第3.5話 温風

 宿に付いた後、内海は自分一人になった宿の部屋で自重トレーニングをしながら日課の"反省"をしていた。

 『ちゃんと普通にできていただろうか、誰も不快にさせずに過ごせていただろうか』と、そんな事を延々と考える時間だ。

 そして出た今日の反省の結果は『全然駄目』であった。


「……エドさん、エレナさん」


 内海は今日、二人の人間を不快にさせた。

 このような反省は前の世界でも毎日のように行っていた。己の行動を、朝に家を出た段階から一つ一つ見直すのである。

 しかし、今日の考え事はいつもと違った。誰に嫌われたかが明確に分かるようになったからだ。

 今までは『あの人に嫌われただろうな』と結論が出たら『あそこでああすればよかった』という考え事に移るのだが、今回は言語化できないような苦しみが心臓を鷲掴みにしているせいで何も考えることが出来なかった。


「はあ……」


 つまるところ反省ではなくただ苦しんでいたのである。

 これまで想像しかできていなかった"自分へ向く感情"が明確に数値として確認できるようになってしまった。その恐ろしさに震えていた。

 これまでに『もしかすると全人類に嫌われているのかもしれない』と思い酷く落ち込む夜は何度もあった。

 しかしその考えは『確認しようがない』という現実が辛うじて振り払ってくれていた、だが今は違う。全人類は無理だが、出会う人間全ての好感度は確認できる。確認できてしまうのだ。

