驟雨の夕闇
一転俄かに掻き曇り、篠突く雨が降り注ぐ。
夏の長いはずの夕暮れは、真っ黒な雲に覆われて墨を流したような闇が辺りに満ちていた。その雨の中を、コートニー伯爵、オーガスト・ブレンドは足を引きずるようにして歩いていた。
(何故だ……)
何故バレた。
先代伯爵令嬢のリディア・セルティアは自分が結婚を申し込んだとき喜んでいるように見えた。そりゃそうだろう。これで長年暮らした屋敷から出ていかなくて済むのだから。まあ、そう仕向けたのはオーガストだったが。
彼は万年金欠だった。血筋を辿れば高貴な家と繋がりがある。彼の父親はそのことを自慢にし、それを担保に金を借りてはギャンブルで生計を立てていた。晩年は酒の飲みすぎで身体を壊して亡くなったが、借金はなかった。
カードの腕がよかったのだ。
だがその息子のオーガストにはその才はなかった。借金だけが膨れ上がり、高貴な家とのつながりだけが彼のプライドになった。俺の血統はとてつもなくいいのだ。だからそこらの平民みたいにあくせく働くなんてまっぴらだ、と。自分でできることを何一つ探さずに、ただただ自分が作り上げた不幸を嘆くだけだった。
その彼に、その女は近づいてきた。
彼女は「自分は落ちぶれた貴族の娘だ。一緒に返り咲いて、社交界に目にもの見せてやろう」と美しい顔を悲しみに曇らせて告げた。
手始めに、と彼女は自分が持つ特殊な力でオーガストの親戚を呪った。
伯爵は馬車の事故であっさりと帰らぬ人となり、オーガストの元に爵位が転がり込んできた。
オーガストは死ぬほど驚き、この世の春がきたと幸せを喜んだ。ただ誤算だったのは亡き伯爵自身が築き上げた遺産は全てリディアへと相続され、二束三文にしかならないような領地と屋敷のみがオーガストの取り分となったことだ。
こんなはずではなかったと、青ざめるオーガストに女は囁く。
私たちの幸せのために、あなたは彼女と結婚し、そして遺言状を書き換えたら殺せばいいと。
美しい、悲劇の女。彼女を救えるのは自分だけ。新しい人生の始まりだった。
(だがそれも……あの女の失踪で駄目になった……)
ぎり、と奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、腹の奥が沸騰しそうになる。あろうことか、リディアはあの、オルダリア公爵と婚約したというではないか。
傘もささず、黒いコートを着たオーガストがふらふらと、石畳の道を行く。ほとんどの人間が雨を嫌って屋内に退避する中、雷鳴を音楽に行く当てもなく彷徨う。
脳裏に浮かぶのは艶やかな笑顔で笑う美しい愛人の姿だった。
──オーガスト、愛してるわ。
そう言って潤んだ瞳でこちらを見上げる、黒髪の彼女にオーガストの胸が震え欲望が腹の中を渦巻く。
瘧にでも罹ったかのように身体がガタガタと震わせながら、オーガストは街を行く。
彼女の愛と信頼に応えなければ。あの美しい人をこれ以上困窮の中に置いてなどおけない。
金のためにどうしてもリディアを手に入れねばならない。彼女の動向を探り、一人になった時に攫う。だがあの公爵が果たしてリディアを一人出歩かせるだろうか。
両手を握り締め、とうとう身体を叩くほど強く降り始めた雨の中、息苦しさを感じていたオーガストは黄色いガス灯の下に立つ真っ黒なマントの存在を見て息を呑んだ。
その黒マントの人物はゆっくりと、スポットライトのようなガス灯の明かりの下を抜けて近づいて来る。
「ロード・コートニー」
軽やかな声が深くかぶったフードの下から漏れ聞こえる。身体の震えはより一層強まる。だがそれと反比例して高揚感が膨れ上がってきた。夏の雨とはいえ、打たれ続けた所為で紫色になった唇を震わせる。
「マイディア……」
外では彼女の名を呼ぶことを許されておらず、精一杯の愛情を込めてそう呼べば、フードの下から雨に濡れて艶やかに光る黒髪が弾むように揺れて、彼女が顔を持ち上げる。
背丈はオーガストより少し低い。フードから覗く顎は細く、赤い唇が親し気な笑みを浮かべていた。
「ずいぶんと傷心して……計画は無駄になってしまった?」
すいっとフードの人物の手が動き、赤いマニキュアの塗られた白く細い人差し指がオーガストの唇に触れる。
黙り込むオーガストの、焦げ茶の瞳が歪む。だがそこに映るフードの人物は何故かにっこりと微笑んだ。
「やはり……ダメなのね」
ぞわっと身体中を虫が這いずるような悪寒が走る。彼女に見切りをつけられる……!
「ま、まってくれ。あとちょっとなんだ」
懇願し、オーガストは青ざめた手で女の両手を握り締めた。
「でも……頓挫しそうなのでしょう?」
悲し気に、フードの下の彼女の黒い瞳が歪む。ぎゅっとオーガストの手を握り返し、それから離そうとする女に、彼は夢中で叫んでいた。
「次の黒の領地での魔物討伐戦で……オルダリア公爵を亡き者にする」
きっぱりと、オーガストが告げた。
「そうすれば……俺は爵位とあなたに相応しいお金を手に入れられる」
夢見るような、囁く口調に、女は黒曜石のように真っ黒な目を見開き、それから赤い唇を弓形に引き上げた。
「本当に?」
「そのために……もう一度……力を貸してほしい」
あっけなく、伯爵を殺したように。
「ああ……オーガスト」
はかなげに微笑んだ彼女が彼の腕の中に倒れ込み、甘えるように首に腕を投げた。
「いいわ。私はあなたに全てを捧げるわ」
その台詞は、男の興奮を最高潮にまで高めた。彼が噛みつくようなキスをする。答えるように女の腕がより深く……蛇のように彼の首に絡まった。
何もかも奪い取っていくような口付け。
石畳を打つ雨の音が、そんな二人を称える拍手のように聞こえた。誰もが二人を祝福している。陶酔するオーガストを絡めとりながら、フードの人物は聞こえない笑い声をあげていた。
夕闇が、より一層濃くなるようだった。
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