リディア、直接対決する②


 ひび割れた喚き声に、リアージュがゆっくりと瞬きをする。それから呆れたように肩を竦めた。

「申し訳ないが、ミス・リディアの後見人はすでに彼女の叔母のクライチェク伯爵夫人が引き受けてくださっている。リディアの立場が不安定だったのは、事務弁護士に問い合わせればすぐにわかった」

 彼女の財産に権利を持つ人間を増やしたくなかったことと、全ては結婚してしまえばどうとでもなると考えていたオーガストの怠慢が、リアージュに付け入る隙を作った。

「法的な手続きも済んだし、彼女の財産は伯爵夫人と管財人の監視の下で正しく運用される。たとえ夫でも、手出しはできないだろうな。ああ、わたしはもちろん、それで構わない。妻が自分の采配で使える額があるのは非常にいいことだと思うからね」

 きゅっと、リディアの手を握り締めたリアージュがこちらを覗き込む。それらすべてをあっという間に終わらせて事後報告してきた時を思い出して、リディアの頬が引き攣った。

 だが笑顔を崩すわけにはいかない。

「寛大な処置、痛み入りますわ」

「わたしの妻になるべき人間が不利になるような真似をするわけがないだろう?」

 にっこり笑って、リアージュは怒りからなのか、絶望からなのか、身体を震わせるオーガストを冷ややかに一瞥する。

「そういうわけで、コートニー伯爵。わたしが彼女を幸せにする。余計な干渉を続けるつもりなら……」

 どうするのか、の部分を言わずにリアージュが笑顔で無言の圧を掛ける。

 ふらり、と傾いだ身体を手すりに預け、茫然自失となるオーガストを置いて、二人は静かにバルコニーから中へと戻った。

 漂う喧騒の中、二人は手を繋いだまま無言で舞踏室を歩いた。不意にぎゅっと握る手に力が籠もり、まとまらない思考の海に落ちていたリディアがはっと我に返った。

 先刻とは打って変わって真剣な表情のリアージュが目に飛び込んできた。

「これで奴の退路は断たれたはずだ」

 彼の言う通り、オーガストにはもう、望むだけの金を得る手段はないに等しい。

(だからこそ……囮である私の出番になる)

 冷え切った薄明色の瞳と、引き結ばれた唇を視界に収めながら、リディアは気合を入れ直した。

 大丈夫だ。あのプライドばかり高く金が欲しい男がリディアに対してなんの嫌がらせもしないとは思えない。きっと仕掛けてくる。

 色の失せた、仮面のような表情で舞踏室を歩くリアージュにリディアはできる限り優しい声で言った。

「心配しなくても大丈夫。きっとうまくいきますわ」

 計画通りにことは進み、黒の領地の討伐戦前にもしかしたら片が付くかもしれない。

 その、やや掠れて、でも微量に笑みを含んだ声に、ぴたりとリアージュが足を止める。ぐっと、繋いでいる手に更に力が籠もり、手袋越しでもその熱さを感じて少し驚いた。

 数秒の沈黙の後、リアージュが掠れた低い声で告げた。

「──……女性一人を危険な目に合わせるかもしれないのに、枕を高くして眠れるようなクズではないんでね。心配くらいする」

 その切羽詰まったような台詞にリディアは目を瞬いて首を傾げた。

(もしかしてリアージュの心配って……)

 そこでようやくリディアは気が付いた。

「閣下が心配されているのは、私の身にどんな危険が迫るのか判じきれないことですか……?」

 恐る恐る尋ねれば、じろりと横目で睨まれる。

「当然だろう。君を囮にするべく……相手を挑発したんだから。その結果が最悪にならないよう、色々考えるのが依頼された我々の仕事だ」

「はあ……」

 囮となった本人自体はそんな緊張感を持っていない。オーガストが発動した呪いはすでに解呪しているし、そう簡単に素人の術にかかってたまるか、というのが本音だ。

 だが手を握る相手はどうも……不安の様だ。

(私たちは契約上の関係なんだから、気にしなくてもいいのに)

 自分の身くらい自分で守れる。さっきだってリアージュが来なくても金的を蹴るくらいはしていた。

 やれやれと眉を下げ、リディアが胸を張って見せた。

「問題ありません。私は彼の呪いを受けて、多少元気をなくした程度で済んでいます。一瞬で命を奪うような……そんな高等な呪術を、単なる伯爵ができるわけないじゃないですか」

 ひらひらと手を振る彼女をじっと見つめ、リアージュは軽く舌打ちした。まるでリディアの楽観をあざ笑うように。

「忘れたのか? 君は一度命を狙われている。俺が心配しているのは馬鹿な素人魔術ではなく、プロの刺客だ」

 ぞくり、と何故か急に背筋が粟立ち、心臓が不安に高鳴り出す。ぎゅっと冷たい手の感触を覚えて、リディアは目を瞬いた。

(ホテルに潜んでいた奴か……)

 普通に考えるのならあの刺客はオーガストが送ったものということになる。

 だが疑問もあった。

 向こうは刃物を構えていた。頬に傷が付いた程度だったので殺す気はなかったのだと思っていたが、リアージュが来なければ競り負けていたのは事実だ。あのあと……刺されて殺されていた可能性は消えない。

(ナイフで脅して自分をオーガストの元に連れていくための物だと思っていたけど)

 まさか別の何者かがリディアの命を狙っている……とか?

「……オーガスト以外に命を狙われる心当たりはないんですけど」

 半眼で答える彼女に、はあっとこれ見よがしに男が溜息を吐いた。

「まあいい。あの刺客が何者だったのかは俺が調べる」

 言ってくるりと舞踏室を見渡し、彼女の手を引くと植木鉢の側のベンチに座らせた。人目が届きにくいのか周辺には誰もいなかった。

「ここで待っててくれ。馬車を手配してくる」

 目的は達した。あとはもうここに留まる必要もない。

「わかりました」

 一つ頷いて、大股で去っていく偽の婚約者の背中を見送ると疲労がじわじわと腹の底から込み上げてきた。

 頭の中では色々な事柄が渦を巻き、さながら万華鏡のようにくるくるしている。心臓は宿敵に会った余韻で鼓動を早め、胸の底では呪詛のようにコロセという声が響き渡っている。

 ふうっと溜息を吐いて天井を見上げ、リディアは目を細めた。

(オーガストは絶対に私の財産を諦めない。だって……一番手っ取り早い手段だもの)

 私が死んだ場合、その財産は叔母のクライチェク伯爵夫人が適切に管理をすることとなる。婚約式を終えれば公爵家も口出しができるようになるが、リアージュがリディアの財産目当てでないことは彼の屋敷の規模と領地、事業を考えればすぐにわかる。

 つまり、この状況では完全にオーガストは詰んでいる。

 リディアの財産に口出しできる状況ではない。

(私が……オーガストと結婚すれば話は別だけど)

 なんとかしてリディアを手に入れようと考えるのなら、オカシナ魔術を使ってくる可能性は十分に考えられた。例えば『魅了』とか。

 だが流石に今すぐ何かを仕掛けてくるとは思えない。

(気になるのは彼の愛人が呪術がつかえることだけど……)

「……大丈夫ですか? ミス・リディア」

 ずっと脳内万華鏡を注視していた所為で周囲への警戒をすっかり忘れていた。不意に掛けられた言葉にはっと視線を戻す。

 黒髪の紳士が一人、座るリディアを見下ろしていた。


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