第36話 あらしのようだった
蒼井さんがやけに優しくそう言ったかと思うと、鈴村さんは途端にカバンだけを手に取ってそこから飛び出した。何人かの社員に勢いよくぶつかりながらも謝ることすらせず、必死な形相で駆けていく。
「あ、鈴村さん!?」
私が声を掛けるも、一度も振り返らないまま彼女は消えていってしまう。一瞬の出来ごとに、周りはただ口をあんぐりと開けて見送るしか出来なかった。
「あーあ。お前がいじめるから」
吉瀬さんが半笑いで言う。蒼井さんは肩を回しながら答える。
「失礼だな、いじめてないよ。正しいことを淡々と言っただけ」
「お前、普段菩薩系だから顔が変わると怖いんだよ」
「散々ないいようだね」
二人の軽快な会話を背景に、ボブが頭を掻きながら言う。
「まったく人騒がせな。どうせこんなことだろうと思ったわよ! 自作自演が下手くそなのよ!」
「え!? 自作自演!?」
大きな声を出した私を、驚きの顔で見てきたのはボブを始め蒼井さんたちもだ。ボブは呆れた様子で私に詰め寄る。
「そうに決まってるでしょ! だから監視カメラの映像なんて見られたらまずいと思って逃亡したんでしょうが! どこまで能天気なの!」
「あ、そ、そうか……そうですよね。もうなんか、目の前で繰り広げられたことが凄すぎて脳みそ動いてなくて」
「いじめの被害者になってその犯人をあんたにすることで、同情集めようとしたんでしょ! やり方が子供みたい、あんたたちあんな女をちやほやしてて恥ずかしくないの!?」
ボブは周りの男性たちを睨んで叫ぶ。身に覚えがある人たちは気まずそうに視線を落として反省しているようだった。今回は、ボブに反論できないようだ。
蒼井さんは真面目な表情に変え、周囲に頭を下げた。
「僕の知り合いがお騒がせして申し訳ありません。初めからもう少し対応を考えていればここまで大事にならなかったかも」
「い、いや蒼井が謝ることじゃ……」
「知り合いって言ったってかなり昔のものなんだし……」
「この件は僕から北山さんに報告しておきます」
その締めの言葉をきっかけに、ゆっくりみんながばらけて仕事に戻り出す。今から一日が始まるとは思えない、それぐらい濃くて凄いものを見てしまい、それぞれどこか疲労感に満ちている。
蒼井さんが私に小声で謝る。
「ごめんね。大変だったね」
「い、いえ、私は何も。蒼井さんが結局全部片づけてくれましたし」
「でも、まだまだ足りないくらいだった」
「そんな。十分です」
「安西さんが買ってくれた差し入れ、取り返せなかった……」
「あ、そこですか?」
「この件は上にしっかり報告するし、あんな最後じゃもう出勤できないんじゃないかな? プライドだけは高いからね」
鈴村さんの事をぼんやり思い出す。見かけとか性格とか、私と同じ感じの人かなって思ってた。仲良くなれたらいいなとも思ってた。でも随分と違う世界の人だったようだ。
さんざんな目にあったけど、蒼井さんを始め、周りの人が鈴村さんと私はタイプが違う、と言ってくれたのは今になって思うと嬉しい。蒼井さんが説明してくれていたけど、そんな風に見られていたんだ。
ここに異動してきて色々あったけど(ありすぎたけど)私の味方になってくれる人が徐々に増えて来てて、正直凄く嬉しい。
「おはようございます~」
何も知らない坂田さんが、額に汗を浮かべながら中に入ってくる。少し息を乱しながら、あの可愛らしい癒し笑顔で挨拶をしてくれる。
「はあ、今日、寝坊しちゃって焦りました! 朝一でやらなきゃいけないことがあったのに……」
朝いないなと思っていたら、どうやら寝坊していつもより出勤が遅かったらしい。私は彼女の肩にそっと手を置いた。
「寝坊して正解、坂田さん」
「え? え? なんですか?」
「坂田さんにあんなシーンは見せられないよ」
「え!? なんかあったんですか!?」
自分の机の中にコーヒーぶちまけて荒らして、その犯人を人に擦り付けようとしていたなんて、そんな意地の悪い人間は悪影響です。坂田さんに見られなくてよかった、と心から思った。
その後、騒ぎの内容を上司である北山さんに報告。どう対応しようか、と悩む間もなく、鈴村さんの方から退職希望が出されたらしかった。
『安西さんに一言謝罪をしなさい』と北山さんは諭してくれたそうなのだが(北山さんいい人)向こうは全く折れず、結局その後一度も会社に顔を出さないままいなくなってしまった。嵐のようだった。
蒼井さんは事の始終を彼女のお兄さんに報告。お兄さん曰く、甘やかされて育った鈴村さんは学生時代からトラブルも多く、前の会社でも人間関係で揉めて辞めたらしい。
どう伝えたのか知らないが、蒼井さんは相当きつく警告したらしく、鈴村家では彼女を矯正しようという話になり、実家に戻されたらしい。
鈴村さんがいなくなり、職場は静かになった。結局人手が足りないままなので忙しいのは変わりないが、あんなめちゃくちゃにしてくる子が入るぐらいなら、忙しいままでいいと思っている。
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