悪魔とナイフ
イシナギ_コウ
第1話:分岐点
「空いてるな」
普段はたくさんの音が重なり合って、一人一人の足音すら聞こえないが、今日は自分の足音がはっきりと聞こえていた。きっとそういう時間帯なんだろう。
今日は仕事が早く終わった。いつもなら人の波に流されながら、ホームへ降りなければならないが、その必要がないと思うと足が軽くなった気がした。この感覚は随分久しぶりな気がする。
軽い足取りのまま、誰もいない改札を抜けると、正面の大きな柱に目がいった。
「こんなところに貼られてたのか。気づかなかった」
柱を回り込むようにポスターが貼られていて、顔写真が8つほど並んでいた。いつもなら目に入らなかっただろう。特に理由があったわけではないが、なんとなく立ち止まりまじまじと見てみた。写真はカラーだったり、モノクロだったり、画質もバラバラで、おそらく撮影した年も違うのだろう。しかし、共通点もあり、それぞれの写真の下には黄色の文字で懸賞金と大きく書かれてた。重要指名手配のポスターだった。
「言っちゃなんだけど、この人いかにもって感じだな」
写真の中に、眉から頬まで通ってる特徴的な傷がある人物がいた。この人の罪状は殺人だった。目つきは非常に鋭く唇は厚くて、相手を噛み殺したと言われても納得してしまうような凶暴性が顔に出てた。懸賞金額は結構な額がかけられてて、手にかけたのは1人2人じゃなさそうだ。
「こんな人と絶対に出くわしたくないな」
そんなことを考えながら、ふと時計を見ると出発の時刻が迫っていた。俺は慌てて歩き出した。
「おっとこっちじゃなかった。4番ホームだった」
すぐに引き返して早歩きで目的のホームへ降ると、幸いにも電車がまだ出ていなかったため急いで乗り込んだ。
車内はポツポツと間隔をあけて乗客がいるだけで、改札と同じようにあまり人がいなかった。そのため座る場所に悩む必要はなかったので、なんとなく扉近くの席に座った。
そして、おもむろにポケットからスマホを手に取るとロック解除画面に赤子を抱く女性の写真が映し出された。俺の妻と息子の生まれてすぐに撮った写真だ。いまだその時のことをに鮮明に覚えている。
4ヶ月前、息子の直人が産まれた。
森に囲まれた小さな病院の上で太陽が峠をを越えようとしていた時、小さな病室に大きな泣き声が響き渡った。俺の泣き声だった。妻は何度か流産をしていた。その度に彼女は大きな声で悲しみ泣いていた。だから嬉しかった。俺たち夫婦にとって死ぬほどうれしかった。
2人で握った直人の手。小さな手だった。守らなくちゃいけないと思った。愛おしくて弱々しいこの手と愛する妻のために今、俺は働いてる。二人を幸せにするためならいくらでも頑張れる気がする。
今、育児の方は育児休暇が取れてる妻に任せっきりだ。大変だと思う、ホント感謝している。今日は早めに帰れる分、彼女を休ませて俺が頑張るつもりだ。スマホを持つ手に自然と力がこもった。
「やあ」
突然、頭の上から声をかけられた。いったいなんだろうと俺は顔を上げた。
「....⁉」
座る場所はいくらでもあるのにわざわざ俺の目の前に”人”1人立ってた。けど、それは別に驚くようなことじゃない。問題はその外見だった。一言で言い表すなら異様だった。その"人"の頭は古びた牛の頭蓋骨で、ボロボロの黒い布を身にまとっており、足元は裸足という、まるでファンタジーの世界のような風貌。
――コスプレ 、そう考えるのが妥当だろう。これはリアルだ、フィクションじゃない。俺は危険なものを吸ってないし、過度なストレスとかはない。今日はハロウィンじゃないが、世の中色んな人がいる。もしかしたら近くでイベントとかあったのかもしれない。だからこれはコスプレ、そう考えるのが妥当なんだ!
なぜだろう。俺は、ひたすらこの”人”の理由を考えていた。必死に、”何か”にたどり着かないように。
”人”はというと俺をただただ見ていた。頭蓋骨の二つの虚空からじっと見ていた。
気づけば、全身から嫌な汗が出てきて下着がぐっしょり濡れていた。息が苦しく、口が乾き、不快な耳鳴りがしている。おかしい、何かがおかしい。
「ドアが閉まります、注意してください」
アナウンスが流れた。俺は思わずビクリと体を強張らせた。ポーンという音の後、電車の扉が閉まった。
しまったと思った。大きく重い門によって退路が塞がれたような気がしたからだ。
今思えばここが最後の分岐点だったのかもしれない。この時の俺には逃げるという選択肢を取れなかった。いや、きっとその選択を選んだとしても変わりはしなかったのだろう。こいつを目を付けられた時点で”詰んで”いたのだ。
電車が動き出す。揺れが徐々に大きくなっていく。ふと席向かいの窓を見た。
”人”越しの空にはどす黒い雲がゆっくりと広がり始めていた。
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