第1話:目が覚めたらTSしてました
──知らない天井がある。
水の中から浮かび上がるような、そんな感覚とともに
女の子の部屋……?
第一印象はそれだった。シンプルな机と桜色のチェアー。机の上には少し前に流行ったマスコットキャラクターの小さなぬいぐるみが置いてあり、壁にかけられたコルクボードには何枚かの写真が飾られている。
外はもう暗いのか、きれいな花柄のカーテンから漏れる光はなく、今が夜だということ知らせてくれていた。
凛には妹がいるが、妹の部屋ともかけ離れている。それに──。
…………なんかいい香りがする。
香水の匂いとは違う。甘いようで、安心するような、表現はしにくいがいい匂いであることは間違いない。
それは枕から発せられるのかと顔を動かそうとした所で──いや、そうじゃないと凛は我に返る。
ここ、どこだ……?
「あー……起きた?」
凛が体を起こすのと、声が聞こえたのは同時だった。
声の方向を見れば、ベッドに背を預けるようにしてふわもこのラグマットに座る少女の姿がある。黒色の綺麗な肩にかかるぐらいのふんわりとしたセミロングに、ワンポイントで一部だけ三つ編みにしている。美人よりの顔立ちで、あんまり笑顔を見せないせいか一見近寄りがたそうな雰囲気があるが、喋ってみると案外気さくな娘であることを、凛は知っている。
「大丈夫? どこか、痛い所ない?」
心配そうに顔を覗き込まれ、凛はドキリとする。そしてふわりと舞った匂いがこの部屋で嗅いだものと同じであることに気づく。
「宮下……さん?」
発した自分の声に、凛は戸惑った。自分の声ではないような声。喉がおかしいのだろうかと、咳払いをする。
「水。あるけど飲める?」
差し出されたペットボトルを凛は受け取り喉を潤す。案外喉が渇いていたのか、500mlの中身を一気に飲み干した。
「あ、ありがと……」
しかし、声の違和感は治らない。喉を押さえると、普段あるものが、無い。そんな感覚に陥る。
「熱は……」
結月は凛の額と自分の額の熱を比べるように手を当て──凛は存外柔らかい彼女の手に硬直した。
「んー……ちょっと高め? まあでも平熱かな?」
えっ? なんか距離近くない……っすか?
凛が知っている限り、彼女と凛は前後の席というだけのただのクラスメイトだったはずだ。ほとんど会話らしい会話もしたことがない。友達未満とも言える関係だ。
そんなクラスメイトの部屋になんで自分がいるのか。
もしかして、記憶を失っちゃっただけで、俺と宮下さんはそういう関係になったって……コト!?
……いやいや。
そうと決まったわけではないし、まずは確認だ、と凛は思う。
「宮下さん、ちょっと、距離近くない?」
「んー……嫌だった?」
「嫌ってわけじゃなんだけど……俺たちただのクラスメイトだったよね?」
「うん」
それが何か? というような表情を結月は浮かべた。
「ごめん。ちょっと記憶無いんだけど、なんで俺、宮下さんの部屋にいるの?」
「あー……」
結月は困ったように苦笑いを浮かべた。
「君、倒れてたんだよ。何があったか、覚えてない?」
「倒れた……?」
そんなに体調が悪かった覚えはない。今日は学校帰りに友達とカラオケ行って、駄弁って……そこからの記憶がプツリと途絶えている。
「ごめん。覚えてない」
「そ。なら仕方ないか」
安堵とも諦めとも取れる声に、凛は不安にかられる。
「俺、もしかして何かしちゃった? それならものすっごい、ごめんなんだけど!」
手を合わせて平に謝る凛に、結月は笑って首を振った。
「大丈夫大丈夫っ。本当に倒れてたのを助けただけだから」
「そ、そっか。ごめん。って何回ごめんって言ってるんだ……」
どこか残念な気持ちをかき消すように、凛は苦笑いを浮かべる。
そして深々と頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
クスリと笑ってくれる彼女に、凛はほっと胸をなでおろす。
「で……俺なんで倒れてたの……?」
「あー……それはね」
彼女は小さなテーブルにあった鏡を手に取ると凛の方に向けてくる。
「こうなっちゃったから、だと思うんだけど……」
「…………………………………………………………………………………………は?」
その鏡に映った顔に凛は絶句した。絶句するというということがどういうリアクションであるかを痛感できるぐらいには、見事に言葉を失った。
鏡に映っていたのは、少女の姿だった。
白に近い灰色の長い髪。ニキビ跡もない白い肌。髭なんて一本も伸びてない顎周りはシュッとしていて、口は小さく、唇は女性らしい厚みとナチュラルな桃色。驚きに見開かれた赤みのかかった瞳まんまると鏡の中の自分を見つめている。
──誰だこれ!? 俺って男だったよな!?
凛の顔は、もっと日に焼けていたし、成長ニキビも浮いていたし、髪は黒かったし長くもなかった。瞳だって薄茶色だったし、瞼は一重だった。唇はもっと薄かったはずだし、顔の骨格だって今映っている姿とはかけ離れた男らしいものだったはずだ。
ハッっと凛はひらめく。
「ははーん? さてはドッキリだな?」
凛はひとまず目の前の現実から逃げ出した。
「最近のアプリはすごいなー!」
「いやそれ、ただの鏡だから。ほら、私も普通に映るし」
しかし回り込まれてしまった。
結月が顔を近づけ、少女と横並びになる。アプリだったら結月の顔も変わっているはずだ。しかしそこには戸惑う見覚えのない少女の顔と、澄ました顔の結月の顔が映っている。
宮下さんの頭、良い匂いがするな……じゃなくて!
