連行
吹っ飛ばされていた時間は五秒くらいだろう。長い滞空時間だ。それを終わらせたのは。
「ようやくみつけた」
がし、と後ろから全身を抱き留められ、耳元で吹き込まれる冷たい吐息に全身が総毛立った。
「お嬢様ッ!」
先程よりも切羽詰まった声が耳を打ち、前を見ればダイアウルフに囲まれた馬車と、よだれを垂らして口を開ける獣の頭を杖で叩き続けるナインが見えた。詠唱の時間が取れず物理攻撃に転じている。
「さあ、愛しい婚約者殿。式場は近くですよ」
ぐ、と伸ばされた手で正面から喉を掴まれて持ち上げられ、リディアはうめき声を上げた。闇雲に手足を動かせば、自分の足がオーガストの鳩尾に突き刺さるのがわかった。
ぐえ、と潰れた蛙のような声がして腕が緩み、リディアは自分の首を掴む手の甲を引っ掻いて夢中で身体を取り戻した。どさりと低い位置から地面に落ち、痛む背中とひりつく喉に苛立ちながら必死に立ち上がる。
(ここに居たら足手まといになるッ)
走り出そうともがく彼女の、その綺麗なポニーテールを、オーガストが掴んだ。酷い痛みが頭部を走り、リディアの目に涙がにじんだ。
「逃がすかッ! お前は来るんだッ!」
再び腕が伸び、必死に抵抗するが頬を張られて力が抜けた。
(痛ったあ……ッ)
すぐに怒りが脳を沸騰させる。ぎり、と奥歯を噛み締め、鉄の味がする唾を飲み込むと腕を掴んでひっぱるオーガストのその手をばしりと叩いて払った。
血走った目を向けられるが、その相手にリディアは喉が張り裂けそうな強さで叫んだ。
「逃げないわ! だから触らないでッ」
怒号と喧騒が響く谷間に、彼女の絶叫がこだまする。ぎく、とオーガストが手を止め、その醜く泥に歪んだ顔にリディアは燃え上がるような怒りを抑えて静かに告げた。
「私に何をさせたいわけ?」
これ以上、被害を出したくない。
(私が騒げば騒ぐだけ事態が悪化する)
逃げれば逃げただけ、この男は追いかけてくるだろう。心臓に絡む白い手は、リディアの覚悟を感じてかただ熱く燃えるようで、鼓動が激しくなる。
ひたりと、こげ茶色の瞳を睨めば、ただの小娘だと思っていた相手の圧力にオーガストがたじろいだ。
「予定どおり……俺と結婚しろ」
(そんなに財産が欲しいわけ)
一体いくらになるのか知らない。胸の中の白い手が荒れ狂い、呪いの言葉を吐き続ける。
「わかりました。ただし条件があります。あのダイアウルフを引かせて」
狂ったようにあちこちに噛みつき、黒い木々がなぎ倒される。剣を振るう騎士の間に、腕や足を抑えてうずくまる者や、どうにかオオカミを蹴り飛ばすナインが視界に入る。善戦しているが……数が多い。なにせこの領地は『魔物を作り出す』領地なのだ。
「あなたの指示で魔物が出てきているのでしょう?」
ひたりを男を見据えていえば、やや腰の引けたオーガストがようやく、張り付いた笑みを見せた。
「そうだ」
「なら止めなさい。そうしたらついて行くから」
「……もう止めた」
嘘だと本能的に悟る。それと同時に、彼の視線が泳いだのをリディアは見逃さなかった。
「……あなたのように卑怯で矮小な人間が、騎士団相手に博打を打てるほど力があるとは思えない。どうせここにダイアウルフを招き入れている者がいるのでしょう? そいつの所に連れて行きなさい。話はそれからよ」
はっきりとそう言えば、オーガストが目を見張った。何故それを知っていると、顔に書いてある。だがそれは原作を読んで得た知識で、オーガストが何者かの力を借りていることを知っていただけの話だ。それが誰なのかまでは最後まで読んでいないから知らないが……直接対峙して見極めてやる。
(前方にリアージュがいる)
後方の自分達に何がおきているのか、部隊が縦に伸びている現状どこまで伝わっているのか定かではない。だが、助けに来るくらいの義理はあるだろう。
「リディア様!?」
ようやく余裕ができたのかナインが杖を構えて魔法を発動させる。光の束にダイアウルフがなぎ倒されるのを見て、オーガストが舌打ちをした。そのままリディアを俵のように担ぎ上げた。
「俺達の式場に彼女がいる」
(女か……)
どくん、と心臓が不規則な動きをして、激しい拍動をリディアは耳の奥で感じた。
(……因縁浅からぬ女だってことね……)
早足で水墨画の森を抜けていくオーガストを尻目に、リディアは獣から遠ざかるにつれて自分が冷静さを取り戻すのがわかった。
(……あんな巨大オオカミ相手じゃ話し合いもできないもんなぁ)
ふと現代日本に伝わる某所のヒグマの惨劇を思い出し、言葉が通じないって怖いと改めて実感する。
だがオーガストならまだ……操れる可能性がある。
がさがさと藪をかき分けて進む男に拉致されて、何をされるかわからない状況だが、頭と胴があっという間におさらばすることはなさそうだ。
今のうちに冷静さを取り戻そうと、ゆっくりとした呼吸を心掛けていると、不意にがさがさいう音が消えて、空気が変わるのがわかった。首だけで前方を見れば、谷間に生い茂る木々の間にぽかりと空いた空間に連れてこられたことがわかった。薄い日差しの下、雪に埋もれた岩が一つその場にあり、真っ黒なローブを着た人間がそこに座っていた。
胸の奥が痛い。でもまだ爆発しそうな怒りは感じない。白い手が探るように……相手を窺うのがわかり、下ろされたリディアも慎重に見定めようとした。
「あんた誰」
だが出てきた言葉は苛立った誰何だった。
「……元伯爵令嬢ともあろう人が、なんという口調かしら」
忌むように告げられた台詞に心臓が激しく痛み始めた。ぎゅっと胸を押さえて背を折れば、対峙していた二人が困惑した様に怯む。
(落ち着け……! リディア・セルティア……あれがそうだってわかったから)
必死に目を閉じて宥めるように訴えかければ、ようやく白い手が心臓に絡むのを止めていく。はあはあと荒い呼吸を繰り返し、リディアはコロセ、と喚く声をBGMにしながらゆっくりと姿勢を正した。
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