第2話:女の子の体は刺激が強すぎます
街灯がポツポツ並ぶ中を凛はひたすらに歩く。
残暑が厳しい9月だが夜になれば流石に涼しい風が通り抜ける。8月の夜でも灼熱のように暑い夜は過ぎ去り、変わりそうで変わらない季節の変わり目が近づいているのを、どこからか香ってくる
「ちょっと遠かったかな……」
30分近く歩いて、まだ折り返し地点を過ぎた所だということに気づき軽く凹む。
バスや自転車ならたいした距離ではなかったが、こうして徒歩となるとやや時間のかかる距離だ。
それに、歩幅が男だった時よりだいぶ小さく感じる。
「体、小さくなってるよな……」
いつも自分が見えている視界より、低い位置にある気がする。
試しに道端の自販機と向き合ってみれば、やはり背が男のときより縮んでいる。以前は一番上の商品が目線の高さだったのに、今は見上げている。
まあ、そりゃそうだよな。袖とか裾とか余りまくってるし……。
試しに男だったときの視線の高さを思い出しながら、指でだいたいの距離を測る。
「……これ15cm以上小さくなってね?」
だいたいの感覚だから、もしかしたらもっと縮んでいるかもしれない。高校一年にしてはそこそこ背が高いかもと思っていただけに、この身長ダウンは少しショックだった。
「髪もやたら長いし、重いし」
掴んでみると、その毛量に驚く。洗うの大変そうという気持ちも浮かぶ。何にせよ慣れなさすぎてテンションは下がり気味だ。
「こんなに変わちゃって、うちの親気づいてくれんのかな? もしかして俺だと気づかれなくて、マジに追い出されたりとか……? ああやだやだ、考えるのキツイ」
ひとりでただ歩いていると暗いことしか浮かばない、と凛は首を振って脳裏に浮かんだ想像をかき消す。
たまに通る車のライトに照らされ、凛は向こうからスーツ姿の男が歩いてくるのを見た。
サラリーマンはこんな時間に帰宅って大変だよなと思い、少し違和感を抱く。
そういえば、男が歩いている方向は駅の方向で……この時間だとほぼ終電は絶望的だ。帰るのなら駅とは反対方向に向かうはずだ。
いや……まあ、考えすぎでしょ。
女の子の体になったからか、心細くなっているのかもしれないと凛は思い直す。まさかそんな不審者とかではあるまい、と。
しかし、近づいてくる男の風貌がわかるにつれ、凛は考えを改めた。
短く切り揃えた染め上げた金髪に、羽織った黒いジャケット
には刺繍が入っていて、だるそうに歩いてくる。
うん、と凜は心の中でひとつ頷く。
これはチンピラかヤクザのどっちかだ。どっちにしろやべー奴だ。
声とかかけられませんようにと、祈りながら顔を伏せ、男とすれ違う。
「ん?」
何かに気がついたかのような声とともに、男の足音が止まる気配がした。
やばい。絶対やばい。これ物陰に引きずり込まれて乱暴とかされる奴なのでは? そう思うと、怖さが増してきて呼吸が止まりそうになる。
「なあ、おい。そこの嬢ちゃ──」
「俺は男ですうぅぅぅ!!」
男が声をかけてきたのと同時に、凛は必死に叫んで走り出した。それはもう一目散に、だ。
男が追ってきているかどうかなど確かめる気にもなれず、凛は家までの道を必死で走った。
結局、相手は追ってこなかったが、凛にとってはホラー映画より怖い体験だった。
★ ★ ★
家に着いたのは日付が変わり30分も過ぎた頃だ。
2階建ての一軒家が凛の家だった。玄関の扉の前で家の鍵を持ちながら凛は悩んでいた。
さて……なんて言ったものか。
親へのLOINには返信していたものの、電話には頑なに出なかった。今の凛の声は元の声とは違うものになっている。電話に出ても混乱させるだけだろう。
そう言い訳をして先延ばしにしていたが、結局の所怖かったのだ。
あんた誰? と親に言われることが。
親に存在を否定されるのはキツイなと思う。世界で最も信頼できる相手なのだ。そんな人から否定されるのはキツイ。
けど、玄関先で突っ立っていても仕方がないのも事実だ。
「ええ、ままよ」
鍵を開け、そろーと玄関に入る。正面に階段で左手にリビングだ。多分親はリビングにいるだろう。階段を登った先に凛の部屋がある。
「…………」
いや、やっぱ親と顔合わせるの怖いと凜は日和始める。
さっき考えてたこともあるし、何より怒ってるだろうし。
結果、凛はバッグで顔を隠しながら忍び足で階段を上がろうとした。
「凛!」
「!?」
階段の一段目を踏むことすら叶わず呼び止められた。凛のよく知っている、自分の母親の声だ。
化粧を落として小じわが浮かんだショートカットの女性が、一気に凛へ詰め寄る。
「あんたねぇ電話にも出ないで、何してたの!?」
うーわ、めっちゃ怒ってるよ。
よく知っているからこそ、その怒り具合がわかる。これはキレる一歩手前ぐらいのなかなか危険な声だ。
