第19話 握られた手
「すみません……」
「ごめん、責めてるわけじゃないし、言いにくいのは当然だよね。これは僕が自分に怒ってるだけで……何も出来なかったし。なんていうか……吉瀬が早く駆けつけられたのは本当によかったと思ってる。ただ」
そこまで言って蒼井さんは言葉を止めた。そして、私を見上げながらそっと手を握った。
驚きで体が固まる。握られた手がとても熱く、そこに全身すべての血液が集まるような感覚になった。
ドキドキと心臓が暴れて痛い。彼が一体今、なぜ私の手を握っているのかまるで状況が把握できなかった。
助けを求めるようにちらりと横に座っていた坂田さんを見ると、いつのまにかいなくなっていたのでぎょっとした。消えた! 一体いつ!? 忍者なの!?
「こういう時……自分は本当に駄目だな、って思うんだよ。やっぱりここぞという時に決められない。僕が助けに行けたらよかったのに」
「……は」
「漫画みたいには上手くいかないね」
悲し気にそう見つめてくる蒼井さんに息が止まる。酸素の取り入れ方を忘れてしまったようだ。
悲しみに染められた瞳を見て、何と答えていいのか分からなかった。口を開けては閉じる、を数回繰り返す。
彼が一体どんなつもりで言っているのだろう。言葉だけ聞けば、まるで……
そう思った時、ドアにノックの音が響き、咄嗟に彼の手が離れた。温まっていた手に冷気が触れ、どこか寂しく思う。
「安西さーん、失礼しますね」
扉が開き、医師が顔を出した。その後ろで、なぜかあわあわと焦っている坂田さんが見えて、彼女は廊下にいたのか、と知る。
「検査の結果が出たけど、やっぱり何も問題なさそうだから」
「あ、そうですか……」
「診断書は受付でもらえるので、大丈夫そうなら帰宅で」
「分かりました」
短く説明し、医師はすぐにいなくなったのを見て、蒼井さんが立ちあがる。そして何事もなかったように私に微笑みかけた。
「異常ないみたいでよかったね。帰ろうか、送るよ」
「あ、ありがとうございます。でも私、荷物置きっぱなしで……一度会社に行かないと」」
「あ……そっか……ごめん、気が利かなくて。無我夢中でここに来たけど、少し考えれば分かることなのに。かっこ悪」
蒼井さんが呆れたように片手で顔を覆ったのを見て、なんだかまた胸が苦しくなった。可愛い、とか失礼ながら思ってしまったのだ。心配して慌てて来てくれたんだろうな……。
「いえ、全然大丈夫です! 来てくれて嬉しかったです!」
「ほんと?」
ぱっとこちらを見た顔が、やけに嬉しそうに見えた。私は頷く。
「もちろんです。ご心配おかけしました……」
「ううん。じゃあ、一旦会社に戻ろうか。大丈夫、浅田さんはもういないからね。これだけのことをしたんだから、ちゃんと上に報告して、処分が下るまで自宅待機になってるから」
「そうなんですか……」
「でも、家まで送るから。ね?」
そう笑いかけてきた蒼井さんを見て、さっき手を握られたのは果たしてどういう意味だったんだろう、ともやもやする。私の夢だったらどうしよう、あるいは妄想?
