第17話 危機





 彩とランチを終え、急いで職場に戻っていた。


 しっかり仕事モードに切り替えねばならない。午後は吉瀬さんと外回りに同行する予定なので、行く前に、もう一度資料をしっかり読み込んでおきたい。


 自分の席に戻り、座って一息つく余裕もなく資料を開いて目を通す。忘れ物がないかも、もう一度確認する。そこでようやく、デスクの隅の方で身に覚えのない小さなチョコレートが置いてあることに気が付いた。


 よくあるキューブ型のチョコレートをビニールで包み、両端がひねられているキャンディみたいな包まれ方をしているチョコだ。大袋に大量に入ってスーパーや薬局なんかで売られている、あれ。それが三個、置かれていた。


 ……誰だろう?


 首をひねって考える。まあ、私に差し入れをしてくれるのなんて、坂田さんか吉瀬さんか、蒼井さんしかいない。でも三人とも、外回りなのかお昼なのか、姿が見当たらない。


 不思議に思いながら一つを手に取り、ビニールを両方引っ張ってみる。と、言いようのない違和感に襲われた。


 なんだか、一度開封したような感じがする。


 もやもやと嫌な気持ちに包まれた。私はすぐにチョコレートをビニールに戻し、また両端をひねっておく。


 他の二個をじっと見ると、どれも微妙にビニールがチョコから浮いている気がした。気味が悪くなり、食べるのはやめ、カバンの中に入れておいた。ここで堂々と捨てるのもよくない気がしたので、家に帰ってから捨てようと思ったのだ。


 ぞくぞくした寒気を背中に残しつつ、とりあえず仕事に集中を戻す。少し経ったところで、私の名前を呼ぶ声がした。


「あー安西さん!」


「はい?」


 振り返って、すぐに心で『げっ』と言った。浅田さんがにこやかに私を見下ろしていたのだ。


 先ほどカバンにしまい込んだチョコレートを思い出す。なんとなく、この人かなあ、って私は思ってしまっているが……真実はどうなのだろう。


 彼からの食事は断り続け、なるべく避けるようにして過ごしているのだが、職場の上司なのでそうあからさまに嫌な顔も出来ないし、接点を完全に失くすのは無理がある。彼は食事こそ誘ってこなくなったものの、相変わらず人がいないところではやたらボディタッチが多い。


「ごめんなんだけどさー、資料室でこの辺探してきてくれないかな? 古いものだけど必要になっちゃってね。多分すぐ見つかると思うんだけど」


「あー、資料ですか」


 仕事に関する声掛けだったのでほっとする。ちらりと時計を見ると、吉瀬さんとの約束の時間まで少し余裕があった。一応準備はもう終わっているし、資料を探すくらいなら大丈夫かもしれない。


「急ぎじゃないですか? 私、これから吉瀬さんの外回りに同行することになっていて……探しきれなかったら戻ってからになるかもしれません」


「明日中でいいから、全然大丈夫だよ」


「分かりました」


「よろしくね」


 私はメモを受け取って立ち上がる。脳内で時間配分を計算しつつ、すぐに資料室へと向かった。






 最近は、多くのデータは電子化されており、ひと昔前に比べると資料室を使う機会はぐっと減ったらしい。それでも、データ化しきれていない古い物は資料室に保管されているので、こうして向かうことも時々ある。大抵は、私のような下っ端が上司に頼まれていくことが多い。


 中はそこそこ広さのある部屋なのだが、資料が保管されている棚がぎっしりあるので圧迫感を感じる。部屋の隅に一つのデスクと二つの椅子、それからあまり使われていないであろうコピー機がひっそりとある。資料室の独特の匂いは、案外嫌いではない。


