彼と彼女の関係②
その一言は、意外にもリアージュの何かに突き刺さったようで、彼は唖然とした表情でリディアを見た。
「……俺のこと?」
怪訝そうなその様子に、リディアはこれ見よがしに紅茶のカップを持ち上げて温くなったそれを喉に流し込んだ。
「私たちの婚約が破棄になった後のことです。エトワールさんは、勇敢にも公爵閣下を身を挺して護りました。騎士たちも医療班も砦の人間も皆、彼女を褒め称えてます」
大事な自分たちの主が傷つかずに済んだのは、華奢で可憐な乙女が身を挺した結果だなんて、砦中に広がるのは一瞬だろう。
それと対比するように、現婚約者の無能っぷりも。
(まだ誰も何も言わないけど……)
明日には何となく……冷めたような眼差しで見られること間違いない。
(そうなったら本当にセインウッド卿の砦でお世話になってもいいかも……)
ぼんやりとそんなことを考えて、紅茶の水面を見つめていると、不意に温かな手が伸びて化粧もできなかった肌に触れた。
はっとして振り返れば、目を見張るほど傍にリアージュの端正な顔がある。
「閣下!?」
「君は本気で言ってるのか? 砦の人間も騎士団も俺も……ミス・エトワールに惹かれていると?」
薄明色の瞳に、金色の光がじわじわと滲んでいく。声音は静かで、先程よりもずっと冷静だったから、リディアはなんだか……ものすごく……不気味な思いを隠しきれない。
「違うのですか?」
それでも引けず、その瞳を見返して言えば彼は一瞬……彼はとても間抜けな顔を晒した。それから、ばっと口元を片手で押さえて俯いた。まるで今にも吐きそうな様子に、リディアは困惑する。
「閣下? 大丈夫ですか?」
見れば口元を抑える手も肩も小刻みに震えている。まさか、リアージュ自身もサソリに刺されていたのだろうか!? 遅効性の毒が身体を巡っているとか!?
「リアージュ!? しっかりしてください! 今すぐ治療師を呼んで」
リディアは慌てて立ち上がろうとするが、その腰を男は手を伸ばして抱き寄せると、身体を倒し、彼女のお腹に顔を埋めた。
「リアージュ!?」
悲鳴のような声がリディアの喉から漏れた。だが全く気にする様子もなく、彼は伸ばした両手で彼女をきつく抱きしめた。
「……言っておくがな、ミス・リディア」
急に改まった様子でリアージュが告げる。くぐもった声が身体に響きどうにも落ち着かない。困惑を堪え、リディアは返答の代わりに彼の柔らかな黒髪に指を潜らせた。それに応えるように男は顔を上げ、彼女の膝を枕にするように、とごろっと寝返りを打ってソファに横になった。
「我々は誰も……ミス・エトワールに魅了されてはいない」
(……って思うわよね)
半信半疑の眼差しで見下ろせば、ふっと彼の目元が緩む。
「確かに彼女は命の恩人だが……だからといって自分の婚約者に、とあっさり望むようなことはしない」
きっぱりと告げるその口調に、リディアはかすかに目を見張った後、ふいっと視線を逸らした。
「……そうとも言い切れませんよ」
運命は変えられない。リアージュはエトワールと結ばれる。これはもう決められたことなのだ。
「言い切れる」
相手も頑として主張を曲げない。舌打ちを堪え、リディアは真っ直ぐにリアージュを見た。
「まあそうですね。ただあなたを助けただけでは婚約者にはなれないのかも。ですが、今後どうなるかはわからないでしょう?」
物語の中で、リアージュがエトワールに惹かれたのは何も大怪我を治してもらったからではない。その後、彼女の人となりを知って惹かれていくのだ。
「出会った以上、心から愛する人に……なる可能性だって無いとは言えないわ」
すまして告げれば、冷めた調子でリアージュが鼻を鳴らすのがわかった。
「可能性、ねぇ」
目を閉じ、溜息を吐く彼が手を伸ばし、リディアの頬に触れる。すっと、正確に指先が頬にうっすら残る傷跡をなぞって落ちる。
「この傷が残る可能性より低いと思うけどな」
「ゼロじゃない限り、否定はできませんよ」
膝に頭が乗っている所為で身動きの取れないリディアはソファの肘掛に凭れかかったまま、天井を見上げて目を閉じる。瞼の裏には原作で読んだ情景が切れ切れに浮かんできた。
討伐戦を終えて、治療のお礼をしに星教会を訪れたリアージュがエトワールを見つけた時や、聖女としての力を隠し切れず困惑する彼女に支えを申し出た場面。王太子とエトワールの仲を進展させなくてはいけないのに笑顔の彼女に魅了され、健気さや優しさに触れてどんどん独り占めしたい欲求が溢れていく様子。
そうして徐々に距離を詰め、最終的にリアージュと彼女は結ばれるのだ。
(……今この段階では何とも言えない……)
ふっと、目を開け、リアージュがエトワールに告白するシーンを思い描いた。
彼は王城のパーティを一人抜け出して、人気のない一棟の最上階にいた。空には零れ落ちそうなほどの星が光り輝き、見上げるリアージュはそこにエトワールの姿を思い浮かべるのだ。
彼は聖女エトワールと王太子の結婚を後押しし続けていた。彼女の後ろにいる枢機卿を味方に付けるためだ。だが今は……。
苦し気なリアージュは誰かが塔に上って来る足音を聞いて振り返る。そこには肩で息をするエトワールが立っていて。
美しいドレス姿のまま、彼女は裾を抱えて走り出し、彼の腕に身を投げながら叫ぶのだ。
──あなたを愛してるんです。
「リディア?」
不意に名前を呼ばれ物思いから覚める。視線を落とせば、少し呆けたような自分の姿が、薄明色の瞳に映っていた。
「──……とにかく、私とあなたは契約上婚約をしているだけなので……もし、心から愛する人が現れたら早急に言ってくださいね」
そっと告げて彼の頭から自分の太ももを取り返す。ふっと、彼の手がリディアを掴もうとして、空を切った。
「今、俺の婚約者は君だろう?」
スカートを翻し、共用スペースから出て行こうとする彼女に、身を起こした男が静かに告げる。それに、リディアは振り返って笑った。
「愛していない、ね」
それから彼女は速足で近くの自室へと真っ直ぐに進むと「おやすみなさい」とだけ告げて中に飛び込んだ。何故か痛んだ心臓に気付かない振りをして。
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