白刃
「……あなた、何かの病なのかしら?」
怪訝そうに黒いローブの女が言う。その台詞にリディアは短く笑った。
「さあ、どうでしょう。ていうか、あなたはそれでいいのかしら? そこに突っ立ってる
見下すような眼差しで告げれば、ローブの女はほんの少し沈黙する。それから真っ白な手でフードを下ろすとその素顔をこちらに晒した。
緩やかに波打つ、漆黒の長い髪。水墨画の世界に映える真っ赤な唇。頬に影を落とす長い睫毛とその下の黒々とした瞳。
色味だけ見ればこの世界に溶け込むいで立ちだが、その中で唇の紅だけで彼女の存在を明確にしていた。
「構いませんわ。もとよりわたくしは……日陰の身ですので」
そっと目を伏せ、憂えるような表情をする女に、リディアは舌打ちを堪える。
「マイディア。そんなこと言わないで」
(げっ)
オーガストからネコナデ声が漏れ、彼が女の足元に跪いている。手を取り握り締める様子に、リディアは視線を逸らした。気持ち悪いものを見続ける趣味はないのだ。
「あなたのことはこのわたしが必ず幸せにします」
「ありがとう、オーガスト」
そっと手の甲を撫で、ねぎらう様に気品ある笑顔を見せる女と、陶酔しきった様子のオーガストに、リディアは寒気がした。頬は痛いし、打ち付けた背中も痛い。全身ボロボロの中、この茶番劇を見つめる自分の心臓は激しい怒りでどくどくと脈打っていた。
(この女誰だよ……)
オーガストの愛人で、生前のリディアが脱走を決意させた相手……で間違いないだろう。心臓がそう言っている
問題はこの女性が原作に多分載っていたはずだが、そこまで読んでいないために正体を知らないことだ。
(相手が誰かわかれば、一網打尽にできる)
今ここでオーガストを倒したとして、この状況を見るにボンクラ伯爵を操っているのはまず間違いなくこの女だ。
素性さえつかめれば、リディア・セルティアの物語にピリオドを打てる。そう……リアージュの婚約者として振舞うことも、エトワールと結ばれていく過程を見続けることもなくなる。
ずきりと心臓が痛む。それが白い手によるものでないことくらい、リディアにはよくわかった。だからこそ、どうしても……ここで決着をつけたい。
(黒の領地の章で私は退場する)
婚約は破棄で、私はイリスの元に帰ろう。あそこならきっと……余所者としての自分の身の振り方をゆっくり考えられる。
ぐっと両手を握り締め、リディアは顎を上げて二人を見下ろした。
「盛り上がっているところ悪いのですが、オーガストはもう少し人を見る目を養ったらどうです?」
過分に馬鹿にする口調で告げれば、うっとりした眼差しを向けていた男がぎろりと目を光らせてこちらを振り返った。奴が口を開く前に、リディアが畳みかけた。
「その女が本当に爵位とお金を手に入れたあんたと結婚すると思ってるの? しがない貧乏領地しかない伯爵家の、しかも妻殺しの男と」
ついっと視線を動かし、無表情で岩の玉座に座る女王をひたりと見つめる。
「望んだ相手を誰でも手に入れられそうな美貌の女が」
「当然だ! わたしたちの間には愛がある!」
その彼女の膝元から立ち上がり、オーガストは拳を震わせて訴える。
「愛のために私を殺すわけ」
眉を上げてせせら笑えば、男が目を剥いた。激高するように顔を赤くするオーガストを視界に収めたまま、リディアは片足を引いた。上手くいくかはわからない。なにせリディアには魔法の才能はない。だが、さんざん練習はしたし、力がどう動くのかイメージ出来れば使えると何度も言われた。
一応、雄鶏をひっくり返すことは可能だったのだ。
(怒れ怒れ)
更に大きく、リディアが笑う。
「そちらのレディは……そう、もっと最上級のものを手にしようと企んでいるみたいですけど」
「シルビアはわたしを愛している! 最上級の愛だ!」
リディア・セルティアに語ったよりももっと激しく、盲目なそれを叫び、リディアはその名を骨に刻んだ。
(名前さえわかればどこの誰だかすぐわかる……!)
ブルーモーメントに頼まなくても、リアージュならすぐわかるだろう。
「オーガスト!」
不用意に名を叫んだことを、シルビアが咎めるように声を荒らげた。はっと男が振り返り、二人の視線が絡んだ瞬間。
(今だッ!)
胸の前で素早く両手を合わせて組んだリディアが、渾身の魔法を放った。
どん、と空気を揺るがす音と同時に、リディアのイメージ通り周囲に積もっていた雪が柱のように一斉に舞い上がったのだ。同時にばさばさと木々の葉が揺れて枝に積もっていたそれも撒きあがる。
「!?」
一瞬で真っ白な闇が現れ、その中でリディアが踵を返して走り出した。
「待てッ!」
オーガストの怒声が響くが構ってなどいられない。
(とにかく走って……谷を抜ければ……!)
リディアを探すナインの後続部隊がいるはずだ。いいや、戻ってきたリアージュに会えるかも。
全ては希望的観測でしかないが、何も信じないほどリディアは弱くなかった。
信じられる強さがあった。
だから。
(逃げるんだ!)
その背中を。
「み~つけた」
何者かが切り裂いた。
白い闇の中にぱっと。
鮮烈な赤い雫が舞った。
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