「い、いやいやいやいや! どうなってんのコレ!?」
顔をペタペタと触りながらうろたえる。手から伝わる感触が全然違うことが余計混乱させる。
うわ! なんかもちもち!
「え? 俺は本当に俺なの? 俺は私? 俺はどなたで誰が私!?」
「落ち着きなよ……っていっても、まあ混乱するよね」
結月はベッドの横から青いリュックを取り出す。凛はそのリュックに覚えがあった。
「あ、俺の鞄」
「朝霞 凛くん……で、合ってるよね?」
「え? ああ……うん」
「大河校1年の。同じクラスの。私の後ろの席の」
「うん! そう!」
凛の表情が花開くように明るくなり──そのまま首を傾げる。
「でも、俺こんな姿なのによくわかったね?」
「あー……」
結月は視線をそらして、一瞬迷うような表情を見せる。
「その、ごめん。生徒手帳見たの。鞄の中の」
「なるほど」
凛は鞄の中から、生徒手帳を取り出す。そこには確かに男の姿の凛の顔写真が貼られていて、確かに自分は男だったはずなのだと凛は思う。
鞄の中に収めていたノートも開くと、見覚えのある文字と授業内容と落書きが綴られていた。
「やっぱり俺のやつだ。うん。やっぱり俺は朝霞 凛で間違いないよ」
確信を持った物言いに、結月は安心したように息を吐いた。
「よかったー……本当に良かった……」
そこまで? と凛が思うと、その視線に気がついたのか彼女ははにかむ。
「これで全くの他人だったら、私すごい恥ずかしいこと言ってたよ」
「ははは、確かに」
凛は結月と顔を見合わせて笑い──ハッと我に返る。
「って笑ってる場合じゃねぇー……」
頭を抱える。
同時に、鞄から小さく振動を感じる。スマホの振動だ。
鞄から取り出して、時間を見て、短い悲鳴が上がる。
「げ! 0時近いじゃん!」
いやな予感がして、LOINを開く。
「うわぁ……」
親とのLOINが未読20件。そこには当然のごとく親から鬼のような頻度でメッセージと着信が入っていた。
「やっべ、帰らねぇと」
そりゃあ、心配するよな。こんな時間まで帰らないことなかったし。
とりあえず、メッセージに今から帰ると返信しておく。一瞬で既読が付き、着信が入った。
「あ……もしもし?」
『凛!? ねぇ無事!? 今どこなの!?』
「あー……母さんごめん。連絡忘れてただけだから。今から帰るから」
『ちょっとなんなのその声? 第一こんな時間まで──』
お説教が始まりそうだったので、思わず通話を切ってしまった。再び電話がかかってくるが、無視して鞄に押し込む。
帰ったら怒られるだろうなぁ。
少し気が重くなってため息を付く。まあ仕方がない。そりゃあ心配だってされる。
「ってことで、宮下さん。俺、帰らなきゃ。色々とありがとう」
「あ、うん。でも──」
ベッドから立ち上がると、くらりと視界が歪んだ。凛はたまらずベッドに尻もちをつくように倒れる。
「だ、大丈夫?」
心配そうな表情の結月に、凛は空笑いを返す。
「大丈夫。大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだから」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。少しめまいがするが、歩けないほどじゃない。
玄関までいき、凛の見覚えのある靴を結月が靴箱から取り出して置いてくれる。普段、凛が使っている靴だ。
あれ? 踵の所こんな黒ずんでたっけ?
ちょっと不思議に思ったが、まあ良いかと靴に足を通す。……ぶかぶかだ。
よく見たら袖もぶかぶかだし、袖口もずり落ちそうだ。スラックスも当然ながら余っていて、凛は靴紐を縛るとともに余った裾をまくりあげていく。
「はは、俺の今のこの姿見たら母さんたち腰を抜かしそうだな」
おどけたように凛は言う。しかし実際問題として受け入れてもらえるか不安なところはある。息子が急に娘になって帰ってきたのだ。お前なんかうちの子じゃないと追い出される可能性だって大いにありえる。
「もし──さ」
そんな凛の不安を汲み取ったのか、結月は眉尻を下げながらも、安心させるようにほほえみながら口にする。
「追い出されたらうちに来なよ」
「そうさせてもらうかぁ」
玄関を開け、外に出る。閑静な住宅街の一角だ。幸い、そこは凛の知っている場所だった。家からさほど遠くもない。
「……送ろうか?」
「──いいよ。そんな遠くもないし。それにこんな時間に女の子ひとりにできないじゃん」
「君も今、女の子なんだけど……」
「…………」
凛は認めたくなくて口をつぐむ。
「とにかく、大丈夫だから。おやすみ!」
「あ、うん。おやすみ……」
大丈夫かなぁという言葉を背に受け凛は家路についた。
街灯と時折走り去る車のライトに照らされながら、夜の住宅街を歩く。
やや足早になりながら凛は言い訳を考えていた。
なんて親に言えば良いのだろう。気がつたら女の子になってました? 誰が信じるんだそんな素っ頓狂は話。
「……はぁ」
ついたため息は、街の明かりで照らされまばらにしか見えない星空に消えていった。
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