「イヤコレニハフカイワケガアリマシテ。キョウハオソイシ、ネカセテイタダケマセンカネ」
「はぁ?」
わざと声色を変えてみたが、返ってきた反応は更に苛ついた声だった。
「顔なんて隠して、あんた喧嘩とかしてきたんじゃ──」
腕を掴まれて、強制的に腕を下げられる。
うわ、力強っ。
思ってた以上に強い腕力に耐えられず、リュックがボトリと足元に落ちた。
「え…………?」
顕になった凛の顔を見て、彼女は驚きの声を上げる。
「あー…………」
気まずそうに、凛は視線を泳がせた。
「あの、母さん。これには深い訳がですね?」
「凛」
「はい」
怒ってはいない。しかし有無を言わさぬ真剣な声に、凛は思わず背筋が伸びる。
「ちょっとリビングに来なさい」
「……はい」
「お父さん。お父さん起きて」
「んあ?」
リビングのテーブルで頬杖をついてうつらうつらとしていた凛の父親が、母親に肩を揺らされガクッと頭を揺らして目を覚ます。
少し恰幅の良い、どこにでもいるサラリーマンのおっさんだ。普段は眼鏡をかけているのだが、寝ていたのか外して机に置いている。
「凛か?」
言いながら父親は眼鏡をかけ、
「おや? 美人さん」
眼鏡の奥でその目を丸くさせた。
「美人さんじゃないでしょ」
母親が肩を叩いて隣の席に座る。自然と凛もいつもの定位置に座った。
「それで、凛。女の子に、なっちゃったの?」
「…………まあ、そうなの、か?」
頭は重いし、体はバランス悪い気がするし、自分の意思で自由に動かせるが違和感しか無いと凛は思う。
「なんでそんなことになっちゃったの」
「いや、それが俺にもわかんなくて。気がついたらこうなっていたと言うか」
っていうか──
「母さん、俺が俺……凛だってわかるの?」
その言葉に母親と父親は顔を見合わせる。
「まあ、なんとなく?」
「わかるわよね?」
「えぇ……?」
そんな曖昧でいいのか? と凛は眉をひそめる。
「あんたって何かいたずらとか後ろめたいことがあると、自分の部屋に逃げ込む癖あるわよね」
「う……」
そういえば小学生とか子供の頃とか、そんなことをしていた。
「あとはまあ……雰囲気とかじゃないかな」
父親がそうフォローになってないフォローをする。
「喋り方とか、立ち振る舞いとか、声や姿が変わっても、そういう癖は変わらないからねぇ」
「そういう、もんなの?」
「こっちは生まれたときからあんたを見てるのよ。親の勘よ親の」
親ってすごいと、凛は人生で一番そう思ったかもしれない。
「それに、私の若い頃にそっくりだわ!
「そういえば、美鈴は?」
「もう寝てるんじゃない? 受験勉強頑張ってるみたいだし」
美鈴というのは凛の妹だ。
中3の美鈴は今が頑張りどころだ。ちょっとぐらい帰りが遅い兄より自分の勉強のほうが大事だろう。
「やれやれ……凛も帰ってきたことだし、ふああ……寝るか」
「えっ?」
大きなあくびをしながら父親はリビングを出ていってしまった。
「そうねー。私も眠いし、凛もお風呂入って寝ちゃいなさい」
「ちょ、ちょいちょい? 息子が女の子になっちゃったんだよ!? 他にもっとないの!?」
「えー? 特に無いわよ。まあ、明日お医者様に一応見てもらいましょ」
「それだけっ!?」
「なんか痛くなったら起こしなさい。じゃあ、おやすみ」
「ええええぇぇぇ……」
リビングを出ていく母の背を凛は呆然と見送る。
自分が息子だと信じてもらえたのは本当に良かったが、そんな淡白なリアクションをされるとは思っていなかった。そういえば宮下もそんなには動揺していなかったのを思い出し、俺がおかしいのかと凛は首をひねる。
凛が想像していたのは、家中ひっくり返ったような大騒ぎになると、思っていた。
凛がちゃんと無事で──はないかもしれないが、帰ってきた、生きていたことが大事なのだが、まだ高校生の凛にはそこまで気が付かないでいた。
心配しすぎた。とため息を付きながら、風呂に入って自分も寝ようと椅子から立ち上がる。
「あ、そうだ凛」
「……ん?」
立ち上がったところで母親が顔をのぞかせた。
「女の子の体になったからって、エッチなことはしちゃだめだからね」
「……しねぇよ!! さっさと寝ろ!」
一喝すると、笑い声を残して今度こそ寝室に向かっていった。
再び凛はため息を──先程よりも大きなものをつくのだった。
★
「……おお」
風呂に入ろうと、脱衣所で服を脱いで一糸まとわぬ姿になった凛は、鏡に映る己の姿を見て感動した。
「…………おっぱいがある」
どんぶりぐらいの大きさの乳房が自分の胸についている。家族以外のを始めて見た。
これ……触っても怒られないんだろうか。
凛の今までの人生に置いて女性経験など皆無で、見たことはあっても、触るのは初めてである。誰も見ているわけがないのに、左右を確認し、凛は震える手で自分の胸に手を添えた。
「おおおっ!」
新・感・覚!