 このように、異世界への転移によって内海自身の"現実"は既にねじ曲がっていた。

 まるで途方も無く長い時間をかける自殺がもう始まっているような気がして、内海は自我の在り処が分からなくなっていた。


「ぷはぁあ、気持ち良かったあ」


「……ユーゴ」


 夜風でさえも抑えきれない動悸をどう止めようかと悩んでいると、風呂を終えたユーゴが出てきた。


「内海様、次どうぞ」


「うん、分かった」


 気持ちの切り替えを誤魔化すように窓を閉めて着替えを取り出すと、ユーゴがタオルでゴシゴシと髪の毛を拭きながら内海へと語り掛けた。


「考え事ですか?」


「うん。この宿って各個室にバスルームが備え付けられてるだろ」


「はい」


「それってこの世界じゃ標準なのかなって」


 誤魔化しとは別に気になっていた事を素直に話すとユーゴはモゾモゾと翼を拭きながら答えた。


「出来の良し悪しはありますけど、一応どこの宿屋にも付いてますよ。内海様の世界ではどうです? 宿泊施設の個室にお風呂ってあるんですか?」


「個室に風呂…… ある場合が殆ど、かな? あまり外出しないから詳しくは分からないけど」


「ふうん…… "科学"という技術の賜物でしょうか」


「そうだね。湯沸かしに加えて上下水道とか浄水場が適切に整備されてるお陰ってのも大きいと思う」


 そこまで詳しい訳でも無い事をそれっぽく語るとユーゴは「ほへぇ」と間の抜けた声を発した。


「じゃあお湯沸かしの原理が違うだけでこの世界とは大差無いんですね」


「こっちにも浄水場があるのか?」


「浄水場というよりも各建造物の排水設備に浄化の魔法器官が取り付けられているんです。ケグナス以外の国では建築関係の法律で取り付けが義務付けられています」


「へええ、じゃあ浄水場より浄化槽が進化した感じなんだな」


「まさにそんな感じですね」


 着替えを終えたユーゴがベッドに飛び込む。


「……ちょっと、ユーゴ。髪の毛乾かしたか?」


「え? 乾かしてませんけど」


「宿泊施設でそれはちょっと…… 枕濡れそうだし髪の毛痛むのも嫌だろ?」


「でも乾かすの面倒臭いんですよねぇ」


「……臭いの原因になるぞ」


「……内海様、乾かして下さい」


 ゆらりと立ち上がったユーゴが目の前に座る。

 その様子を見た内海の心臓はトラウマを抉られたかのように飛び跳ねた。

 髪を乾かすという事は髪や頭に触れるという事。される側の不快度指数で言えば他に類を見ない事だと内海は考えている。


「え、俺で良いのか? ……じゃなくて俺がやらないといけないの? 今から風呂入ろうと思ってたんだけど」


「私よりも内海さんの方が乾かすの上手そうですし。私、自分でやると適当にガシガシやって終わりですから」


「うわあああ、キューティクルが死ぬ…… 今回は俺がやるから覚えてくれ」


 自分の髪の毛ではないが、乱暴な扱いによって荒れ放題になる様は想像すらもしたくない。

 そんな事を思った内海は抵抗感を押し殺してブラシとドライヤーを手に取った。


「覚えますけど、この先自分でやるかどうかは分かりませんよ」


「頼むから自分でやってくれー」


 こちらに背を向けたユーゴの後ろへ座り、近くのテーブルにドライヤーを置く。


「普段ヘアオイルは?」


「使ってません」


「そうか。じゃあ普通にブラシかけて乾かすからな」


「はーい。というかそれがドライヤーだって分かったんですね」


 意を決して髪に手を触れようとした瞬間、ユーゴが内海の方を見上げた。


「っ! ああ、うん。俺が元居た世界のドライヤーと殆ど同じ形だったから」


「へえー、結構共通点がありそうですね」


「そうだな。じゃあ改めてブラシいきまーす」


「ふふ、お願いします」


 乱暴なタオルドライで跳ね放題になった髪の毛にブラシを通す。

 種族としての特性なのか、こんな扱いでもハリがあり素直にブラシが通ってゆく。

 "美"に関する人間との圧倒的な差に関心とモヤモヤが入り混じる中、内海はひたすらにブラシをかけた。


「……こうやっていると兄を思い出します」


「お兄さんが居るのか」


「はい。彼も内海様のように『傷跡が残る!』とか『髪の毛が痛む!』とか。私の事を心配してくれるんです」


「へえー。『思い出す』って、普段あまり一緒に居ないのか?」


 膝立ちになってユーゴの頭を真上から見つめる。そのまま前髪のブラシを始めると彼は静かに瞳を閉じた。


「私と同じく転移者様の案内役をしているんです。二年ほど前、兄が担当する方が来られてからは一度も合っていません」


「……なんか寂しいな。この世界に居るんなら会いに行ってみるか?」


「いずれは会いたいと思いますけど、その為に急ぐ必要はありません。やっぱり先ずは近場で旅に慣れておいた方が良いと思います。滞在している場所が遠いので」


「んー、やっぱりそうか。追いつけるように頑張らないと」


 あらかたブラシを終えてドライヤーを手に取る。

 散々ブラシをしていたのだが、この段階でもう一度内海の心に躊躇いが生まれた。


「なあ、ユーゴはさ……」


 『俺と一緒に居てキツくないか』。そう言いかけて踏み留まった。

 こんな質問をしてしまうのは内海にとっての"普通の振る舞い"ではないからだ。

 それでも途中まで発してしまった言葉は確かにユーゴへ届いた。

 不自然に途切れた言葉の続きを待つように、彼は沈黙した。


「……数値化の魔法が使えたら、どういう時に使う?」


「……安心したい時、ですかね」


「安心?」


 ドライヤーを起動しながら会話を続ける。元の世界の物と違って静音性に優れているので使用中でも会話に支障は無い。


「私を信頼してくれてるって確信が持てる相手の好感度だけをこっそり見るんです」


 少しだけ俯いたユーゴが体育座りに姿勢を変えて膝に顎を乗せる。内海から表情は見えない。


「私…… きっとそんな使い方ばかりします。知らない人の好感度なんて、怖くて見れません」


「……そっか」


 どのような感情で発した言葉なのか分からないまま、内海は丁寧にユーゴの髪の毛を乾かした。

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