ。外の暗さは車内の窓を鏡のようにした。そして俺の目の前に映し出されたのは重なる悪魔とご老人。悪魔に隠れてご老人の姿は反射した窓越しにしかよく見えない。キラリと何かが鈍く光った。

 悪魔の手にはナイフが握られていた。あのナイフは悪魔が俺に渡したものと同じものだった。俺は自分の手を見た。手の中からナイフが消えていた。


「やめ ――」


 俺の制止の言葉より速く悪魔はご老人の脇腹に突き立てた。ナイフはまるで幽霊に刺すようにするりと彼女の体内へ入っていった。

 バタン

 ご老人は糸が切れた操り人形のように力なく崩れた。受け身も取れず頭からもろに床に倒れた。悪魔越しに見える彼女はもうぴくりとも動かない。 

 死んでいる?そんな簡単に?

 俺は急いで彼女へ駆け寄ろうとした。が、悪魔がそれを体で遮り、


「そうそう説明、忘れてた。このナイフは体に当てるだけで相手は死ぬから。非常に簡単!実にすごくてね、俺に刺しても簡単に殺せる素晴らしい代物。けどこれは一本しかないんだよねぇ」


 悪魔はそう言って俺の鼻先にナイフを向け、俺は蛙が蛇に睨まれたようにピタリと動きを止めた。目の前に死が突きつけられている。


「本当に殺したのか?」


 こんな状況でも俺は質問した。どうしてもご老人の死を、目の前の死という非現実的を否定したかった。怯えていた、恐怖していた、どうにかなりそうだった。

 悪魔は答えなかった。代わりに心底楽しそうに、


「あー家族には手を出さないよ。ただからかってみただけさ」


 ぐちゃぐちゃな俺の心の奥で安堵が広がるのを感じた。よかった、心からそう思った。しかし、悪魔の言葉はまだ終わりじゃなかった。


「けれどどっちにしろお前は死ぬからな」


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