昔遊んだ水風船の感覚に似ているようで、すべすべとした手触りが感動を与えてくれる。
神様なんて信じてない凛が、この時ばかりは女の体になったことを神に感謝するぐらい、それは感動的なものだった。
調子に乗って指先に力を込める。
「痛った!」
漫画みたいに鷲掴みにしたら、思ってた以上に痛い。脂肪の塊などと言うから、もっと感覚が鈍いと思っていたが、案外繊細なんだなと思う。
少しだけ痛みの残る胸をさすりながら、凛はバスルームのドアを開け、バスチェアにどかりと腰を下ろ
しシャワーのツマミをひねった。
「あー……」
前かがみになって頭からお湯を浴び、心地よさに声が出る。シャワーから受けたお湯が髪を濡らし、水分を含んで垂れ下がった前髪が視界を塞ぐ。
「うへ、幽霊みてぇ」
鏡に映った自分の姿を鼻で笑い、凛は髪をかきあげて後ろに流した。
「髪長っ……こんなんどう洗うんだよ。まあ、適当でいっか」
自分がいつも使っている男物のシャンプーを手にとり、ガシガシと頭を洗い、背中まである長い髪は両の手で擦り込むように洗う。
シャンプーの泡を洗い流すのにに思いの外時間がかかったあと、凛は垢すりにボディーソープを出して自分の体を洗い始める。
「腕も、足も……なんか頼りなくなっちゃったな……」
もともとそんなに筋肉がついている方ではなかったが、やはり男の体だったときに比べると全体的に筋肉がない。力こぶを作ってみてもふにゃふにゃだ。
ダンベル何キロ持てるかな……。
腕、背中、胸、お腹と洗って凛は手を止めた。視線の先は下腹部だ。目を背けていたものがそこにはある。いや、正確には有るものが無い。
16年連れ添ったはずの相棒がいない。玉もない。
つるつるだ。
なんだろう……少し寂しい。
「………………むぅ」
なんというか……自分が始めてみるそこが自分のものというのは不思議な気分だ。それに自分のものなのに妙に恥ずかしくなってくる。
「あんまり意識しないようにしよう……」
優しく洗いつつ、そう口にする。意識すると開いてはいけない扉を開いてしまいそうだ。そうなってしまっては二度と男に戻れない気がする。
泡を洗い流して、凛は湯船に肩まで浸かった。まとめていない髪が風呂の湯に直接浸かるが、凜は気にしない。
「はぁ~……」
なんだか、風呂に入るだけで疲れた。
「俺の体、いったいどうしちまったんだろ」
天井の照明にかざすように手をあげ、それを眺める。ポタポタと滴が落ちてきて顔に当たる。
細くて小さい指だ。それが全然自分のものである実感がなくて、無意味に手を握ったり開いたりをする。ちゃんと自分の意思通りに動く動くそれは、紛れもない自分の手だ。
「元に戻れんのかな……」
口に出し、漠然とした不安が胸を覆いそうになったところで凛は頭まで湯船に沈んだ。
「ぷはっ!」
数秒沈んだあと、顔を出して息を吸い込む。顔を出した勢いで立ち上がると、波打ったお湯が湯船から溢れた。
「よし」
シリアスなこと考えても仕方ない。だから──。
「とりあえず……寝よ」
あくびを噛み殺しながら凛は風呂から上がった。
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