 私はメモと棚を交互に睨めっこしながら探していく。もちろん、時計を見ることも忘れない。吉瀬さんと同行する約束が一番重要なのだ。


 集中してゆっくり歩を進めていると、離れたところで扉が開く音がした。誰か来たのかな、と特に気にすることなく探し続けていく。


「あ、これかな」


 小さく呟いて手を伸ばしたとき、ぬっと背後から人影が現れた。そして、耳元で生ぬるい息が吹きかけられた。


「見つかった?」


 驚きで悲鳴を上げてしまいそうだった。ばっと振り返ると、浅田さんが至近距離で私を見下ろしていたのだ。慌てて彼から数歩離れる。


「あ、えっと、これかな、と」


「あーこれこれ! あともう一つもあるかな?」


「えっと……」


 彼の視線が、やけに私に恐怖にさせた。上から下まで嘗め回すような嫌な視線だ。男の人の隠し切れない下心を嫌と言うほど感じる。


 この空間で二人きりはまずい。私はとっさに演技する。


「あーそろそろ吉瀬さんと外回りに行く時間で! すみません、残りは帰ってきてから探しますね。明日までには用意しておきますー」


 そう言って彼の横を通り過ぎようとした時、手首を強く握られたので小さな声をあげてしまう。手汗をじっとりかいた不快な手だった。


「チョコレート食べた?」


 どきりとする。やっぱり、あれは浅田さんからの差し入れだったんだ……。


 自分を必死に落ち着かせる。逆上させては何をされるか分からない。とにかく穏便に済ませるんだ。


「あ、浅田さんからだったんですね。まだ食べてないです、家に帰ってから頂きますね」


「そんなー。せっかく買ってきたんだから食べてよ。ほら、食べさせてあげる」


 そう言うと、彼は私の手首を掴んだままもう片方の手でポケットを漁る。出てきたのはあのチョコだ。ビニールの部分を少し咥え、片手で器用に包装を取る。その間彼の息遣いが荒くなってきた気がして、私は全身に鳥肌が立った。


「ほら、あーん」


「……」


 食べられるわけがない。


 手を振り払おうとするが、あまりに強い力でほどけない。引きつった顔で何とか声を出す。


「お、おひるごはん食べすぎて……今お腹いっぱいなんですよー……」


「これ一個ぐらいなら入るでしょ? ほら、開けて。安西さんはさあ、いつも仕事頑張ってて可愛いし、凄いなーって思ってるんだよ。これからどんどん伸びていくと思うし、きっと昇進するよ~。僕が勧めてあげる」


「と、とんでもないです、入ったばかりですし……」


「これは普段頑張ってるご褒美だよ。あーん」


 小さく首を振って拒絶すると、ついに向こうの表情が変わる。笑顔だったのが真顔になり、声が低くなる。


「なんで食べないの? 僕が誘っても全然食事に行ってくれないしさ……照れてるのかな? 照れ屋なのも可愛いけど、素直にならなきゃ。僕は大丈夫だよ、妻にばれなきゃいいんだし、君の気持ちに応えてあげる」


 結婚してたことすら知らない。私はそれほどあんたに興味がない。


 なのになぜこんなに勘違いされているんだ。まるで私がこの男を好きみたいじゃないか。


 がくがく震えてちっとも力が入らない。すると彼はチョコを自分の口に咥え、そのまま私に顔を近づけてきた。口移しで与えるつもりなんだ、と分かった瞬間、あまりの気持ち悪さにようやく大きな声が出た。声と同時に、手でその顔を引き離すようにして暴れる。


「キモイキモイ無理無理! 勘違いしないで、全然違うから! 全く違うから! お願いだから放して!!」


 なるべく穏便に、なんて言ってる場合ではない。このままだと大変なことになる。そう思って力の限り抵抗してみせるが、男女の力の差は大きい。


 浅田さんは口から床にチョコを吐きだし声を荒げた。


「はあ!? 違うってなんだ! 手伝いますとかいつも声かけてくるし、にこにここっち見てただろうが!」


「誰に対してもそうだっつーの! 放して、あなたとか全く好きじゃないから! ほんとに無理無理!」


「この……!」


 怒りで顔を真っ赤にした浅田さんが、私を力任せに押し倒す。後頭部に強い痛みを覚えて目の前がちかちかした。でもそれより、私に覆いかぶさる男の存在の方がずっと大変だ。手足をもがくが、まるで敵わない。叫ぼうとする口を手でふさがれ、くぐもった声しか漏れない。


 まずいまずいまずい。どうしよう、どうしてこうなるんだ!


 完全にぶっ飛んでしまった浅田さんの顔が見える。初日にあれだけ穏やかな笑顔で接してくれたのが、まるで嘘のよう。


 なんで、こんなことに……。

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