でも、彼に握られた手がその感触をリアルに覚えている。大きくてしっかり私の手を包み込んだ男の人の手を、私は忘れられそうにない。
坂田さんと蒼井さんと三人で、会社に戻った。時刻はもう夕方になっている。
坂田さんは『自分が代わりに荷物を取って来ましょうか』と気遣ってくれたが、それを断って職場へ足を運ぶことを選んだ。これだけの騒ぎになっていればみんな何が起こったのか知っているだろう。そこへ行くのは気まずさもあるが、早めに戻って自分の口から説明した方がいい、と思ったのだ。
やや憂鬱な気持ちになりつつも二人に囲まれた状態でいつもの場所へ足を踏み入れた。
昼間は外回りで人が少なかったが、今は夕方ともあってみんな戻ってきているらしく、たくさんの人が働いていた。私が中に入った途端、誰かがこちらの存在に気付き、仕事をしていた手を止めた。
そこから伝染するように人々が私を見て、慌ただしかった職場には一気に静寂が流れることになる。
……やっぱり気まずい。
そう感じてやや俯くも、黙っていてもしょうがない。私は入り口に立ったまま、まず深々と頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
痛いほどに視線を感じる。それでも気にしていては仕方がないと思い、まずは自分のデスクに歩いて行った。隣の吉瀬さんが、優しい目をして私を見ていた。
「吉瀬さん、ありがとうございました」
「傷は大丈夫?」
「痛みはありますが、異常はないので。本当に、なんてお礼を言えばいいのか」
そう私が言いかけた時、つかつかとこちらに近づいている人がいるのに気が付いた。驚いてみてみると、井ノ口さんが怖い顔をして私の目の前に立ったのだ。
普段から敵意のある目で見てくることが多い彼女だが、今日はまた違う。怒りと不快感、そして悲しみを併せ持った複雑な表情だったので、つい私の体も強張った。
井ノ口さんは正面に立ち、鋭い目で私を睨みつける。
「……怪我したみたいね。大丈夫?」
「は、はい、たんこぶぐらいです」
「それはよかった。浅田さんに襲われた、って聞いたけど、どうなの?」
ストレートな質問に黙り込んだ。あの時の怖い思いが蘇る。
だがここで黙っていてもどうしようもない。職場の人に自分の口から真実を告げることは大事だろう。私は意を決して頷いた。
「そうです」
私が肯定すると、周りの人たちがみんな一斉に息を呑んだ。しばらく沈黙が流れた後、井ノ口さんが震える声を出す。
「……嘘でしょ? そんなの嘘でしょ」
「……え」
「ううん、実際浅田さんはあんたに襲い掛かったのかもしれないけど、無理矢理じゃないんでしょ? 誘ってそうなるように仕向けたんでしょ?」
予想外の言葉に、ただただ唖然とした。それと同時にあまりにショックで、浅田さんに襲われた時よりも悲しみは大きかったかもしれない。
私が? そう仕向けた?
何も言えなくなってしまった私の代わりに、隣の吉瀬さんが低い声で尋ねる。
「どういう意味?」
「だっておかしいじゃないですか! 浅田さんですよ? 優しくて人望があって、そんなことするはずないじゃないですか! 愛妻家だったし……『あの女が誘ってきたんだ』って大声で訴えてたのは大勢の人が聞いています! 私は信じられないんですよ。安西さんが気のあるそぶりでもして浅田さんをその気にさせたんじゃないの? なんでそんな事するの!? 浅田さんがあなたに何かした? これで浅田さんは仕事も家庭も失うかもしれないんだよ!」
必死の訴えに、固まったまま動けずにいた。
ーー私が誘った?
確かに浅田さんはそんなことを言っていた。私が彼の事を好きだと勘違いしているようだった。
私が『仕事を手伝います』って頻繁に声を掛けたから? だって、私はまだ下っ端でそこまで仕事を与えられていない。浅田さんは上司で仕事量も多いだろうから、手伝えることは手伝いたいって思っただけだ。
にこにこ笑いかけていたから? 何がいけないの、不愛想でいるよりいいと思ってた。彼に対してだけじゃない、女性にも男性にも態度を変えた覚えはない。
なのに私が悪いんだろうか? 何も声を掛けず黙々と無表情で仕事をしていればよかったんだろうか。
呆然と立ち尽くし何も動けずにいる私の隣に誰かが立つ。それが蒼井さんだと気づくのに、少し時間を要した。
ゆっくりと隣を見上げてみると、怒りに満ちた彼の表情が目に入った。
「言いたいのはそれだけ?」
普段よりずっと低く冷たい声で、井ノ口さんが一瞬怖気づいたのが分かる。それでも、彼女は再び訴えた。
「蒼井さんだっておかしいと思いませんか? ずっと一緒にやってきた浅田さんですよ! 私は彼を信じたいです。今まで仕事でもたくさん助けてもらったし、優しくて頼りがいのある上司でした。彼がそんなことをするなんて信じられません!」
「君の言い分も分からないことはない。信じたい気持ちがあるのは仕方ないとは思う。でも、それが安西さんを責める理由になってると思う? 彼女は被害者だ」
「計算上誘って騒ぎを起こしたなら被害者じゃないです!」
「被害者の可能性があるってだけで気遣う立場だろう! 真実が分からない外野がうだうだ言うことじゃない。まず第一に、どんな理由があるにせよ、仕事中に力任せに襲って怪我を負わせたことは庇いようがない!」
「それは……でも、一人で倒れて嘘をついたのかもしれませんよ。自作自演だったらどうするんですか?」
「安西さんが何のメリットがあってそんな事するわけ?」
「決まってます。注目を集めたいからです! 被害者ってことになれば、いろんな人からちやほやされてさぞかし気分がいいでしょう」
「口には気を付けろよ」
蒼井さんが即座にそう言ったので、私はその言葉遣いとオーラが普段とあまりに違うことに驚き、逆に冷静になった。
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