婚約式①
嘘でしょ、というのがリディアの偽らざる感想だった。
目が覚めてから一週間が経過し、その間彼女はナイン、タイニーと共に王都中を駆け巡って婚約式のための準備を進めてきた。
この国での貴族達は、自領に専属の騎士団を持っている。公爵家で許されている騎士の人数は五十で、現在は王都の治安維持に交代で参加していた。その彼らに、自分たちの主の伴侶をお披露目し、忠誠を誓ってもらうのが婚約式だ。
五十人の騎士が正装し、壇上に立つリディアへと剣を捧げる。そのイベントの為に、屋敷に併設された宿舎と大きな鍛錬場に儀式のための祭壇や飾りつけ、更には参加者の桟敷席なんかが用意されることになる。その準備に加えて、騎士達への激励のスピーチや衣装、メイク、宝飾品などの選定、用意されるご馳走のメニュー、招待客のリストなどやることが山積みだった。
屋敷中がひっくり返ったような大騒ぎの今、人や物の出入りが多く、リディアとどうにかして結婚しようとたくらむオーガストが接触するには絶好の機会に思えた。
なのに彼は動かなかった。
(解せぬ……)
衣装やら小物やら書類やらが散乱した寝室のソファにリディアはぐったりと横になっている。
心臓に絡む白い手は沈黙し、舞踏会で感じた悪寒とブラックアウトもない。ただただ忙しく日々が過ぎていくだけの現状に、リディアの不安は増していた。
このままリアージュと婚約するのはまずい。
何故なら、討伐戦で彼は彼自身の運命と出会うのだ。
聖女、エトワール。
(……婚約式で騎士達に忠誠を誓わせた後、破棄するのってできるのかしら……)
一抹の不安が胸を過る。
そもそもリディアとリアージュの婚約は、取引の一環でしかないのだ。それも、リアージュがリディアの退路を断つためにワルツを三回申し込んだことが原因の。
リディアはエメラルドのセットを対価としてブルーモーメントに依頼をしただけだ。婚約する気なんてさらさらない。それに依頼だってどうなっているのか。
(まあ……心臓が落ち着いているから、現状維持でいいんでしょうけど……)
絡む白い手が望むのはオーガストの破滅だ。今のところ彼は順調に破滅の道を進んでおり、生前のリディアも納得しているのだろう。
だが彼が討伐戦での魔物強化の邪術を使う、というフラグは折れていない。その証拠を掴むための……呪術師とのつながりを炙り出すための措置が今やってる『婚約式に向けて慌ただしく過ごす元伯爵令嬢』なのに、彼は一向に食いつかない。
どころか行方が知れないという。
護衛の騎士だったフィフスは彼の行方を捜し、屋敷を空けている。彼はオルダリア騎士団の中でもトップクラスの実力者で、騎士団長でもあるリアージュに匹敵するほどの腕前だという。その腹心を調査に向かわせている時点でことの重要さが伺い知れるのだが、結果が付いてこないのでは意味がない。
そう。婚約式だ。
(すべては公爵閣下が決めたことで……上手くいかないのは私の所為じゃない)
リディアとリアージュの婚約は全て、彼がおぜん立てしたものだ。だったら破棄の手順もしっかりとイメージできているだろう。できてないと困る。
(……まあ……どう足掻いても破棄にはなるんでしょうけど)
婚約式をしようが、騎士に忠誠を誓われようが、黒の領地でエトワールと出会った瞬間、リアージュの心は彼女を求める。それがこの物語の根幹なのだ。だからきっと、間違いなく破棄を申し渡されるはずだ。
山のように積まれたドレスに宝飾品。それからスピーチの原稿を横になったまま眺めながら、リディアは何となく……寄る辺ない気持ちになった。関係の悪化していた使用人たちは、リディアが倒れた時の主の様子を見て彼女を受け入れたようだ。
リディアが意識不明だった五日間、主様は死んでいるようだったと、ナインに言われたのだ。主様は心からミス・リディアを愛しているのですね、とうっとりした様子で言われて開いた口が塞がらなかった。
(彼が心配していたのは自分の婚約者が突然死んで、オーガストに糾弾されるかもしれないことでしょうに)
今死なれては困るんだと、そういうことだろう。
だが使用人たちは違うようで、無視を貫いていた彼らは見事なまでの掌くるーを見せていた。
「お嬢ちゃん、また招待状が届いてるぜ」
そんな中、態度が変わらない者もいる。
タイニーだ。
彼女は『何故侍女をやっているのだ!?』というくらい口が悪い。
実際、リディアが読んだ原作でも、エトワールが他の令嬢から蔑んだ目で見られて、ねちねち嫌味を言われている現場に颯爽と現れ、彼女たちを大声で罵倒したくらいだ。そんな彼女が『リディア
今も嫌そうな顔で手に持つ手紙の束を睨んでいる。
「どうせお嬢ちゃんと主様の婚約式や、その後の結婚式に呼んで欲しい、下心見え見えの相手からだろうけど」
むくりと身体を起こすリディアの側にどさどさと手紙を落とし、タイニーが腰に手を当てて彼女を見下ろす。
「っていうか、お嬢ちゃん、なんかやつれてない?」
日に日に迫る婚約式とその後の破棄を考えて胃が痛いとは言えない。だから誤魔化すように部屋の中を見渡して見せた。
「そりゃそうよ。あの、オルダリア公爵との婚約よ? 周囲からなんて言われるか……」
「ああ、女の嫉妬な」
にやり、とタイニーが笑う。双子の姉のナインが恋愛脳で屋敷内の恋愛事情から社交界のお付き合いまで把握しているのに対し、タイニーはあまりそういった方面に興味がなさそうだった。だが基礎知識はあるようで、招待状に視線を落としてふんっと鼻で笑った。
「一応、ドーズが中身を検めてるから、剃刀レターとかは先に抜いてるけど、そんな陰険なことをしてくる奴よりも、笑顔で近づいて来る奴の方がよっぽど手ごわいよな」
そう言って豪快に笑うタイニーに、リディアは嘆息した。
「どっちも嫌ですけど」
「ごもっとも」
「……っていうか、入ってるの!? 剃刀レター!」
そんなバカなと目を見張れば、タイニーがきょとんとした顔であっさりと告げた。
「もちろん」
その一言に、リディアは更に更に婚約式が憂鬱になるのだった。
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