やるべきこと①
普段は乾燥地帯に出現するという毒サソリが沼地に現れた件で、オルダリア公爵家騎士団は一時的にその活動をストップしていた。総司令である王太子にその旨を報告した際、何者かが毒サソリを公爵家の平定地に放ったのは間違いなく、それがどういった意図なのか解明するまでは動くなということだった。
他家に割り当てられた平定地にはそういった事象は起きておらず、何者かが……というか旧宰相派が討伐戦の陣頭指揮を執る公爵への嫌がらせを行っているのでは、というのが王党派の見解となった。
(リアージュは主城で作戦指揮と会議……騎士達はリアージュと砦の警護……私はというと……)
相も変わらず食材の下ごしらえと、最近では繕い物が追加された。
もちろん、裁縫など家庭科の授業でしかやったことのないリディアだが、身体の方が刺繍を覚えていたため、ミシンなしでもどうにか縫えるくらいの腕前は持っていた。公爵家の砦は黒の領地の結構な奥地で、補給という名の物資を届けるにも苦労が絶えない。戦闘で破れた衣類を修繕するという意味で、リディアも下ごしらえする野菜が無い時に見様見真似で針仕事をしていた。
そうやって後方支援を続けること三日。
砦の滞在は五日目となり、騎士達はだいぶフラストレーションがたまっているようだった。リアージュ自身は他の砦への作戦支援を行っているため忙しそうだが、他の騎士達は動けないことが不満らしく、訓練場で時折小競り合いが起きたりしていた。
それを平定するのが、騎士達に忠誠を誓われたリディアである……と言えればいいのだが。
「また喧嘩ですか? 公爵閣下がお戻りになられたらきっと心を痛められますわよ?」
武骨に張り出した石造りのテラスから、弱い日差しの下、雪の訓練場で繰り広げられようとしていた乱闘騒ぎを見つめていたリディアは、凛とした声と同時に硬い雪を踏んで現れた存在に、溜息を吐いた。
「エトワール様!」
その場にいた全員の視線が、軽やかに珊瑚色の髪を揺らして現れた神星官に注がれる。次々と騎士達が笑顔になり、広がる和やかな空気の中、エトワールが唇を尖らせて何かを訴えて回る。その様子をリディアはテラスを囲む塀に置いた両腕に頬を乗せて眺めていた。
エトワールは騎士たちのかすり傷を、手を翳して癒しており、リディアには絶対出来ない真似にじわりと胸の奥が痛んだ。
(小説で読んだヒロインそのものね……)
本編と時系列は違うが、確かに彼女は怪我をした騎士たちを癒していた。そこにリアージュが現れて、自分を癒すのに大量の神星力を使ったのに無理をするなと諫めるのだ。
「ミス・エトワール」
(そう、そんな調子で名前を呼んで……)
目を伏せて考えに沈んでいたリディアは、今の声が現実のものだと知ると、はっと目を開けて訓練場へと視線を落とした。
黒の甲冑に赤いマントが翻り、金の飾りや留め具が弱い日差しを跳ね返す。堂々たる足取りでその場に現れた主に、全員が姿勢を正した。
「怪我の具合はどうなのですか?」
張ったわけでもない声が、冷たい空気を切り裂いてリディアの元に届く。
「はい。もう大丈夫です。神星力も結構戻ってきましたから」
確認するように両掌を上に向ければ淡い水色の光が溢れ出て、雫となって落ちて行く。
「その力、大事にしてください」
素早く彼女の掌にリアージュが自分の手を重ね、溢れ出る力を止めようとする。遠目でもリアージュが咎めるような顔をしているのがわかり、それを見上げるエトワールが数度目を瞬くときゅっとその手を握り返した……ように見えた。
「……わかりました。来るべき時に備えますね」
にこっと笑うと水墨画の世界にピンクや黄色が差すような気がして、リディアはゆっくりと身体を起こした。かすり傷程度で彼女に迷惑を掛けるなと、どこか柔らかな口調で叱責するリアージュの声を背中にテラスを後にする。
戻った自室は色味の少ない水墨画の世界で、リディアはそのまま鏡の前へと進み出た。
美しく磨かれた鏡面をじっと見つめる。そこには作業のために適当に麦藁色の髪を結った、顔色の冴えない美人が映っていた。
(──……うん、まだ美人に見える)
頬に手を当て、だいぶ薄くなった傷跡を指でなぞる。
これが残る可能性より低い、とリアージュは自身とエトワールについて話していた。だが今見た様子が語るのは原作通りの展開だ。
(エトワールが怪我をしたか、リアージュが怪我をしたかの違いだけで、起きていることは一緒だ)
原作では、リアージュがエトワールを連れて王太子と謁見し、彼女が聖女だと説明される。それにより王太子と聖女の婚姻から枢機卿を王党派へと誘い込む計画が発動するのだが。
(……エトワールは現時点で聖女ではない……?)
鏡に映るリディアは考え込むように眉を寄せた。
そう。エトワールはまだ『星の加護』を発動させていないのだ。
(どうやってエトワールがその力に目覚めるのかしら……)
考え込みながら鏡の前を離れ、ベッドに腰を下ろす。『星の加護』は多くの人々を護る守護の力として、聖女が使えるものとされている。原作ではリアージュがダイアウルフに噛みつかれ、黒の領地全体から尋常ではないほどの瘴気が溢れ、古代竜の内の一つ……ニヒュムが主城付近に召喚されかかったのだ。
それを止めたのがエトワールの『星の加護』だった。
ということはこれからどこかでニヒュムが召喚されるような出来事が起きなくてはいけない。
(鍵になるのはダイアウルフとそれを引き込んだオーガストよね……)
オーガストはまだ見つかっていない。毒サソリによる計画が失敗した以上、彼は自分の悪事が露見することを恐れてなりふり構わず古代竜の召喚に踏み切るだろう。
そのオーガストの計画に、自分はどこまで組み込まれているのか。
(贄にしてしまったら私の財産は手に入らない。どこかで結婚するかしないと)
原作でリアージュを殺そうとしたのは、元宰相派の目の上のたん瘤だからというものだったが、今はそれ以上にリディアの婚約者だから、というのが大きい。リアージュがいる限り、リディアの財産は手に入らない。
(私、やっぱり囮として優秀なんじゃない?)
どきりと胸が高鳴り、元々の役割を思い出す。そもそもリアージュがリディアを黒の領地に連れてきたのはオーガストを釣り出すためだ。それならば、殺される心配のない自分がオーガストを釣り上げて、後ろに控えるリアージュがそれを捕まえればいい。
エトワールが聖女として目覚めるためのイベントが気になるが、すでにリアージュとエトワールが出会っているのだから、あとから起きたって問題ないだろう。
やっと自分の出番が来たと気付き、きゅっと両手を握り締める。とにかくオーガストをつり出すために行動を起こさなくては、とベッドから勢いよく立ち上がり、早足で部屋を横切ると扉を引き開けた。
「きゃっ!?」
「っと!?」
ちょうどノックをしようと腕を上げたリアージュの胸に、リディアは飛び込む形となった。
「なんだ? ずいぶん積極的な出迎えだな?」
揶揄うような口調に、彼の赤いマントに手を添えていたリディアが引き攣った顔で彼を見上げた。
「リアージュ……」
「……久しぶりだな」
ふっと薄明色の瞳が柔らかく翳り、見上げるリディアはお腹の奥が何となくもにゃもにゃする。
「たったの三日ですよ」
思わずそう答えて視線を逸らせば、リディアの身体に腕を回したリアージュが「そうか?」ととぼけたように答えた。
「俺には長く感じた」
「……近くに誰かいるんですか?」
彼の身体の向こう、廊下に視線をやって皮肉気に尋ねれば、手袋を脱いだ温かな手がリディアの顎と頬に触れこちらを向くよう促される。しぶしぶ顔を向ければ、乱れた前髪の下から柔らかく微笑んだリアージュがこちらを見下ろしていた。
「誰もいなくても愛する婚約者の真似事くらいしてもいいだろう」
(よくないっ!)
どれだけ腹立たしい発言をしても、この男はイケメンなのだ。端正な顔立ちに微笑まれて抗えるのは心から愛する人がいる幸せな人か、僧侶くらいだろう。前世では痴情の縺れから刺されたし、今世でも徳を積んでなどいない。すなわちリディアが抗えるわけがないのだ。
「離してください」
ぐいっと胸元を押すが、硬い甲冑はびくともしない。
「嫌だ」
「痛いんです、金属が」
「……なるほど」
するっと腕が解かれ、リディアは腹の底から溜息を吐く。今さっき、エトワールとのやりとりを見たばかりなのだ。他の人のものになる男に、これ以上感情を乱されたくない。
乱された果てが、胸に包丁が刺さるエンドなんてまっぴらごめんだ。今世では長生きするのだ。
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